占いの歴史ー9 安倍晴明

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占いの歴史ー9

 安倍晴明は28歳の天暦2年(948)、師の推挙もあって、宮中で宿直や警護、その他の雑事に従事する大舎人(おおとねり)寮に属すことになります。この役は下級官職ながら律令制では中務(なかつかさ)省に属し、左右2 寮に分かれて定員は左右各800人 (のち左右合せて400人に削減) で、これが清明の世に出るきっかけになります。
そこで頭角を現した清明は天徳4年(960年)に、陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職である天文得業生に抜擢されます。そのとき40歳、当時としては遅い出世でした。
官職としての出世は遅い晴明でしたが、占いの才能は抜群で、貴族社会み認められただけでなく、宮廷に招かれて村上天皇の御前でも占いを求められるなど、陰陽師としての地位は確たるものになっていました。
やがて、50歳を過ぎた清明が天文博士に任ぜられ我が世の春を謳歌していた貞元2年(977年)、師の加茂保憲が病に倒れて没し、安倍家は賀茂家と並ぶ二大陰陽家として肩を並べることになります。
天元2年(979)、59歳の晴明は、皇太子師貞(もろさだ)親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗(山賊?)を封ずる儀式を行って、成果を示しています。
この事もあって、花山天皇在位時は信頼も厚く、宮廷内の占いや陰陽道の儀式を清明が一手に引き受けていました。