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出雲で出土した大量の銅剣

出雲大社脇から出てきた数百本の銅剣は何を意味しているのでしょうか?

荒神谷遺跡
358本の古代銅剣出土(高神谷遺跡)1984年(昭和59年)島根県出雲市斐川町神庭の谷から
358本の古代銅剣が一度に出土した。
それまでの全国の銅剣出土総数は300本余りであり、我が国弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となった。

それは山腹から、何故こんな処からと思わせるような、しかもきちっと、縦横しっかりと358本がまとまって、しかも一番重要なのは銅剣の剣の取っ手に「×印」が付いている。
「これはもう使いませんよ」という意味である。
左翼の歴史家は「これを持ってまた復讐するために置いといたのだろう」と言う。しかしそれだったらわざわざ「X」を付けることはない。
それは「自分たちは放棄しますよ」という意味である。

実は神社にあった銅剣を集めた企画である。あの頃の銅剣は、一つのシンボルであり、皆で供出させて「私は降参した。戦う気はありません」「神社が持っていたこの土地を全て差し上げますよ」という意思だと考えます。

あの時代にあの場所に358の神社(統治する土地)があったと考えられる。そのシンボルとしての剣を出したのではないかと見ています。

しかし現在の歴史家は一切言いません。唯物論者は精神的問題あるいは想像することを嫌います。従って何も説明もしません。この銅剣を展示してある博物館に行っても何の説明もありません。何のためにこれを造ったかも一切説明もありません。

「我々はそれを使えないようにしました」ということなのです。
ところが展示室にやたらに並べているだけで、何の説明もありません。
これは非常に困ります。
もし皆さんが展示されているところに行ったら、是非聞いてみてください。「何故何も説明がないのですか❓」と。

田中英道師より

 

 


古代の鉄剣はユダヤ技術によるものでしょうか?

埼玉古墳(さきたまこふん)群出現の鉄剣、江田船山古墳出土の鉄刀もユダヤ技術によるものでしょうか?

埼玉古墳群(さきたまこふん)は埼玉行田市にある、全国有数の大型古墳群。5~7世紀のものとされ前方後円墳8基と円墳1基からなります。1968年(昭和43年)に埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣は国宝に指定されています。

江田船山古墳
江田船山古墳は熊本県、玉名郡和泉町和水町にある5~6世紀初頭のものとされる前方後円墳。日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌銘を持つ鉄刀が出土したことで知られています。

鉄という技術を持ってきたのもユダヤ人です。
素戔嗚尊(スサノオノミコト)も天宇受賣命(アメノウズメノミコト)も、つまり高天原系にも出雲系にもおります。出雲の方が多くユダヤ人が来たということで、そこが勢力になっているけれど、同時に高天原にもおられたのです。

物部氏に物部 守屋(もののべ の もりや)という人がおりました。守屋というのは明らかにイスラエルの山です。守屋さんというのは諏訪にもおり、物部氏は香取系で、関東の人ですから、あの時からすでにコンタクトがあり、だから多くのユダヤ系埴輪人が出土されるわけです。

ユダヤ人が入ってきたことの面白さ、最初は大和の歴史や高天原で純粋の日本だと思われたと思うでしょうが、純粋な日本などあり得ないわけです。           日本は地の果ての国なのです。しかしそこに福音と土地がある。だからエデンの東という。光は東方より。本当は東方の中心が日本であるということなのです。

 

太陽に向かって行くということが、あらゆる宗教の基であるということを改めて認識する必要があります。

鉄の技術も彼らでしたけれど、完全には、まだ漢字を日本化していないわけで、埼玉古墳の名前は音読みにして日本化していますが、一つの過程でした。万葉仮名にしてしまうことにより初めて稗田阿礼(ヒエダノアレ)が古事記の日本語としての漢字を使うことになります。鉄剣を造るのも彼らの技術だったと思います。   田中英道師より

 


縄文土器は何故、弥生時代に廃れてしまったのでしょう?

歴史というのは、色々な条件により、例えば歴史的条件、外交的な条件、内政的な条件もあり、世界が変化していくこともある。

縄文時代というのは基本的に自然条件が一定したところで土器や土偶が造られる。
16500年前から縄文土器が造られ始め、それまでは氷河時代(西洋ではそういう)で寒かった。それがだんだん温かくなり縄文時代になる。(ヨーロッパでは縄文時代がなく石器時代と言われた)縄文時代は日本だけということを気づかない人たちもおれられるかもしれません。日本だけにあり、縄文土器というのは土を焼いて造るわけです。石器というのはそのまま石を砕いて造ります。従ってそこには細工がなく、加工するという技術がありません。

