国譲りの舞台 出雲大社

出雲の神話は、本当に存在していた!?

出雲大社にやってきました。正式には「いずもおおやしろ」、通称「いずもたいしゃ」と言います。記紀(『古事記』と『日本書紀』)の神代においてはっきりと神殿造営が記されている唯一の神社です。

主祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)

大国主命は天照大神の弟にあたる、須佐之男命(スサノオノミコト)の子孫であり、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)によって始まった日本の国造りを、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)と共に完成させました。

完成の後は、「国譲り」により、国を天照大神に譲り、出雲大社に住み、その歴史は今日に至ります・・。

 

日本神話に登場する八頭八尾(やまたのおろち)の大蛇。高天原を追放された須佐之男命が、出雲の国、斐伊川の上流で、八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)に悩まされ、国津神を救うため、八俣遠呂知と戦い退治します。

その時、尾から神々しい剣が現れ、須佐之男命は天照大御神に献上します。今日まで伝わる三種の神器の一つで、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、天叢雲剣(あめのくらくものつるぎ)とも言います。

そして、一時追放されていた須佐之男命ですが、このことで天照大御神に認められます。

八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)を倒し、櫛名田比売(クシナダヒメ)を娶った須佐之男命は、そのまま出雲に住みます。

 

大国主命は縁結びの神でもあり、決して欲張ったりせず、また稲葉の白兎を助けたりして非常に人柄も好く国を治めるにも立派な人格者ということです。

 

しかし、後になって、やはりこの出雲の国も高天原の国にしたいと天照が考え「国を譲りなさい」と大国主命に言います。

この国譲りの神話も非常に重要なのです。いずれ稲佐の浜に行って、武御雷の神(タケミカズチノカミ)と建御名方神(タケミナカタノカミ)「大国主の御子神」との対決があります。

 

この出雲大社と高天原、天津神と国津神という地上と天上の争いというのが出てきます。田中英道氏によると、これは東国と西国の争いということで、この後、天孫降臨があり、その前触れとして高天原がいかにして西方と結びつくかという意味でも、出雲大社が大変重要なのですと言われます。

「出雲大社」の大社というのは神宮より少し格が落ちますが、鹿島神宮、香取神宮が高天原系の代表的な神宮であり、西方の出雲大社が代表的な神社になるわけです。

大国主命(オオクニヌシノミコト)は国を治めることで、天照から玉(タマ)を授かります。

この玉は、田中教授は太陽といいます。太陽こそが日本の伝統であり基本であると・・。

大国主命はそれを与えられたために、国を統治することができたわけですが、

やはり、日本の基本は「玉」。 勾玉(まがたま)は、縄文・弥生時代から日本に伝わる装身具で、

皇室の三種の神器にも八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があります。

これは太陽と月(三日月)で、このような玉は 1万年前から日本にはあります。この玉が国を統一するためにも精神的な存在として重要であり、それがここでも垣間見られ興味深く感じさせられます。

 

出雲大社の拝殿             

出雲大社には素晴らしい「しめ縄」がかけられています。

しめ縄は「縄文の縄」のことで、神様が降りた神聖な場所を示すものです。

出雲大社のしめ縄は、長さ13.6m、重さ5.2tという日本最大級の大きさとのこと。飾り方も一般的な神社とは異なるようです。

皆さんはお相撲取りのしめ縄を思い浮かべることでしょう。これは実を言うと同じなのです。

すべてを紐で周りを囲む(結ぶ)ことで、横綱も神様なのです。それに値しない横綱もいるかもしれませんが、あの強さが、この中に神様が居られるとみたのですね。

 

続く    お楽しみに


東国三社を歴訪する(6)息栖神社と東国三社巡り

東国三社の最後の神社「息栖神社」にやってきました。

この息栖神社は鹿島神宮や香取神宮のようには知られておりません。

ではなぜこの神社が重要なのかと言いますと、「天の鳥船」という神が祀られております。「天」、「鳥船」の由来が示されております。

鹿島神宮が「タケミカズチノカミ」、香取神宮が「タケフツノカミ」、この二柱が日本のお天道様であり、この東の海から太陽が昇るという意味なのです。

この地にたくさんの神社があるということは、太陽を守るという意味があるということです。

日本の神というのは天照という女性であり、あまり強い神ではありません。それを、

両神社を守る剣豪二人が、国譲りの時もお出になられ、高天原を守るという役割を演じたのです。

この息栖神社の場所が天孫降臨の時に鹿島から鹿児島へという動きをする出発点の場所であり、鹿島立ちの出発点である息栖神社の別名「天の鳥船」は「鳥のように早い船」という意味でありました。

確かに歩くよりは遙かに早く、また沢山の武器や物資を持っていける。

日本が海の国であるということを示しているのがこの関東の三社であるのです。

 

それでは、これから港に行き船が鳥のように飛んでいくという実感を味わってみましょう。

九州には隼人(はやと)という地名があります。

隼人・・・熊襲(くまそ)と同じく、古代の九州に居住した豪族。

隼人は火照命(ほでりのみこと、海幸彦)の子孫。

 

それは正に、鳥のように早く飛んできたという意味で付けられています。

従ってこの地は「海に開いた関東」ということで重要な意味があるのです。

 

息栖神社は、応神天皇の時代に出来たと言われていますが、神社として成立したのは八世紀ごろで、この御神木はその時からあったろうと思われます。

ご覧になられて分かる通り、木のことを柱と読みます。

 

柱(はしら)とは神を数える時に使います。

一柱(ひとはしら)、二柱(ふたはしら)・・・十二柱(とおあまりふたはしら)と数えます。

日本人の神のイメージは、樹木を想定したのだろうと思います。御神木がこのようにしめ縄に捲かれているのは、これが神であるから・・自然信仰の形であるのです。これこそが日本の原型なのです。

このような神社を造るというのは、実は後からなのです。それは仏教がきてからなのです。

 

応神天皇の頃には秦氏が来ている

応神天皇十四年の春、百済を経由して中国よりも西方の弓月国から1万8000人もの渡来人が来日し、応神天皇は快く迎えています。

 

西の方から来る人達は、神殿を造るのが宗教だと思っていますから、その後は社殿が出来ていくわけです。それまでは、樹そのもの、太陽そのものを拝んでいればよかったのですが、彼らが来ることによって社殿を造るようになっていったのです。

しかし、それが記憶をしっかりと定着させるためには好かったことだろうと思います。

 

利根川あたりは殆ど縄文海進といって、縄文時代は海でありました。そこに東国三社があるわけですが、昔は伊勢参りのあとに必ずこの東国三社をまわるという習慣がありました。

それは伊勢神宮が、天照大御神を祭ってはいますが、こちらは、天照る神、つまりお天道様そのものを参拝するという、つまり太陽そのものを拝むわけです。

鹿島神宮で説明しましたが、そこには本殿がありませんでした。

太陽が昇る真っすぐの道に本堂がありました。

従って、江戸から来た人たちが、ここに船でやってきて、そして二つの神社をお参りする習わしになっておりました。

また、ここには井戸があります。その井戸から大事な水を飲むということも、自然信仰の一つとして大事な習わしであったのです。

要するに関東全体が海と共にありましたので、倭が山に囲まれた場所であったことと対照的です。それが日本を造る大倭日高見国という二つの国があったといういことを証明しているのです。

伊勢参りの後、東北三社巡り、あるいは三社巡り詣でといって、江戸参りの人たちが必ずここの大きな鳥居に着いたのです。 伊勢参りと東国という繋がりを認識する・・。それは江戸までは神宮が三つありました。そのあとに、この神社に来るということが大事でありました。

ここには井戸があります。その井戸にまで鳥居がついている。つまり井戸も神でありました。それが水という神聖なものを祀る意味があるわけです。従って人々は自然そのものを敬愛していたということがわかります。

田中教授の説明でした。

 

