占いの歴史ー6

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占いの歴史ー6

 日本の歴史に現れる占術家のトップバッターは何といっても倭(わ)の国の女王・卑弥呼(ひみこ)です。
弥生時代後期の3世紀末、古代中国の西晋時代に編纂(へんさん)された史書「三国志」のうち,魏に関する部分を記した「魏書」内の「東夷伝」には、当時の日本である邪馬台(やまたい)国の記述があります。邪馬台国の女王卑弥呼は、鬼道(呪術=占術の原型)を駆使して衆人を畏怖させ従わせて国を治めたとされています。
ただし、これはあくまでも中国の史書に記載された記録ですからどこ間frが真実かはいまだに議論の的になっています。
日本古来の占いが史書に登場するのは、8世紀の奈良時代、神話を基に編纂(へんさん)された「古事記(712年)」や「日本書紀(720年)」に記載がある「布斗麻邇(ふとまに)」という卜占(ぼくせん)の一種です。その方法は、牡鹿の肩甲骨を、桜の木で焼き、そのひび割れ模様の状態で吉凶を占うもので、記紀の記述では、伊弉諾尊(いざなきのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の夫婦が国土を築くために、良き後継者を得ることができるかどうかを天神(あまつかみ)に問うたところ、天香山(あまのかぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を内抜きて,天香山の天波波迦(あめのははか=うわみずざくらの古名)を取りて占合(うらない)をすべし、と教えたとあります。
この卜占(ぼくせん)の一種である「ふとまに」による占いでは、牡鹿の肩骨を上溝桜(うわみずざくら)の木皮で焼き、そのヒビ割れの形状が異常であれば、戦乱や疫病や天変地異の出来事や凶作に襲われるとされ、そのヒビ割れの形が良ければ稲作もよく穏やかな日々が訪れるとされたのです、
この鹿の骨を用いた「ふとまに」は、やがて、中国から渡来した亀の甲羅を用いての亀卜(きぼく)にとって代わられて、次第に消えてゆきました。
その亀朴もまた、葦(あし)の種類である「イ」を用いた周易の出現で姿を消してしまいます。