日本は土器を造るというだけでも、ある種の文化があると言える。そこに縄文という紋(もん)を造ることである種の思想があります。

これまでこのことについて殆ど意味がないと言われてきた。縄文なんて周りに布目を入れただけと言われ、形に基層があるということに気が付かなかった、単なる実用なために造るというのは西洋ではなかったわけですが、日本人はそれを焼いて、網目を付け装飾をして、火を焚いて、そこにくべて置いて、料理をするほどに、加工をするということをやっていた。

16500年前から紀元前1000年前ぐらいまで、弥生時代になっているわけで、何故縄文になったかと言うと、その時代はかなりの帰化人が入ってきたからである。

一番の理由は温暖化したということ。北海道まで暖かかった。三内丸山の東北地方まで暖かかった。だから日高見国が出来、人口の90%が関東東北にいたということは、太陽を拝みに来た人たちがそこに定着したからです。

寒くなり弥生時代になったのは正に第一次大和時代、饒速日の命が関東から奈良にやって来て、邇邇芸命が鹿児島にやってきた辺りから弥生時代と言われています。

古墳時代と言われるのは第二次大和時代(9代崇神天皇)、その前の饒速日命の時代が第一次大和時代で、そこに弥生時代が被っている。

そこに政治的な動きや 外来から来た人たちが寒冷化により西に移動していった。同時に帰化人が来るということは外からの危険性というものが強くなってきて大和に都を移すということを行っています。

時代が変わって廃れたのではなく自然に消えていった、ということでしょう。安定した自然環境がなくなったと同時に社会的な変動が始まり、異なる文化が入ってきたということでしょう。                 田中英道師より


日高見国が教科書に載っていない!?

日本はずっと一つの国だと思っていましたが・・・
日高見国のことは何故教科書に載っていないのか?

明治以降、倭国が中心だという考え方、つまり関東東北は遅れた地域だと言いたい人たちが支配者に多かったということです。
日本は奈良京都という関西系が支配的であり、関東東北は無視してもよい、そこで縄文という名前が原始的な所だとして胡麻化してしまった。

ところが縄文弥生時代は圧倒的に関東東北にあり、そしてそこに高御産巣日神(たかみむすひのかみ)という日高見国の王が居られたということを完全に忘れさせ、日本が世界一古く長い国であるということを忘れさせる人たちがいました。
しかしそのようなことをしても日本人はすぐに分かります。現在、地元の人たちも加わり調査を行っている最中です。

倭国の前に、一万年以上も前に国があった。その国の体制は平城京を造られた後の国の体制とは異なり、そこにある種の共通の文化がありました。 縄文文化については古事記や日本書紀にも少し記されています。
また富士山が書かれないのはなぜだろうか。富士山という美しい山が知らない人はおりません。晴れた日は伊勢神宮からも見えるほどに。
それが教科書に書かれていないので、ないというのは考えないで欲しい。これから教科書を変えていかねばなりません。本当の歴史が正しく記されていない。既成の西洋中心史観にまみれてしまっているのです。

北海道に日高見町、北上川は日高見川、岩手に日高見神社があります。このように色々な読み方で日高見国が消えてしまっています。しかしそれが厳然としてあったということが現在調査中であり、教科書というのは意図的にそれらを隠していることを暴かなくてはいけません。それが歴史家のやるべき重要なことである。神道には大倭日高見国(おおやまとひだかみこく)とちゃんと記されています。が、誰も言わないようにしたのです。少なくとも明治以降あったということです。イデオロギーでいかに事実を隠しているかということは世界中で起こっている問題です。

 

★高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
『古事記』の天地開闢においては、天地の成った後、三柱の神が成る。最初は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、続いて高御産巣日神(たかみむすひのかみ)神産巣日神(かみむすひのかみ)である。この三柱の神を総称して造化三神という。

以上 田中教授による質問回答を掲載させていただきました。


「キリスト教を日本の中に」密かな試みがあったのでは!?

これだけ性格の異なる二つの民族が何故同化してしまうのだろうか。

これには歴史的事件として蘇我氏との問題がある。

平安時代に造られた士族の諸藩の中の1/3は秦氏系である。顔は全て日本人化しているが、それ以降を含めても諸藩の人々がユダヤ人系の血が入っていると言わざるを得ない。
従って、思想や思考形態、感性にどういう影響を与えてきたか、それが完全に日本化したというのは何かというと、それは蘇我氏が仏教を取り入れるということ自体の中にその問題が隠されている。

神道、仏教という問題

欽明天皇が6世紀の中頃、仏教を取り入れた時に仏像が入ってきた。
そのキラキラしさを取り入れてよいのか、これを拝んでもよいのかと蘇我氏と物部氏が正に対立をした。この物部氏がもうひとつの藤原氏(神道の祭祀を授かっていた)