次回は、国譲りの出雲大社に行ってみましょう。お楽しみに。


東国三社を歴訪する(5)香取神宮

鹿島神宮の祭神が「武御雷神」(タケミカズチノカミ)でしたね。

次は建布都神(タケフツノカミ){経津主神(フツヌシノカミ)のこと}というもう一人の剣豪が祭神である香取神宮にやってきました。

{㊟香取神宮の祭神は、フツヌシ大神として広く知られていますが、『日本書紀』の一書=斎主神(いわいぬし神)という説もあります}

さて

神宮の格式が、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮と三つあるなかで、何故二つの大きな神宮が関東の、この場所にあるのでしょうか。                                                                                                              

写真提供:香取神宮 / 鹿島神宮

それは、伊勢神宮が天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祭るということで、この三つの大神宮というのは、日本が天照や天御中主(アメノミナカヌシ)など、神話で貫かれるひとつの太陽神、あるいは日本(ひのもと)である関東という場所が、日が昇る所であり、ここに、古の日本の人々の、心の在処を彷彿とさせるからにほかなりませんと、田中英道氏は語ります。

また、海の近い香取という名称ですが、今は「香取」という不思議な漢字が作られていますが、「鹿鳥」のような読み方もできるわけです。            日本は農耕民族と思っていますが、実はそうではなく、農耕も含め、狩猟、漁猟など様々な職種で仕事をしていたと言えます。                              関東東北は自然が豊かで、そして同時に太陽に近い場所ということで、世界から日本にやってきた人々は、太陽を求めに、あるいは太陽が昇るところをみたいと・・日高見国という名称はそのような意味があるのです。

香取神宮は一番海に近く、また鳥という意味は、船が鳥のように飛んでいくという、船に対する強い交通機関が、今日でいう飛行機や新幹線のような交流の場として、日本でも重要であったということが分かります。

更に、関東地方では大河の川が江戸時代に整ってきましたが、入り組んでいましたので、船が湾や運河などで結ばれていました。ですから人々は海に近い所、あるいは海の中で、生活をしていたことがわかります。

鹿島・香取はそれに結びついて日高見国あるいは高天原という倭国(やまとこく)以前にあった日高見国の先祖たちを高天原と言って、その中心地に鹿島神宮と香取神宮があるということです。

そういう意味で、この二つの神宮はそれぞれの役割があるように思います。

そのひとつは、香取神宮には物部氏(もののべし)になる、この中心的役割を演じてきた神宮そのものでありました。そして太陽を中心に祀るという形をとっているのです。

~「香取」という地名についての別の解釈~

『日本書記』に、「此の神(=祝い主)、今、東国の楫取(かじとり)の地に在り」と記されています。これを根拠に、カトリは舟の楫取の意である、という説が有力です。当初、香取神宮を奉斎していた有力氏族は、強力な水軍を保有して香取の海を制圧していました。この海の周辺には、多くの水夫(=楫取)たちが居住していたようです。という説もあります。

物部氏(もののべし)

神大から氏族で、鉄器や兵器の製造など軍事を司っていました。始祖は、神武天皇に先立って天降り、葦原中国(西日本)を治めていた饒速日の命(ニギハヤノミコト)。蘇我馬子らと仏教の導入を巡って争った物部守屋(?-587、画)が有名です。

中臣氏(なかおみし)

中臣氏の祖先は天孫降臨で邇邇芸命(ニニギノミコト)に伴って降った天児屋命(アメノコヤネノミコト)。氏神は鹿島神宮(茨木県鹿嶋市)の武御雷神(タケミカズチノカミ)。

このことから、中臣氏は東国を中心に栄えた縄文の出自であることがわかります。

中臣鎌足(614-669)は、大化の改新の中心人物として知られ、鎌足以後は藤原氏を名乗り大いに繁栄しました。

両神宮の関係は、一時論争にもなりましたが、香取神宮の方は、武御雷神が国譲りで中心人物になるので、建布都神(タケフツノカミ)はそれを助ける役割と見られています。

二つの神社で、どちらが偉いかという論争ではなく、役割があったということです。ひとつは祈りであり、ひとつはそれを支える様々な物(物部氏の物)、つまり二つが一つとなって高天原を支えていた。あるいは日高見国に居られた士族たちが後になって、後代倭国に皆移り、日本を新しい倭国として作っていった。これがまた大倭日高見国(オオヤマトヒダカミコク)という重要な二つの神だと言えるのです。

千葉県提供: 香取神宮 本殿

香取神宮の建物は、鹿島神宮とは対照的です。これは1700年ごろ江戸時代に再建されたということで、江戸時代(中期)は加羅風が流行って神社そのものも赤く装飾的になっています。                                               江戸の初期に造られた日光の東照宮のように建築が非常に凝っています。これがかつての日高見国の中心的な神社であり、それを江戸時代になって復活しました。 つまり江戸は関東の中心地が首都になるわけで、徳川政府は鹿島・香取を非常に重視したわけです。ここにも勅使がこられて天皇家もここを重視されておられたということです。                                                  明治以降も海の防衛ということで、二つの神社が大きな役割を演じ、戦艦鹿嶋・戦艦香取という海軍にとっても重要な役割を演じたわけです。従って、この地が海と通じているということが非常に重要なのです。

神話も現代に続く海の神として、非常に重要な域を締めているのです。こういう意味で皆さんも見ていただきたいと思います。以上田中英道教授の解説を記させていただきました。

香取神宮 楼門

1700年(元禄13年)に徳川幕府によって造営されました。三間一戸の純和様建築。丹塗りが施されています。屋根は入母屋造銅板銅板葺(当初はとち葺)。南側、楼上の額は東郷平八郎の筆によるもの.

香取神宮の楼門は、元禄文化の時代の建築を現し、また当時の装飾的な唐風の建築をも現わしています。

また、江戸時代に、鹿島・香取の復活の意味があり、長い間、京都や関西の文化が続いていましたが、江戸時代になって、やはり東の文化を再興しようという、これが水戸の国学にも表れています。要するに関東、東国の倭省あるいは、京都・奈良が日本の古い時代の文化より更に古い文化があったということを少し気付き始めたのです。

田中英道教授の書籍「東京の歴史」にも記してありますが、江戸というものが、更に古い日高見国という国があり、そこに太陽を中心とした祭祀国家があるのだろうということを予想したわけです。

それが今の縄文文化と重なり合って、見ごとに一つの文化の長い歴史があったということが分かってきたのです。そしてそのことが、江戸が首都になり、国府文化が水戸に花が咲き、水戸光圀公がそれを奨励されたわけです。それこそが日本の東国の日高見国といったかつての高天原の強いイメージの復活というか、縄文弥生という言葉は江戸時代には使われておりませんが、しかしそういう時代があったという記憶が、この神宮にも結び付いていると田中教授は見ています。

それは単なる7,8世紀以降の大和時代は、確かに素晴らしい文化を生み出したわけですが、更に奥の、さらに古い時代・・ちょうど元禄文化の頃に芭蕉という俳人が1690年代に「奥の細道」を書かれた。これこそが江戸と東北全体を包む俳諧の見事な文章であったわけです。そこでこの「奥」というのは何であったか? いろいろ言われますが、ある意味では時代の「奥」、つまり縄文・弥生の時代の奥、東国を感じさせられるわけです。これはまたひとつの解釈ですが、そういうことを思わせるこの香取神宮なのです。と、語っておられます。

更に、楼門の中にある見事な狛犬ですが、これは獅子・・ライオンです。決して日本の動物ではありません。                        ライオンのモチーフが使われたのはアフリカ、中東の奥の国々で獅子が描かれるのです。それが遠くの日本までやってきた。        それをもたらした人々は中東の人に違いないのですが、中国と中東、古代ローマまでを結ぶ、長い道のりのシルクロード、その間にはペルシャや様々な中東の大国があり、そこで大建築に使われる一番の動物は獅子でありました。それが日本までやってきたというわけです。

 