また中臣氏と物部氏が組んでおり、これが正に高天原系の人々と言ってもよい。

鹿島神宮が中臣氏、香取神宮が物部氏、この二つの大きな氏族が、これが高天原あるいは日高見国を牛耳っていた。

一方、中臣氏というのは神道の祭祀、つまり神道の精神的な部分、今、鹿島神宮がその中心になっている。
物部氏は物、つまり物質的な事、中臣氏が精神的な事、”もののふ”ということもできる軍事的な事、もちろん中臣氏も武御雷神が守っている鹿島神宮も・・

この二つの対照的な神様の存在が日本の神道あるいは日本のこれまでずっと続く縄文時代の長い間、この二つの神が守ってきたということがある。

それが神話により記され、日本書紀・古事記両方に記されたが日本書紀が主流であった。
日本書紀には日高見国という名前が出てくるが、高天原は2回しか出てこない。
一方、古事記の方は「高天原」という言葉を最初から使っている。これにより、日高見国があたかもないかのようになってしまったが、それは縄文時代のあり方を見ても、東国抜きの縄文時代はあり得ないわけですから、当然そこに高天原・日高見国が重なってくる。

 

そこに物部氏と蘇我氏の対決になった。中臣氏と秦氏が隠れ、蘇我氏と物部氏の戦いになります。

蘇我氏は崇神天皇を立てますが、天皇はもともと神道ですから、必ずしも蘇我氏の言うとおりにはならず、結果的に殺してしまうということになります。

それ以降、女性の推古天皇が 蘇我氏が戦争を仕掛けて
その時聖徳太子が蘇我氏の側に付きます。その時の形は、仏教を蘇我氏が入れるということで、仏像を治めた方が蘇我氏である。

蘇我氏とは何者かというと、聖徳太子の名前が厩戸皇子(うまやどのおうじ)で、
厩戸で生まれたと言いうことは、これはイエスキリストのことである。・・
また蘇我氏とい名前を読むと「我蘇る」 厩戸皇子が生まれて十字架にかけられ、お亡くなりになった時に三日後に蘇ってくる。つまり復活するのである。

もうひとつは救世観音、お釈迦様もそうですが、世を救うというのもキリストの概念で、この時代の仏像を見ていくと、背が高く、鼻が非常に高い。これは止利仏師によって造られていることになるが、この止利仏師の止利も朝鮮から来ている。
この時代の朝鮮も秦氏がたくさん入ってきている。新羅、百済など、(新羅の新も秦氏の秦(しん)である。

新天皇が崩御された時に葬式をやっていない。天皇がお亡くなりになった時には長い殯(もがり)というお葬式を行う。聖徳太子がお亡くなりになった時に殯をやっていない。
622年(お亡くなりになった年=推古天皇の時代)、その後聖徳太子の一族がすべて殺されるという事件が起こった。聖徳太子は推古天皇が崩御されたあとは変わるべく王子であった。推古天皇は629年まで生きられましたが、早くも622年に暗殺されたのではないかと思われます。

すると問題は複雑化する。
一つは仏教で何故、律しようとしたのか? これまでは同じ考え方なのであまり問題にしなかったが、何故殺された(自害)のか?
聖徳太子一家が根絶やしにされるということで、仏教も根絶やしにされるのではないかと・・
蘇我氏がある種ではキリスト教にしたかったのではないか?という、厩戸皇子の言葉などに考えられる。仏教を指示していると言いながらもキリスト教を日本の中に密かな試みがあったのではないか!?を、考えられる。

仏教でしたら、秦氏と、聖徳太子と組んでやれるわけですが、日本の場合、神仏習合というのがある意味常識であり、それ以後はずっと共に存在するわけですが、それは可能でした。

ところが仏教の方を捨てるということと、キリスト教を取り入れる事、すると救世観音の意味が分かってくる。

つまり、蘇我氏が建てた飛鳥寺の観音像が少々救世像に似ており、キリスト像に見立てることも可能である。 救世観音と言われる聖徳太子の像もキリストの像に似ていないとも言えない。
飛鳥寺の救世観音は非常に鼻も高く、そういう陰謀があったからこそ、そしてそれを察知できたから中臣氏、藤原氏であった。
天皇の前で、四代目の蘇我氏の中心人物が天皇の許可を得ずに位を得るなど、とんでもない人物であった。それを中臣鎌足と中大兄皇子が組んで天皇の前で首を斬った。【乙巳の変】

ここにも一つのストーリーがあり、蘇我氏の中の裏切り者が詔を読むと、手が震え、何故かと聞くと「天皇の前で私は恐縮している」と

乙巳(いっし)の変

大化元年(645年)、中大兄皇子’(なかのおおえのおうじ)後の天智天皇となかとみのかまたり(中臣鎌足)が蘇我氏宗家を滅ぼして新政権を樹立した政変。

 

この後、蘇我氏が根絶やしにされた。
つまり復讐され、明らかに蘇我氏が断絶する。43年に蘇我氏が聖徳太子一家を殺すときに秦河勝は逃げている。

 

キリスト教を持ってきてはいけない。ということと完全に神仏習合という形が大事だということがわかる。

日本にあった形で神道と宗教が合った形を秦氏がやることにより、秦氏はそれ以後もたくさんの神社や仏閣を造っていくことになります。

このようにして
ユダヤ人たちが一神教を捨てる事、キリスト教さえ蘇我氏により断絶することによりはじめて秦氏系が日本の中に長く貢献していく形になります。
それ以後、日本がユダヤ人によって、もちろん縄文以後の勤勉なそして誠実な天皇を中心とした国家を守る、そういう中に秦氏が組み入れられていくこのになります。

歴史をずっと考えていくと、大東亜戦争、第2次大戦までずっと続いているような気がします。と、田中教授の歴史観を記させていただきました。

 


遺伝学から見た日ユの共通性 日本人が持つ謎のDNA

これまで

日本人とユダヤ人は姿を見てもあまりにも違うので関係がないのではというのが決定的であった。また血液型や、さらに実際に日本に来ていたという証拠がないので、明らかにされなかった。

しかし、埴輪が全国で多数発見され、この件で決定的になり、これからはこの問題なしには語れません。

更に DNA についても遺伝学の分野

1Y 染色体のDNAは、日本人、中国人、韓国人とはかなり異なることがはっきりしてきました。

2世界でも珍しい古代血統である Y 染色体の D 系統が日本人には多い
3Y 染色体の DNA による分類をすると驚くべきことに、日本人と地中海の人々が同じ、DとE の系統であるということである。
東アジアは O 系統、オセアニアと南アジアが K 系統。これだけ分析結果が出ている。
4、同じ D 系統であっても日本人の D 系統とはほぼ100%近くが「D2」の系統であり、遺伝的に近い筈のチベットや東南アジアの系統は D1 とか D3 の系統で D2 にはないということがはっきりとしてきました。
5特殊ではある D2 系統は世界の特殊民族で日本人にしか存在しない日本特有な系統である。
6、大陸や半島など地理的に近い四国では Y 染色体の D系統は存在しない。

以下省略

DEの一番近い所が日本とユダヤ人・・。このように分析されるとはじめて
顔は違うけれども、彼らが日本の中にいるということが、自覚せざるを得ません。
つまりDNAの類似性によりユダヤ人として証明されるのであれば、ユダヤ人が日本に来ていたということになります。この遺伝子的事実は歴史においてもユダヤ人的な姿をした人物埴輪が関係して秦氏の存在が血液型によっても証明されている。

このDNAは否定できない。ユダヤ人が来たという、埴輪の問題も合わせて本格的に取り組まなければならない。
しかし現在は左翼的に傾いているので、こういう問題が範疇に入ってこないが、これらは日本人全体の問題として湧きおこりそうな気配がある。ユダヤ人が喜ぶ問題でもあり、いづれ明らかにされる日がそう遠くはないであろう。 と非常に興味をそそる田中英道師よりの研究と話題を記させていただきました。


古事記と聖書の共通点 紀元前660年に一致?

 

聖書が示すユダヤ人渡来の暗号

モーゼの十戒

1、主が唯一の神である
2、偶像を作ってはならない(神の姿も名前も書くな)
3、神の名をみだりに唱えてはいけない(ヤハベ ヤハベと言うな)
4、安息日を守る(祈りの日に)
5、父母に従う
6、殺人をしてはいけない
7、姦淫をしてはいけない
8、盗んではいけない
9、嘘をついてはいけない(隣人について偽証してはいけない)
10、他人の物を欲するな(隣人の家や財産をむさぼってはいけない)

5~10はどこの民族にもあてはまる

広隆寺       

京都市太秦にあるユダヤ系渡来人秦氏の氏寺
推古天皇11年(603年)、秦河勝により創建された京都最古の寺院。
国宝の弥勒菩薩半跏像を本尊として創建されたが、現在は聖徳太子像を本尊としている。