従って日本は孤立した東洋の国ではなく、正に中東、西欧から来た人たちが、この日本で定着したと言えます。その中に勿論秦氏、ユダヤ人たちもいました。この香取神社は古くからあり、江戸に入ってまた見事に再建され、素晴らしい建築が造られているわけですが、この獅子だけは古い木造です。しかし見事な彫で遺されているのです。

 

私たちは、日本という国の世界性を、寺院や仏閣の中で観ることができるので、そういう歴史的な眼が、文化をより注目する視点となっているわけで、単なる江戸時代に造られた建築と見ないで、歴史をあるいは空間を、世界を観るという・・建布都神(タケフツノカミ)も実を言うと剣の神でもあるし、同時に物部氏という有力な日本を形成する貴族たちが、いかに日本に貢献したか、その中にこのような古く海外のものまでもたらしていたということも注目すべきであろうと思います。

いずれにしても、東京に近い場所に、これだけ立派な神社があり、その歴史を語っているということを、我々はもう一度見直す必要があるだろうと思います。と田中教授は語っておられました。

香取神宮の建築、東照宮と重なる魅力

      画像:千葉県

香取神宮 拝殿・本殿

拝殿は1940年(昭和15年)、国費により造営された。黒の漆塗りを基調とし、極採食を取り入れている。本殿は1700年(元禄13年)、徳川幕府の手により造営された。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、屋根は桧皮葺(もとは柿葺)。

香取神宮は江戸時代に復興した見事な建築を観ることができます。

徳川家康を祭る日光東照宮の建築の流れを汲んでいますが、更にご覧になって判ると思います。

均整の取れた見事なプロポーション、そして黒と金の様々な装飾を入れ、江戸の代表的な名建築となっていると言えます。これは建布都神(タケフツノカミ)、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の忠実な護りてとしての関東の二大神宮の重要性をより宝占めていると言ってもいいと思います。

香取神宮の重要性は、関東だけではなく、茨木は今、残念ながら文化圏としてあまり宣伝されていませんが、江戸時代に建てられたこの神社が古い時代の東国からの推移を現してきた日本書紀の時代からずっと続く関東という日高見国の記憶から、ここで開花していくと言ってもいい、もう一つの新しい歴史を我々は見直すべきと思います。と・・。

香取神宮の要石

鹿島神宮の要石がナマズの頭を、そして香取神宮の要石は尾を、それぞれ押さえつけているのだそうです。

地震や災害に対するこの荒唐無稽な考え方は、今日でも予知さえ出来ず、自然の動きに従うしかない状況は同じ、祈りと信仰が心を救うということで、バカにすることはできないと思います。

祖先の人たちが、地震で苦労していたことがよく分かります。

今日では科学と称して自然を研究していますが、これを見るとこれが発祥と感じます。

またこの要石は関東だけではなく日本全体を治める意味もあったと思われます。

香取神宮 奥宮

奥宮は広い樹蒼の中に建てられています。神様はこの高台から国を見渡しておられたと言います。

奥宮が存在する意味について田中教授はこのように言っておられます。

奥宮とは、奥で何かを成らしめているという存在。つまり自然が神であり、その自然を拝む場所として神社が造られた。そして更にその奥に奥宮として建てられた。従って神社は山の中にあるのが普通です。やはり、神社というのは自然信仰を基にしており、そこには神がお隠れになっている。我々は遠くから拝むのがまた自然信仰なのです。この香取神宮の奥宮はなかなか素晴らしい奥宮です。との感想を述べておられました。

次回は鹿島立ちの出発点「息栖神社」をご紹介します。お楽しみに。

文中の紹介本

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。

 


東国三社を歴訪する(4)鹿島神宮

日本は「日の本」、日の丸は「太陽」。太陽が昇る国は「日本」として古から世界の人々、特に西方の人々は羨望の気持ちで見ていたといいます。

その日本で、太陽に一番近い場所が関東・東北という事で、縄文時代からこの場所に鹿島神宮が建てられ、文化が発展していった特別な存在とのことです。

従って、縄文土器や遺跡も関東・東北が一番多く、人口も90%がこの地に住んでいたとされています。

神社に対する記録には、鹿島神宮、香取神宮、そして伊勢神宮の三つがあり、このうち二つの、鹿島神宮と香取神宮が関東にあったということが大事なことで、しかも記録には「大倭日高見国(おおやまとひだかみこく)」という言葉が使われていたことが田中英道教授の調査で解ったということです。

これは、日本は「大倭」と「日高見国」が合体した国であるということが、誰もが読む祝詞に記されているということです。

神道で読む一番大事な祝詞に書かれているにもかかわらず、歴史的な検証がなされず、せいぜい三輪山で太陽を望む印象を言葉にした程度の理解でしかなかったものが、実は関東・東北が日高見国であったという発見です。

その鹿島神宮は、太陽を拝む自然信仰として建てられております。

一般的に神社には神殿がありますが、鹿島神宮には、ないのです。

正門は西で、東に向かって真っすぐな参道があります。太陽が東から昇って降りる本道が中心となっているのです。従って南にある本殿は北を向いています。

この鹿島神宮は「日が高く昇るのを拝む」という信仰でありました。

鹿島神宮には鹿がたくさんいます。もともとは鹿の島だったそうです。

それは縄文海進といって、暖かくなると海が内陸に迫って入ってくる。そこに太陽が昇る一番近い場所(最東端)という地形を利用して建てられています。従って、正門を出てまっすぐ行くと、更に海の中に鳥居が立っています。鹿島神宮は海に寄り添う形で作られたということが分かります。

先ず、鹿島神宮を観ることによって、日本の歴史を知ることができますので、早速中に入ってみましょう。


鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市にある神武天皇元年(紀元前660年)創建の神社。全国にある鹿島神社の総本社である。日本を最初に平定し、国譲りを成し遂げた軍神・武御雷神(タケミカズチノカミ)を祭神とする。神社の格式を定めた「延喜式」(927年)では、伊勢神宮内宮、鹿島神宮、香取神宮三社のみが神宮と表記される。

 日本は縄文時代に東国の日高見国に始まった。その中心がここ鹿島神宮であり、神話に登場する高天原である。邇邇芸命(ニニギノミコト)は、鹿島から鹿児島へと船により天孫降臨し、数代の後に神武天皇が西国を征した。神武東征においても、その危機には鹿島神・武御雷神が刀を降ろし(日高見国が加勢)、天皇を助けている。            文・画像提供:鹿島神宮

鹿島神宮境内案内図

  拝殿が北を向いています。本殿は拝殿の後ろ側にあります。拝殿と本殿は真正面にあるのが一般的ですが、鹿島神宮は太陽を拝むのが主要であるので、このように配置されているのですね。

しかし、中にある礼拝所は東を向いているようです。

ここの神様は『古事記』の天地開闢後は、三柱の神様で、最初が天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)、次は高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カムミムスヒノカミ)の三柱の神様で、総称して造化三神と言われております。

このことはカタカムナの80種のウタヒの中の7番目にも記されております。

(7)「マガタマノ アマノミナカヌシ タカヒムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ」

  勾玉(精神の核) 天之御中主神(宇宙の神) 高御産巣日神(天の神=男) 神産巣日神(地上の神=女) ミスマルノタマ(スカラー波)「カタカムナ記」

そして天照大御神(アマテラスオオミカミ)が初代の神様となります。 この時代が日本の本来の基であったということになります。

そして、ここの御祭神は建御雷神(タケミカズチノカミ)です。

縄文時代は鹿と犬(縄文犬)が一番人間に近い動物で、神として大事にされていました。鹿は皮を衣服にしたり、肉を食料にしたりして大変貴重な動物でした。当時は大神(おおかみ)(狼)もいて、鹿の数も制限されていたようです。国譲り神話において、鹿の神である天迦久神(アメノカクノカミ)が、天照大御神の命(めい)を武甕槌大神に伝える重要な役割を担ったことから、現在でも鹿が神の使いとして大切にされていますと、記されています。(鹿島神宮記)