十善戒(ジュウゼンカイ)
仏教において、十悪を否定形にして戒律としたもの
これは秦氏のお寺ですから当然ですが、まるで仏が言ったような格好で出ている。
それが非常に似ている。4番目ぐらいまではモーゼの語るようではなく、
まず最初は「殺すな」「戯言を言うな」「みだらなことをするな」「嘘偽りを言うな」「悪口を言うな」「二枚舌を使うな」「物を惜しむなむさぼるな」「怒りや憎しみを持つな」「間違ったことを考えるな」
5番目以降はだいたい同じである。モーゼの十戒によく似ている。

日本人は最初の神のことは書いていない。仏教のお寺であるにもかかわらず、仏を信じろという不思議なことに書いていない。ただ、道徳だけを説いている。→ 日本とユダヤ人の、共通する思想を示している”

最初から道徳を説いているということは、神がいなくても自然が生きていれば人間はそういう生活をしているということを語っている。日本人は自然の中に生きているので神などを考えなくてもそこに節理があるということを知っている。神などは考えることはないのだということを、周りの木や石を、岩や山を、本来は太陽を、それらは別に言わなくても自然にあるわけですから、あとは自分の道徳律を考えればいいわけです。太陽に向かって拝んでいればいいわけです。そこに自ずから道徳が得られるといういことを・・

この広隆寺の十善戒は
モーゼが日本に来てこの十善戒を全く違った受け取り方をしていることが分かります。

イザヤ書『24章15節』
それゆえ東で主を崇め、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名を崇めよ
我々は地の果てから賛美の歌を聞いた。「栄光は正しい者にあると」。
しかし我は言う。私はやせ衰える。私はやせ衰える。私は災いだ。
欺くものは欺き、欺くものは欺きが欺く。地に住む者よ。恐れと落とし穴と罠とは、
あなたの上にある。恐れの声を恐れるものは落とし穴に落とし入れる。
落とし穴から出る者は罠に捉えられる。天の窓は開け、地の基が震え動くからである。

イザヤ書とは・・旧約聖書の一書で、三大預言者の『イザヤ書』、『エレミヤ書』『エゼキエル書』のひとつ。紀元前701年、アッシリアからの攻撃にエルサレム(ユダヤ王国は陥落を逃れた)

『意味』

東に行ってイスラエルの神、主の名を崇めよ・・・

これは日本を想定できる。日本は向こうから見ると地の果てである
そちらでヤハベを崇めよ
日本に行った人たちが、讃美歌を歌っているが、それは自分のことを讃えているのではない(別な信仰を持っているのではないか)自身のショックを表わしている。

 

紀元前701年アッシリアからの攻撃にエルサレム(ユダ王国)は陥落を逃れた
列王記・・・・紀元前701年ヒゼキア王(ユダヤ王国国王)貢納を課せられた。     紀元前701年ユダヤ人が日本へ来ている。 紀元前660年日本の建国とタイミングが合う。これによりイザヤ書が書かれた可能性がある。紀元前8世紀には日本に来ている可能性も高い。

∴モーセの十戒と広隆寺の十善戒は共通項が多い

∴イザヤ書に日本を彷彿とさせる記述が多い

∴紀元前701年~660年には日本にユダヤ人がいた可能性が非常に高い

以上 田中英道師よりの解説

田中英道師について

〜文化遺産を読み解けば、真実の歴史が見える〜

田中教授は、ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。

「西洋美術史の第一人者」と呼ばれています。

 

24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けています。

 

中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における”世界的権威”です。

 

そんな田中教授は、西洋美術研究の折、ある独特の学問手法を体得しました。それが、形象学(フォルモロジー)です。作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までをも読み取るもので、その観点から日本美術を見た時に日本の素晴らしさに気付いたと言います。

 

でも、その一方、日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいないことに愕然としたそうです。

 

その実態に危機感を抱き、田中教授は西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けています。

 


何故皇室は途切れなかったのでしょう?

天皇を守り続けた密約の存在

土師墓古墳(田中教授は箸墓古墳は土師墓古墳の間違いと見ています。)
土師氏という有能な建築士の古墳であると。

箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある最古級の前円後方墳(前方後円墳)。3世紀初頭に造られたもので、墳丘長278m。高さ30m。奈良にある古墳時代前期初頭の大和(おおやまと)古墳群の一つ。纏向古墳群を代表する古墳。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であると定めている。田中教授は第10代崇神天皇の墓であるとの見解を示しています。

日本書紀 巻第十 応神天皇 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)

十四年春二月、~(中略)~この年、弓月君が百済からやってきた。奏上して「私は私の国の、百二十件の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているのでみな加羅国に留まっています。」といった。
そこで葛城襲津彦(かずらきのそつひ
こ)を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦(そつひこ)は帰って来なかった。
~(中略)~八月、平群木宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿祢(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して、襲津彦(そつひこ)が長らく還って来ない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って討ち、その道を開け」といわれた。木くの宿禰(つくのすくね)らは兵を進めて、新羅の国境に挑んだ。新羅の王は恐れてその場に伏した。そこで弓月の民を率いて。襲津彦(そつひこ)と共に帰ってきた。」