鹿島神宮 摂社 奥宮

 奥之院も北を向いています。

これは太陽そのものを信仰するということが明らかです。

「慶長十年(1605)に徳川家康公による本宮の社殿として奉納されたが元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当たり現在地に引移して奥宮社殿となった」と説明されています。         

 本来は太陽だけを拝むので建造物は無くてもよいのですが、それを形式化し、神社化したのが実は、ユダヤの人、秦氏(一神教の人たち)が来てからなのです。また形式化することによって、このように残っていく。仮に太陽神だけだと拝むのを忘れてしまい、信仰が途絶えてしまうことにもなりかねませんが、彼らの役割はこれを形式化して残したということにあり、大変面白い歴史の事実となっています。                   一時、この環境が荒れた時期もありましたが、科学者たちの太陽が研究の対象になっており、自然というものを大事にする中で復活しています、と田中教授は言います。それも、この鹿島神宮を観ると、納得させられますと・・。

武御雷の神とナマズ 

これは、最近できた建造物ですが、武御雷の神がナマズの上に立っている像です。  本来は剣豪ですからナマズとは関係ないのですが・・、

しかし、要石があり、ナマズは地震を予知する能力があるということで、建てられたのでしょう。

武御雷神は 日本を武力で守ることを教えた神様でもあります。

縄文時代の人々は、殆ど戦争らしきことはしていないと言われています。 非常に穏やかな人たちですから。

それは天照大神が女神だから、国を守るのに戦うことは主要な手段ではないということを示しているわけですが、そこに武御雷神という軍神がいることによって、鹿島神宮はその彼を祭神として守っています。しかし本来信仰の基は太陽なのです、と田中教授はそう仰っておられます。

武御雷神(タケミカズチノカミ)はこの後、天照大御神を護るために二度大きな役割を行っています。一つは国譲りの神話の時に、武御雷神(タケミカズチノカミ)が香取の神宮の神と共に出雲に行き、建御名方神(タケミナカタのカミ)を破り、殆ど戦わずに諏訪に逃げてしまうということで、国を譲らせた事になります。

同時に神武天皇のときに倭(ヤマト)に行かれて、軍勢が病気になったときに「武御雷の神」が刀だけを送り、それを使って勝利した。この軍神が、高天原が戦う時には常に中心になっていたということが分かります。

ナマズについては、地震からナマズが救ったと言われています。滑稽ですが、今でも同じですが・・地層のズレとは言っていますが、誰も予知ができない。それでナマズが起こしたのだという説もあまりバカには出来ない・・・と。 やはり関東・東北は地震が多かったということを表わしていると思います。と田中教授は仰います。

 石(かなめいし)

地中に埋まった要石・・・これが何故祭られる?

見える石は小さいが、巨大な石が地中に埋まっています。

これが本来の神道であると田中教授は言います。

岩、石、樹木など自然の物そのものを信仰する。そこに脅威を、理解に絶する何ものをも感じる・・それが神である。       岩を見て凄いと感じ、それが神を語っていることになります。

それをヨーロッパの人はアニミズムという。

『元々は、すべてに霊魂が宿るという考え方。西洋では、キリスト教が進んでいるという固定観念から、アニミズムを原始的な未開社会の信仰と考えた。』

それが、御霊(みたま)信仰、皇祖霊(こうそれい)信仰と繋がって、全体が神道ですから、神道そのものもアニミズムとは言えない。つまり、アニミズムはその一部である。それをゴッチャにする人は日本人に多い。

本来は御霊信仰という死者に対する信仰、古墳や前方後円墳など皇祖霊信仰(歴代の天皇を始め、皇祖=天皇の祖先の霊を祀ること)、我が家の長を祀るなどの神道にも結びつきます。

この要石は自然信仰の形を今日でも残しています。要するに自然道というのは、自然にあるものを信仰していく。(田中教授)

このことについて、本居宣長が別の定義をしています。(1730-1801)

『35年を費やして「古事記」を研究した他、大昔から日本に脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、中国の儒教など外来的な教えは自然に背くものであるとした』

鹿島神宮の樹叢                       

鹿島神宮の樹叢は天然記念物に指定されております。

広大な森には杉・シイ・タブ・モミの巨木が生い茂り、その種類は600種以上にも及ぶと記されております。参道の樹木は神格化した伊勢神宮と違って、元来そのままの原生林となっています。 縄文時代の人々は原生林そのものを信仰したことが分かります。

 

ある種の畏怖の念を起こすものをすべて神とした。天上の全ての物を作ったのが神ではなく、(そういう神は、日本人は信じない。)日頃見える自然の脅威、自然の畏怖の念を起こすもの、それがみな神であったと。

私たちは常にそういうものに取り囲まれて生きています。この鹿島神宮の野趣あふれる樹々を見ていると、ある種の畏怖の念を感じます。と、田中教授は仰います。

 

1日40万リットル以上の湧水があり、水底が見渡せるほど澄みわたった池。

昔は参拝する前にここで禊をしたという。現在でも200人もの人々が大寒禊を行う。(鹿島神宮)

この池の水は、どんなに干ばつになっても、潤っている不思議な池なのだそうです。

縄文時代は水が信仰の対象になっていました。それを描こうとしたのが縄文土器の表面で、もちろん紐で描く、創造的芸術的な水を意識しようとした考えがあったと思われます。それは水が自然信仰としてあったからで、日本は自然をいかに抽象化してでも信じようとする豊かさを造形的な思考で作り出すという、火焔土器というのは考えられないが、火の上の水をいかに抽象化し、美しく描くかということがあっただろうと想像します。紐を表現手段とすることは変わらないと・・

水そのものを拝む、それがここにも現れています。太陽・木・岩・水という四大要素、火・水・土・地、この四大要素を信仰するというのが、日本にはずっとこの縄文時代からあったことが分かります。

これは、西洋では自然を構成する要素としては元素として考えますけれど、日本ではそのものを信仰する。それで自ら調和を感じるという。あまり理論化はしないがしかし存在は良く知っている。ということができると・・・。

この御手洗池は水らしい水を感じることができます。魚も泳いでいます。と、田中教授は感慨深く語っておられました。

 

高倉下命(タカクラジノミコト)の末社 潮社(いたのやしろ)

関東の神々が関西の神々と一体化している発見

大和の神様だと思われている「高倉下命(たかくらじのみこと)」という神様が、関東の鹿島神宮の神様であった。その神様が大和に行かれたという実証。これまでは大和のことは全て大和の神様がなさったと思っていたが、実は関東の神様が行かれている天孫降臨が、高天原から船で行き、鹿島⇒鹿児島へという関係を作って東征され、そこで会われた神が「高倉下命(たかくらじのみこと)」、その神が鹿島神宮の御祭神の武御雷神の剣を(250数センチ)天から頂いて敵の軍勢を打ち破ったという逸話がある。大和の神だと思っていたが実はこの高天原の地を歩いてみると、ここに高倉下命の末社潮社(いたのやしろ)があり、この地から大和に行かれたのだと分かる。

 神話を読んだり、歴史の町を歩いたりしていると、関東と関西の神々の連携が分かるひとつの例でもありますと田中教授は言います。

「潮社(いたのやしろ)は潮宮(いたみや)とも呼ばれ、鹿島神宮の末社で、高倉下命(タカクラジノミコト)を祀っています。神話の中で、神武天皇が日向を発ち東へ進み大和へ向かったとき、長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、熊野山中で危機に陥りました。このとき高倉下が神武天皇のもとに師霊剣(フツノミタマノツルギ)を持参したとされ、その霊力により軍勢は毒気から目覚め、活力を得て戦に勝利、日本の建国に大いに貢献したとされます。荒ぶる神を退ける力を持つ、この剣は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が葦原中国(アシハラナカツクニ)を平定したときの剣です。(と潮社に記されていた説明です)

高天原と鬼塚

「鹿島神宮の近くにある、太平洋を見下ろす台地。高天原という地名が現在も引き継がれている。鹿島神宮の神である武御雷神がここに登り、国見をした。隣接する「鬼塚」は、武御雷神が従わない鬼たちを退治し、その首を埋めたという。鬼の血で染まったため、今も砂が赤いと伝わる」。

鹿嶋周辺には3か所ぐらい高天原という土地が残っています。

高天原が高いというイメージはなく、海抜40mほどで、丘という感じはしますが、常陸という所を中心とした、鹿嶋、香取を含めたこの地域全体を高天原と言います。それが現実として日高見国という国があったのです。

日高見国というのは、大倭日高見国((おおやまとひだかみこく)という、そこが日本であったと祝詞が言っていますが、日高見国が日本書紀や古事記においては高天原という。

それは倭(やまと)にいた人たちの祖先が住んでいたところで、人が死ぬと神になるという神道のあり方で、祖先たちがみな神々であるという認識が当然その場所が国津神(くにつかみ)、または現地の私領の人たちの関係と同じ日本列島の中でも東の方を神々の国として高天原と呼んだ。そこがこの中心地帯であったということで高天原と呼んだ。ここに書いてあることは多少無理がありますが、そう解釈しないと土地の名前と神話が結びつかない。

日高見国というのは、中部 関東 東北全体が日高見国と呼んだということが、大体記紀によっても分かることで、それは過去の話しだということが書いてある。

しかし私(田中教授)は縄文の時期を日高見国と呼んだ。北海道から三重県まで日高という名前の土地がある。これについては前にも記したが、こうして歩いていると、何気なくあるという所が歴史の冥利というか、実地に歩いていると意外なところに歴史が現れてくることが分かる。つまり、それを知っているかどうかの問題である・・。

鬼 塚

鬼というのはいったいどういう人かというと、一説には縄文人というか、中央と結びつかない人たちというか、一方では、やはり顔が赤くなった白人たち、つまり日本人と違う形をしているわけです。それは外来人、帰化人たちが住んでいたという可能性もある。そういうことも含めて、この時代が現代の地続きにある話だということを、つまり古代という特別視する必要はない。できるかぎり神は人間であったというような荒井白石の話しですが、そういう考え方で見ることは必要である。この辺に高天原という土地があったことで、古い士族たちが、中臣(なかとみ)氏、物部(もののべ)氏といった人たちが、鹿島神宮や香取神宮の近くにいたということを我々は認めることができるだろうと思います。

※荒井白石

江戸中期の朱子学者、歴史、地理、言語、文学など多数な分野に精通した。著書「古史通」では、「古事記」「日本書紀」などを研究し、神武天皇以前の神代史を明らかにした。

同書は、1716年(享保元年)に完成したもので、古代の神々を現実の人間として捉え、高天原は、天上の場所ではなく常陸国(現在の茨木県)だとした。

以上鹿島神宮の散策について、田中英道教授の足跡を追ってみました。

ありがとうございました。

次は東国三社のひとつ、香取神宮を訪ねたいと思います。お楽しみに・・

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。

 


東国三社を歴訪する(3)鹿島神宮の御船祭

鹿島神宮御船祭        

平成14年壬午(みずのえうま)御船祭(みふねさい)は 干支の組み合わせの19番目。               陰陽五行では、十干の壬(みずのえ)は陽の水、十二支の午は陽の火、相剋(水剋火)となります。                                                                                                    

                                            

鹿島神宮の御船祭が12年に一度、午年に斎行されるのは、十二支が一巡すること、また午は方角では南、時刻では正午と陽性が最も盛んであることから来ているとの理由。そしてこの大祭にはあらゆる邪気と不景気を祓う一陽来復の願いが込められているということです。

12年に一度斎行される鹿島神宮の御船祭とはどんなお祭りなのでしょう。鹿島神宮のHPの映像から拝見させていただきましょう。

遠い昔、北の平野が太平洋に続く海だったころ、この高台に武甕槌大神(タケミカズチノオオカミ)をお祭りして鹿島神宮が造られました。神宮に残る古い記録では2600年以上昔のことだと伝えられています。1300年昔の常陸国の風土記にはこう書いてあります。

「あめつちの開(ひら)くるより先、高天(たかま)の原より下り越し大神の皆を鹿島の天(あめ)の大神(おおかみ)という」。

歴史の始まるずっと前ということですね。そして崇神天皇の時代には、神宮に御手座(みてぐら)を建て祭ったとも書かれていますから、少なくても風土記の時代よりもっと前に鹿島神宮はすでに建てられていたということになります。

9月1日 午前10時 例祭

 

天皇のお使い、勅使御参向。1800年も昔、崇神天皇の御手座(みてぐら)のお使いも、きっとこのようにお迎えしたのでしょう。

舞楽・蘭陸王、神輿、提灯櫓、お焚火、神幸祭(午後8時)、行宮(あんぐう)「神様が宿泊される宮」、ここでお祭りの一日目終了。

9月2日 午前8時 ・・・行宮御発與祭(あんぐうごはつよさい)・・神様の御神誉(ごしんよ)の出発前の式典。いよいよ鹿島の天の大神 タケミカズチノオオカミの御仁幸(ごじんこう)。後に従う供奉(ぐぶ)の人々は、なんと2600人以上、約2kの道を御座船が待つ大船津へと向かいます。

すごい行列。次から次へと旗やのぼりが通り過ぎます。人々の陣羽織や武具の飾りが陽の光にぎらぎら輝きます。

国宝・布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)です。

1300年の昔にかかれた古事記にはタケミカヅチの大神が、この剣となって神武天皇の危機を救われたと書かれています。神宮の法物(ほうぶつ)です。

御神誉(ごしんよ)の鹿島神宮御座船の出発です。水上13キロ、90艘にも及ぶお供の船が後に従います。

香取神宮の旗が立つ御座船、香取神宮のお迎え船です。はるばる本利根川の香取の坪宮から、この常陸利根川の加藤洲まで香取神宮の宮司さん神職二人が船で来られて、鹿島の武甕槌大神タケミカズチノオオカミ」のお迎えするお迎え祭りを行います。

4月に行われる香取神宮の式年神幸祭にも、12年に一度のお舟遊びがあり、その時には鹿島神宮のお迎え船が宮司さん神職さんを乗せて、牛ヶ原に向かい、香取神宮の経津主大神フツヌシノオオカミ」のお迎まつりをおこないます。12年に一度、鹿島と香取の神様がお互いに向かえ合われるのです。

「香取神宮 お迎え祭」の儀式、「浦安の鈴舞い」12年前の午年に生まれた可愛い巫女さんたちの舞が奉納される。お迎え祭りが終わると御座船は対岸の潮来河岸に向かい、数々の舞が奉納される。「日立成沢ささら舞い」「会瀬ささら舞い」「水郷太鼓」「御着船祭」

鹿島神宮の武甕槌大神タケミカズチノオオカミ」の御神誉(ごしんよ)が無事、安寧(あんねい)にもどって来られました。陸の上・水の上、合わせて15キロの旅、合計30キロにも及ぶ大行進でした。行宮御着與祭終了 鹿島神宮万歳! 企画  鹿島神宮

このお祭りを鹿島神宮のサイトから拝見すると、2600年以上前に武甕槌大神タケミカズチノオオカミ」をお祭りして鹿島神宮が建てられたこと、そして12年に一度そのお祭りが今日も続けられていることが記され、高天原の神々の賑やかなご様子が伝わってくるようでした。

そして当時の日本の国土は、北側は海が広がっており、鹿島の辺りは高台であったために、天孫降臨もイメージしやすくなります。

よくぞ、今日まで12年に一度の儀式として私たちに伝え残してくださったと感動の気持ちを抑えることができません。

田中教授の高天原は地上にあった。そして神々は、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社から船で天孫降臨し九州の鹿島の子供である鹿児島の天降川に舞い降りた。ということが理解できます。次号では、鹿島神宮の境内のご案内です。