 

これだけ多くのユダヤ人系の人たちが入ってくると、土木、灌漑、様々な技術を大規模に移入することで、応神天皇が彼らに非常に貢献したことにより更に大きくなり430mという巨大なお墓となった。

その後の仁徳天皇陵はさらに大きくなり、絹を仁徳天皇に差し上げる時に渦になるような量を送り、仁徳天皇は非常に喜ぶわけです。だから太秦の土地を与えたのです。

 

ユダヤ人秦氏が大活躍します。皇居が秦氏の土地の上に造られる。(皇居が秦河勝の土地となる)それだけユダヤ人の貢献に役立っている。
このようなことは戦前は言うことが出来なかった。戦後は左翼系の人たちは貶すだけであまり天皇を認めようとしないため、天皇の歴史の研究が進まなかった。

今は、単なる神格化するだけではなく事実の歴史として天皇家を捉えようではないかということを田中教授たちは目指しておられます。それが今日まで続いていることを確かめることが出来るのである。
単なる振興だけではなく、誰が貢献したか、一神教を捨てて、しっかりと根ずいた人たちがいるということを、一体日本にとって何が重要なのかを察知した人たちである。

これが天皇を中心とした日本の歴史を作っている大きな要素であり、そこにユダヤ人たちがいたということである。

このことは世界の歴史を考えると非常に重要なことである。
この情報は全世界のユダヤ人たちに伝わっている気がする。126代も天皇制が続いているということは日本だけで、それを外国が攻めようと、モンゴルが一度来たことはありますが、ヨーロッパは来ていない。

ヨーロッパが来ないということは、来る機会はあった。16世紀、20世紀 スペインが来る可能性が十分あり、現在も太平洋戦争と言われるのもアメリカが天皇をいくらでも断罪する考えがあったのである。しかし何故それがなされなかったのか、今もちゃんと残っている。

その幸運はやはりユダヤ人という存在があるからであり、日本にいたということを知っている誰かがいたということが、日米戦争の最大の密約(田中英道師著)。いつの間にか密約があったということが(出雲大社も鹿島神宮も天皇が居られたところが全て守られている)
最近3.11の地震でやられましたが、戦争の時はやられていない。

それはこの秦氏の存在があったということが十分考えられる。それは語られていないし、彼らも語ろうともしない。しかし力をもってやっている。そのしぐさは説明できる。

それはユダヤ人の存在が日本の中にあり、隠れた形、あるいは語られない形の密約があったから・・。                田中英道師より

まとめ

・箸墓古墳は土師墓古墳の間違い

・土師氏は有能な土木建築士で、ユダヤ人のフリーメイスンも有能は石工職人

・日米大戦でも日本の歴史的な神社、都市は破壊されておらず、密約があったとしか思えない。


日本語に隠れたイスラエルの痕跡

ヘブライ語と日本語の関係(ヘブライ語が日本語に影響を与えている)

この本は日本語をよく勉強して書かれているが、一番の欠点は、ユダヤ人が日本人に与えたような錯覚をしている。つまり縄文の長い時期、そこに日本人の精神がしっかりと根づいて、自然信仰、つまり石と木を信仰する自然道、神道を身に付けた日本人の中に、このような秦氏系が日本に入ってきた。しかしこの本の作者は太陽信仰の日本人という部分が抜けている。このユダヤ人の作者は、自分たちの国が日本人の基礎になったと主張している。自分たちが与えてやったと言いたいようである。

それは事実では絶対あり得ないと田中教授は否定しています。日本の方が古いわけですから・・

問題は、日本人は元来文字を入れようとせず、あるいは文字化、言語化は日本人はあまり行っておらず、逆に言葉で現実を把握しようとしていた。

言語には指示用語と感性用語があります。

指示用語・・・「これ、それ、あれ」もののそのものを指示することのために使う言語

感性用語・・・「あぁ、わぁ」主観用語、感性を表わし、表現する言語。

この文字が定着して初めて和歌が出来ます。和歌は殆ど感性用語で、四季の用語で書き、軽く指示用語をいくつか重ね、そこに感性用語を加えていく。あまり物語性はありません。

日本の文学は和歌が基本である。もっと短いと俳句になる。これは季語の組み合わせで感性を表現する。従って主語の部分が弱く、特に抽象用語が少ない。

抽象用語は、遠くに離れている人に文字で書いて何かを伝える時に必要なのであり、日本人は他人に何か必要なことが起こると、歩いてまたは馬に乗りそこに行けば伝えられる。その口承ということが基本であり、それが日本では豊かになっていったということです。