写真:鹿島神宮

 

 

 


東国三社を歴訪する(2)国譲りと天孫降臨

今から1300年前に記された「古事記」と「日本書紀」、

「日本書紀」には、こんな物語が記されています。

日本にはかつて二つの国が存在していた。

1つはアマテラスをはじめ、多くの神々が棲む天井の世界「高天原」、もう1つはオオクニヌシが治める地上の世界「葦原中国(あしはらのなかつくに)」。

平和を謳歌していた2つの国だが、やがて大きな変化が訪れる。

天井の「高天原」が地上の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を平定するように動き出したのである。

高天原の神々はオオクニヌシのもとに舞い降りて、地上の国を自分たちに譲るように迫った。オオクニヌシはほとんど抵抗することもできないまま、地上の国を高天原に明け渡すこととなる。

この物語は国譲り神話と呼ばれています。
そして地上の支配権を手に入れた高天原の神々は次に大事業を行う事になります。

 

最高神やアマテラスの孫、その他高天原の多くの神々を天井から地上の「九州」に降り立たせたのです。

「天の神の孫が地上に降臨した」

その名の通り、この物語は「天孫降臨」と呼ばれます。

こうして高天原は地上の支配域を拡大させると、その後、高天原の直系の子孫である『神武天皇』が奈良の「ヤマト」で国家統一を果たし、紀元前660年、ついに日本は建国されたのでした。

このように、「国譲り」と「天孫降臨」の神話は、高天原の直系である「天皇家」の正当性を示す、とても大事な物語になっています。

 

天井に棲む高天原の神々による物語、「国譲り」と「天孫降臨」、「空想の世界」としか考えられない神話の物語は、いったい何を表していたのでしょうか?

そして、

「東国三社は『国譲り』や『天孫降臨』の出発点の場所である」

という田中英道氏の言葉の意味とはどういうことでしょうか?

田中教授はこう述べます。

「神話を解明するには、“神社”にもっと注目しなければいけません。神社は、古代の祖先たちが土地の記憶、伝承をもとにして建てたものであり、存在そのものが重要な意味をもっているのです。社殿の向きや鳥居の位置にも、何かしらの意図が隠されているのです。」  

 国譲りの神話ではこう記されています。

地上を治めていたオオクニヌシに、高天原の代表として、国譲りの交渉を迫ったのが、『鹿島神宮』の神。

その交渉に同行したのが、『香取神宮』の神。そして『船の神』として、この2神の御先導を務められたのが、『天の鳥船神(アメノトリフネノカミ)』という『息栖神社』の神なのです。

これらの神々は高天原の天空から、『船』で地上に舞い降りたと記されています。

そして、天空というのは東国三社のある場所「高天原」、現在の茨木県に当たります。

実際に鹿島神宮のすぐ近く、茨木県鹿島市に「高天原」という地名が残っています。

 

鹿島神宮、香取神宮、息栖神社・・・

東国三社は、『国譲り』の神話と密接に関係していることが分かりました。

神話が現実味を帯びてきて面白くなってきましたね。

次回は天孫降臨についてもう少し調べてみたいと思います。

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。


東国三社を歴訪する(1)東国三社と鳥居

 

   鹿島神宮
  香取神宮
  息栖神社

東国三社とは

茨木県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、茨木県神栖市の息栖神社の三社のことです。

この三社には不思議な「鳥居」があることに気付かれることでしょう。

まず初めに、その鳥居に注目してみたいと思います。

鳥居は外側から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居という順に数えられ、「一の鳥居」といえば、神社区域の入り口付近に建てられているのが一般的です。

ところが東国三社の「一の鳥居」は、神社の境内から離れたところに存在し、三社とも川や湖のすぐ前に建てられています。

それは鹿島神宮「西の一の鳥居」、香取神宮「一の鳥居」、息栖神社「一の鳥居」

  鹿島神宮「西の一の鳥居」
香取神宮(一の鳥居)
息栖神社(一の鳥居)
   息栖神社(一の鳥居)

 

 

それぞれ「一の鳥居」がなぜか川や湖など、水辺に面して建てられているのです。

不思議だと思ったことはありませんか?

一体、何故、こんなところに建てられたのでしょうか?

「これらの鳥居の位置こそが、神話を読み解くうえで非常に重要な意味を持つのです。」

こう唱える学者が、今回ご紹介したい田中英道師です。

 

田中英道師はこのように言われます。

 

「この東国三社がある場所は、神話で描かれる『国譲り』や『天孫降臨』の出発点となった場所なのです」と。

 

それは一体どういうことなのでしょうか?

これから、徐々に田中英道師の提唱するこの謎を解いていきたいと思います。

その前に、

東国三社の近辺には、はるか昔「香取海(かとりのうみ)」という巨大な内海が広がっていました。

東国三社は、ちょうどその海の「入り口」に位置しており、鹿島・香取神宮は、まさに航路の出発点であり、息栖神社も「船着き場」であったとされるのです。

 

 

何となく謎が解けそうな気がしませんか?

では、次回は天孫降臨について調べてみましょう。お楽しみに。

 

 

〜文化遺産を読み解けば、真実の歴史が見える〜

田中教授は、ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。

「西洋美術史の第一人者」と呼ばれています。

 

24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けています。

 

中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における”世界的権威”です。

 

そんな田中教授は、西洋美術研究の折、ある独特の学問手法を体得しました。それが、形象学(フォルモロジー)です。作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までをも読み取るもので、その観点から日本美術を見た時に日本の素晴らしさに気付いたと言います。

 

でも、その一方、日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいないことに愕然としたそうです。

 

その実態に危機感を抱き、田中教授は西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けています。

 

 

 


偶然は一切ない

偶然は一切ない。すべて必然である。

これは、すでに私の中では認識している言葉である。

昨日、事件が起きた。まだ明けやらぬ早朝散歩の帰り道、爽やかな気分でいつものコースを歩いていると、突然右足首がコケて痛みが走った。呆然と立ちすくんでいると、やがてスーッと和らいできて我に返った。

そこは、公園の中、石段を上がるとアーチの小径、横切ると樹木生い茂る芝山に通じる。古から存在する杉の大木に挨拶を交わすのが日課である。あと少しの所で、小径の段差に躓いたのである。

どうやら骨折ではない様子に安堵すると、近くに杖になる小枝が見つかり、杉の神に挨拶をして自宅に向かった。

これはきっと神のお告げであるに違いない。その気づきに確信のようなものが湧いてくるが、それが何だか分からない。

実は昨年の同じ時期、初秋とはいえ寒い朝であった。これも日課にしている庭の草取り、ツツジの植え込みに頭を突っ込んで、左前方にある草を取ろうと、左手左足をぐーんと伸ばした瞬間、左ひざに痛みが走った。

これは回復に時間がかかり、草取りが好きな私は残念でしかたがなかった。

それが癒え始めた頃に、足の甲の捻挫である。

これは偶然の筈はない。お前はまだ分からないのか! 神の叱咤激励を受けた思いでした。

 

さて、どうやって治そうか。骨折しなかったことは感謝である。だんだん腫れていく足の甲を手当てしながら、一体私の過ちは何であろうか? 一年経ってもまだ気づかない自分がいる。日々努力している自分がとても健気に感じるのだが・・・

 

今朝のことである。

千葉修司師の早朝ウエビナー、今朝のテーマは

「偶然は一切ない」、「すべて必然である」。

気付かない私に神はここまで配慮をしてくださる。正に偶然は一切なしである。

身が震える思いでご指導を受けると、

神のようなものは存在する。

気付きなさい。人は輪廻する。人は死なない。

最後まで勉強や挑戦をし続けると、その経験や勉強したことを来世に持っていける。

来世はそこから反省して経験と知恵を学ぶことができる。

努力すればよい。何もしなければ、何も気づくこともなく

ただ流されるだけで、来世も天国にはいけない。

「難い・嫌い・許せない」は強運になれないが、むしろ最高のメンターである。

人は生きているのではなく、生かされているのである。神様の喜ぶことを行いなさい。

世のため、人のために生きなさい。

人間、完璧な人はいない。自分はどうなんだろう。

気付きました。私は何と自分のことばかり考えていたのだろう。

真実を追求して、世を批判し、怒り、落胆し、希望を探しもとめ続けて・・

身近に、普通に、優しい心を持った近隣の人々がいる。

その人たちに、もっと愛の心を届ける

生かされている心を届ける。

肩の力を抜いて生きていこうと。

 

散歩の途中で積んできた、ススキや野草がやさしく私に寄り添ってくれました。


「愛」とは

「愛」とは

目の前にいる人に何を与えることができるだろうか?

優しい言葉?  笑顔?

弱気で消極的な人は明朗ではない

無気力は病気である

人生に燃えていない人は病んでいる。

強気・積極的でないと病気になる。

明朗こそがあらゆる良いことの源である。

愛のカタマリ → 経済力 = 愛

∴ お金は愛の塊

  愛のない人はお金を稼げない

どうしたらよいか

まずは

「何をするか!」

より

「何をしてもらったか?」

から考えよう!

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祭神の日本武尊が・・・

早朝、わが町の神社「御嶽神社」に参詣するのが日課になっています。
この神社の祭神は日本武尊「やまとたけるのみこと」、倉稲魂命「うかのみたまのみこと」です。
日本武尊は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄であると。(ウイキペディア)

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は記・紀にみえる神。 稲の精霊が神格化されたもので、五穀、食物をつかさどる。 「日本書紀」では伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉(いざなみの)尊の子。 「古事記」では須佐之男命と神大市比売(かみおおいちひめ)の子で、迦之御魂神(うかのみたまのみこと)とかく。

すすき野御嶽神社の創建年代等は不詳ながら、当地黒須田村の鎮守社だったといい、昭和50年区画整理に伴い、社殿を新築したと記されています。

境内石碑には、
黒須田町は以前田畑山林が調和した純農村で十八戸の氏子は平和な日々を楽しく過していた。近時経済成長に依り急激な都市化の波がこの村落にも必然的に押しよせ近郊都市としてその変革を要求され土地区画整理事業が実施されて草深かった里は希にみる高級住宅群に変った。その変様の中にあっては当御嶽神社の社殿も慶応四年の再建では周囲の環境に不適応となった。
そこで大神の威信再び敬神の念の高揚の為に氏子一同相計り社殿新築の議を決して木造銅板葺三間社流造りの社殿及び境内の整備を断行し面目を一新した。
ここに恙なく落成遷座を完了し之を記念してこの碑を建立する。(境内石碑より)と、記されておりました。

昨朝のこと、
いつものように四時に出発。日の出前、いつもの散歩コースを巡って、神社の門に辿り着くと、大の男が入り口の石段四段上がったところで、ごろり横たわって熟睡中。リュックは下の段に無造作に置いて・・

私は仕方なく、神社の裏口から入ってお参りを済ませ、玄関に回ってみるとまだ熟睡中。まるで祭神の日本武尊が、時世を憂いて舞い降りて来られたのでは・・一瞬、そんな考えがよぎりました。

幅150センチほどの神社の石段、少し横向きの姿勢で、腕と足の筋肉質を露わにした男子像の寝姿は、古とゆかりがありそうな面白い光景でもありました。

スマホのシャッターを切ることも思いつかず、この写真で皆様想像してくださいませ。

今朝は何事もないいつもの石段でした。


浄水器選びでお困りではありませんか?

私の愛飲しているお水「ガイアの水」をご紹介いたします。

と言っても、つい最近出会ったばかりなのです。これまで浄水器という名の製品は多々ありましたが、善し悪しの基準が分からず、扱っている会社を信用して購入するしかありませんでした。しかし、水はよくても、フィルターを通すときの中空糸膜に塗布された防腐剤や、また活性炭の交換時には腐敗など気になることが多々あり、悩むことしきりでした。

気になりだすとキリがなく、それらをすべて取り外すと、元の水道の蛇口のみとなってしまいました。またゼロからのスタートとなりましたが、とりあえず、湧き水から汲みだし、ノー添加物で認可された北海道良水などを購入しました。しかし、パッケージの数は少なく、飲水と炊飯のみの使用でした。

 

水道水に含まれる気になる成分は主に塩素やトリハロメタンです。

塩素は安全に水を各家庭に届けるために使われています。水道水1リットル当たり、0.1mg(ppm)以上の塩素が残るように決められています。 

浄水場から家庭に供給されるまでの距離が長く、貯水タンクに水を貯めて供給しなければならない集合住宅などでは雑菌が繁殖しやすく、より多くの塩素を必要とします。マンションやビルなどの貯水槽では衛生管理が悪いと、酷い水を飲んでいることになってしまいます。

集合住宅に住む私には、ここで諦めるわけにはいきません。

再び浄水器なるものの検索、聞き込みを繰り返す日々となりました。世に出回る浄水器は以前よりも高額で、さぞ性能もよくなっているはずと思いきや、やはり信頼できるものは見つかりませんでした。

そんな時、突然「ガイアの水」に出会ったのです。

正に「求めれば与えられる。探せばみつかる。」開運の法則です。

 

「ガイアの水」ってなあに?

一言でいうと、湧き水に近いようなお水が、蛇口をひねっただけで飲めるということです。

その理由の一つには、3種類の天然の「テラヘルツ鉱石」を最適の配合比率で浄水器のカートリッジに搭載し、そこに自然界の浄化システムを参考に、植物由来の素材「マコモ」を配合しているということです。このフィルターを通ってきた水が「ガイヤの水」なのだそうです。

社長さんが「値段」も「味」も本当に拘って開発しました。一言で言えば、飲むとスーッと身体が喜ぶようなお水です。と説明しています。

因みに「テラヘルツ波」とは、光と電波の両方を併せ持つ特殊な波長で、その働きは「生命エネルギー光線」とも呼ばれています。

そのテラヘルツ波の3大特徴は

  • 免疫力を高め、細胞を活性化
  • 血行促進
  • 生体電流を整えること

水はテラヘルツ波をもっともよく吸収する物質で、その水や生命物質は抗酸化作用により、人が本来持っている自然治癒力や免疫力をアップさせ、生体全体の生命力を高めると言われています。

従ってガイヤの水とは

★細胞内に届く水
★浄化力のある水
★酵素活性力のある水

ということになります。

ついに私は購入しました。
そして早速我が家に取り付け、4か月ほどになります。

流石に違います。
まず、水が柔らかく優しい。そして美味しい。
安心感があるので、ストレスがない。
飲むのが楽しみとなります。

私は幼少より病弱で、様々な病気を体験しました。母には苦労を掛けどうしでした。薬もたくさん、飲んだり、塗布したり、その結果ますます次なる病気を発症し、イタチごっことなりました。

乳癌手術後を最後に病院と縁を切りましたが、体内に溜まった薬毒で次々、苦しみました。その後に起こった電磁波障害の辛さが、少々いまだに残っている他は元気で高齢生活を送っております。

ガイヤのお水で、特に感じるのは粘膜への刺激がなく、気付くと優しい和らぎのような気分です。お風呂のシャワーが凄いです。今までは塩素、トリハロメタンを直に頭から浴びていたのです。それが何とも言えない優しさを感じます。そして体内に残っている薬毒がこれで放出されるのではという暗示をかけられている感じです。

私はもうじき80歳になりますが、あまり長生きはしたくありません。が、何だか不思議です。自分の志を来世に繋げるべく、覚醒したかのようです。

 