従って必ずしも客観的に支持、あるいは抽象的に把握する観念律方というのは後に漢字を使用して利用する。

まとめ

★指示用語・・・もののそのものを指示をすることのための使う言語

★感性用語・・・主観用語。感性を表わし、表現する言語。

★日本は和歌が発達し、感性用語が強くなった。

★日本は口承が強くなった(指示用語が発達するのは漢字伝来後)

田中英道師より


日本語とヘブライ語の共通点

日本語は主語を欠くことが多く、主語が固定されない。

ヨゼフ・アイデルバーグの書かれた言葉を利用しながら抜粋

日本語・・・あなた
ヘブライ語・・・アナタ

日本の「空気で読む」は西欧では勝手にひとりひとり思っていることを考える。     Ⅰ(アイ)を主語で考える。
日本語の「あなた」はヘブライ語の「アナタ」の影響であると考えられます。

日本語・・・書く
ヘブライ語・・・カク
5世紀以前、日本は文字を書くことはなかった→「書く」という言葉はヘブライ語の影響が考えられる。6世紀になり仏教や、古墳から出てきた刀に記された天皇の名前などの文字が5~6世紀に定着していく。その時にいたのが秦氏でもあります。

日本語・・・終わり
ヘブライ語・・・オハリ
日本語・・・ぐるぐる回る
ヘブライ語・・・グル

日本語・・・のこった!のこった!
ヘブライ語・・・ノコッタ(やっつけろ)という意味 相撲用語がヘブライ語。これは説得力がある。

日本語・・・さようなら
ヘブライ語・・・サイラニア→語源とされる「左様なら」に違和感が残る。

日本語・・・はっけよい
ヘブライ語・・・ハッケヨイ→投げ捨てろ

日本語・・・よいこらせ
ヘブライ語・・・ヨイコラセ→栄光の民という意味、日本では掛け声として理解された?

日本語・・・エンヤ、エンヤコーラ
ヘブライ語・・・エンヤマカセ →人を励ます意味で使われる

神を「ヤーベ」と言ったり「エホバ」と言ったりする。子音を中心とした言葉と、日本語のように母音を中心とした言葉と異なる。

日本語・・・取る
ヘブライ語・・・トル

日本語・・・住む (日本はわざわざ言葉にすることはない)
ヘブライ語・・・シェヴ

日本語・・・傘
ヘブライ語・・・カサ(守る おおう)

日本語・・・泣く
ヘブライ語・・・ナク

日本語・・・帝ミカド
ヘブライ語・・・ミ・ガドー(偉大な者)12氏族の一つガド族出身の意もある

紀元前722年 12氏族、離散
紀元前660年 日本にユダヤ人到達→1000年ほどかけてヘブライ語が日本語化

泣く、帝などの便利な言葉はすぐに定着していく中で、難しい言葉、統一された言葉がなかったものはヘブライ人が来る中で単純化して定着していった。
3,4世紀にユダヤ人が来て言葉を定着させたわけではなく、日本が建国した
紀元前660年ごろ1000年ぐらいかけて到達し、長い時間をかけて言葉を定着させた。

まとめ
・訓読みで非常に関連しているヘブライ語がたくさんある。

・だいたい3000語ほどある。

・紀元前660年にユダヤ人が入り、1000年かけて定着した。

田中英道師より

 

 

 

 


ユダヤ人、日本同化の過程

歴史家が未だに読み解けない秦氏の謎

ユダヤ人としての、スサノオ(須佐之男)の存在
縄文時代末期(日高見国末期にユダヤ人が来日し、彼らの力を発揮)=ユダヤ教を捨てて、日本に同化する=日本には無い体質を示していることで分かる
乱暴狼藉を働く(スサノオ)・・ユダヤ人が長い間遊牧民族的な体質を持っていて馬の皮を剝いだりする。
またヤマトタケル(倭建)、サルタヒコ(猿田毘古)、アメノウズメ(天宇豆受賣)など、日本人ではない稗田阿礼の記紀を書いた人たちの認識でもあった。

しかし彼らは日本人がやったとは書いていない。つまり移民が来ても同化してしまえば日本人だという認識があったからであろう・・

猿田毘古神(サルタヒコノカミ)

邇邇芸命が天降ろうとした時、高天原から葦原中国までの道を照らした神。『日本書紀によれば』鼻の長さ「七咫(ななあた)、背の高さ七尺、目が照り輝いているという姿であったという。