もし、皆様が今の水道のお水をそのまま飲用されていたり、あるいは何か浄水器で悩んでおられましたら、是非お勧めです。

お値段も高くはありません。

メッセージ欄にお問い合わせいただければ、ご案内させていただきます。お読みいただきありがとうございました。

 


開運道スクール「チーム菜月」へのお誘い

この度、占術家の道を究めた講師陣による、各種講座を開講することになりました。講師と講座の内容は下記をご覧ください。

  • 菜月講師の「開運占いサロン」
  • 華蓮講師の「初歩の十二支・九星気学教室」
  • 金原信子講師の「家庭問題よろず相談室」
  • 宝龍花講師の「手相・手まさつ健康法」
  • 菜月講師の「美容健康・開運ヨガ教室」
  • 小林永周講師「潜在能力開発・開運瞑想法」
  • 花見 正樹講師「 ストレス解消・開運癒し整体」
  • 花見正樹師の開運道スクール「占い全科」

 


 

因みに講師は2016ミス日本、2017ミスインターナショナル日本代表・世界大会第5位を受賞された菜月講師

咸臨丸子孫の会幹事として幕末史を研鑽し、家庭裁判所で家事調停委員を務めるなどの経験を持つ金原信子講師、

日本の特異脳力研究の第一人者であり、元日本心霊科学協会常任理事を経て現在は日本サイ科学会副理事長である小林永周講師

華蓮講師、宝龍花講師、すべてそれぞれの環境で研鑽を積まれた講師陣です。

是非、この機会に、企画の講師陣に直接ご指導を賜り、運を味方にして人生を輝かせてみてはいかがでしょうか?

お気軽にお問い合わせください。

詳細をこちらからご覧ください。

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強運のための生き方

スタートはここから

★ そこに愛(志)はある?・・・始める前に考えよう❣

★ 至誠天に通ず・・・・「中国の儒学者・孟子の言葉」             誠の心を尽 くして行動すれば、いつかは必ず天に通じ認められる

★ 自分に嘘をつかない・・・やりたくないことはやらない努力をしよう❣

自責やリストカットは運が落ちる

★ 今日(今)が一番若い・・今、ここに❣「積極的に生きること」

それが宇宙の成功・繁栄・生存の法則であり、この星では、この逆はあり得ない。という事です。

★ 求めれば必ず与えられる

★ 探すと見つかる

★ 叩けば開く

  だから人生は素晴らしい。 一切の責任は自分にある  

  不自由のない人にはこれらが分からない。

 

 

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今こそ、日本の歴史と文化を学ぼう!

日本の歴史・文化を勉強して自分自身の持ち場で何をしたらいいかをしっかり考えよう。

世界最古の歴史を持つ日本、その祖国を育ててきた先人たちがいる。立派に戦ってきた先人たちの生き様がある。私たちは彼らの子孫であり、その志の後継者、自分の国を愛することから始めよう。

母国の自然環境を愛し、歴史を紡いできた多くの先人たちに想いを馳せた時、しっかりとした根っこに支えられた日本人になることが出来るでしょう。

それがコロナ禍の現代にも立ち向かえるしっかりとした足場を築くことができるはずです。

みんなで一緒にがんばりましょう‼

伊勢雅臣師の「~和の学び舎~ 日本志塾」をみよう、 より


三つの運

人には三つの運がある

生まれながらの運

人から頂く運

努力から得る運

 

他人の喜びは自分の喜び、他人の苦しみも自分の苦しみ

すべては自分事として捉える。無関心は運を遠ざける。

誰もが強運の持ち主となれば日本は変わる。

世界も変わる⁉

 

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天賦の才とは生まれながらにして備え持っている才能

天から与えられた才能=天資

抽象度の高い志・夢を言い続けよう!!

バカらしい志・夢を言い続けよう!!!

バカにされる志・夢を言い続けよう!!!

本質の見られない人間は何をやってもダメ!!!

 

 

  四方の壁を取り払ってやっと人になれる。

私の志は

日本や世界の肉体的・精神的・経済的再生、自分の奴隷解放のためのオートメーション化、ピンチがチャンスに変わる生き方をすること。

自分の消極的性格を変えるために、マインドフルネスを学び実行すること、

田中英道師の神話から読み解く日本の歴史を学び、縄文時代の人々と心を交わすために、まずは東国三社を訪ねることを当面の目標とする。

更に私は十言神呪(とことのかじり)とカタカムナを潜在意識に落とし込み来世に繋げていきます

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爽やかな空気の中で

早朝の歩道に咲き誇るアジサイと、しばし会話を・・
柏のような葉に白くボリューム感のある美しい花。 葉の形が柏の葉に似ていてそう呼ばれるようになったようです。花が咲き終わる前に剪定を行わなければ、 翌年の花芽を作ることができなくなるとのことで、注意が必要ですね。
タチアオイ(立葵)は夏にハイビスカスに似た華やかな花を穂状に咲かせる夏の花。花言葉は「豊かな実り」「野望」。この花が咲くと夏到来を感じます。 アジア原産なのでどことなく和の雰囲気が漂います。 タチアオイ(立葵)は毎日、次々と新しい花を咲かせ、2ヵ月近く咲き続けてくれます
オレンジ色の百合(ユリ)には、「華麗」「愉快」「軽率」といった花言葉があります。 オレンジ色の花には、親しみのあるカジュアルなイメージの花言葉が多いですね。オレンジのユリは、オニユリ(鬼百合)またはスカシユリ(透百合)とのことです。 ユリにはさまざまな種類があり、古くから人々に親しまれてきました。北半球のアジアを中心に、ヨーロッパ、北アメリカなどの亜熱帯から温帯、亜寒帯にかけて広く分布しています。
森の中に佇む五重塔
大庭町の山に足を踏み入れると、150センチほどの五重塔が・・この謎を問うてみたいが、早朝の森林の訪問者は私の他に誰もいない・・

「漁火光柱」観測

福井県の福井市や越前市などで、夜空に何本も輝く光の筋が出現しました。

空には雲がかかっているので、星や月の光ではないと分かりますが、不思議な光に、どこか知らない世界に足を踏み入れてしまったような感覚に戸惑いの声を受けて、気象学者の荒木健太郎さんが「漁火光柱」について解説しています。

その正体は漁船の光で、氷の雲が上空に広がり、氷の結晶が光を反射することで発生する現象で、大気光学現象と呼ばれるそうです。

最近は不思議な現象がいろいろ現れますが、大きな地震や異変が起きる前兆としてとらえている人たちも居られます。


今を生きる人たちへのメッセージにピッタリ

 

星野裕矢  二十才の君に

誰でも 二十才になれる
誰もが大人になれない

もしも もしも 今君が
苦しみの中に いるなら
それは新しい生命を育む証しかもしれない

夢はあるか 友はいるかい
愛する人に 出会えそうか

親を頼るな 友を頼るな
愛する人を 守りながら

誰でも 二十才になれる
誰もが 大人になれない


心地よい汗をかきました

    昨年9月 草刈り中に膝を痛め、約半年ぶりの作業でした。                   近所の友人が心配して手伝ってくれました。

昨年、植えたアジサイの苗も元気に育っておりましたが、草がぼうぼうに這え、見るに見かねての応援作業となりました。

私は、膝がまだ完全には癒えていないので、この椅子に腰かけての作業でした。

如何ですか?

絵になりますでしょ❣

開花した種類もあります。

生育がよいのは、昨年「バラマクチャー」という

火山の溶岩から作られた肥料のお陰なのかも。

友人の驚きは私の満足感この上なしです。

 

 

 


生存・繁栄・共存 植物は積極的に生きている

    
杉の大樹の道が清々しい
私はこの大樹にハグをしに毎朝通います。もう何年になるだろう。
お陰様で元気で過ごしております。杉の樹さん ありがとう❣

   

マイローズのアンネフランク  去年と同じ いつもの場所で 咲いてくれました。

優しさ届ける小さな命、逢えて良かった 今年も逢えて 良かった。