これはユダヤ人たちが白人から言われる特徴のひとつとして表現される。
それがまた日本に受け入れられていく。従って憎むことなどはない。

素戔嗚の行為に天照は怒ったけれども、元々違う人種だからという意識はない。そういう人たちが日本にはたくさん来ているということでもあり、それによって歴史は繋がっていると認識できる。

猿田彦の場合は天孫降臨を導く人であり、異様な顔をしている人間として描かれている。

倭建命(ヤマトタケルノミコト)の場合は
第12代景行天皇の子。景行天皇の命により九州の熊襲(くまそ)、東国(東海~関東)の征討を行った伝説的な武人。日本書紀によれば、容貌は溢れるばかりの逞しさであった。

身丈は―丈(197cm)、力は(鼎かなえ、巨大な鉄釜を持ち上げられるほどであった)という。画は江戸時代の浮世絵師、歌川国芳の描いた日本武尊。

ユダヤ人としての日本武尊の存在は、兄を殺し、熊襲襲撃、出雲征伐など日本にはない体質を示しているなど日本の武士道に合わないことを平気でやっている。

これが日本の神かということになりますが、体質の違いでユダヤ人が日本の中に入っているということが認識できます。

天皇の子として育てられてはいるけれど、
倭建の母  「播磨の伊那毘能太郎女(ハリマのイナビノオオイラツメ)」
吉備国を平定した第7代孝霊天皇の子、若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)の娘 ということで・・

2~3世代も経てば日本人らしい大人しい顔になってくる。
もともとそういう顔であっても優しさがでてくる。

まとめ

古事記・日本書紀での素戔嗚や倭建の行いから、彼らが日本に同化したユダヤ人であることがわかる。

 

 

 


日本の歴史は誰に記された?

古事記を作った2人の怪しい血筋

稗田阿礼(ひえだのあれ)
日本での地位は舎人(とねり)。古事記編纂者の一人。
『新撰姓氏録』には名前としては出てこない。

恐らく、秦氏である。稗田というのは地名にもある。農民。
農民は灌漑をしないと水を引けない。あるいは畑の「はた」も秦氏で、農耕を指導するのも彼らである。日本に灌漑の技術を指導をしたのが「秦氏」→これにより、日本は狩猟文化から農耕文化へ移行していく。

これまでは狩猟、漁猟、生きている物を食べるのが主流だったのを、畑を作って米を栽培するというのも、どうも秦氏が持ち込んだのではと推測する。
彼らは船で来ている人たちが多く、コメの伝来は東南アジアが多く、暖かい地域の産物で、秦氏が持ち込んだと考えるのが妥当である。

朝鮮は日本よりもはるかに寒いので、そこから米が日本に来るわけがない。
米は東南アジアから持ち込まれ、関東東北ですでに作られていると考えるのが自然である。

京都にある加茂神社、各地にあるが
京都府京都市にある「御阿礼神事・・・みあれ」は、出現、誕生の意味で神の出現、天降り。    「阿礼」は巫女のような存在として阿礼巫女姫(アレミコヒメ)、阿礼比売命(アレヒメミコト)の存在が知られています。

これを見ると、どうもアメノウズメ天宇受賣命、サルタヒコ猿田毘古、スサノオ須佐之男、ヤマトタケル倭建阿礼巫女姫(アレミコヒメ)、阿礼比売命(アレヒメノミコト)などユダヤ系の神々の名前は異色の神話の中の存在が、どうやら稗田阿礼によって作られたのではないだろうか?と推測される。

つまり、上賀茂神社、下賀茂神社の御阿礼神事が、稗田阿礼に繋がり、アメノウズメに繋がる?
名前の関連が非常に大事である。稗田 → 羽田(はだ)に近い。頭のいい、想像力のある人達が文字で書くという、日本人が簡単にできるものではない。
強力な記憶力を持っている・・いろんな人の言う事を聞き、それを頭に留めるという能力はユダヤ人は凄いのです。
稗田阿礼という人はこういう人物であると考えられる。彼はユダヤ系であったのである。血が繋がっているとその能力はいくらでも再現される。

稗田阿礼(ひえだのあれ)、太安万侶(おおのやすまろ ?~723)

古事記は稗田阿礼(7世紀後半~8世紀初頭)が記憶した記紀(日本書紀、古事記)以前の日本の歴史書である。『帝紀』『旧辞』(いずれも現存しない)を、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録・編纂し天皇に献上した。

太安万侶も、今まで不明であったが、墓が見つかり実在の人物であったことが判明した。
太安万侶も同じような人物であったと、しかしそれほど高い地位ではないとのこと。しかし天武天皇が命ぜられたものですから地位の高い人がやるべきであり、日本書紀がそうであるように、やはりそれだけのことを認識されているわけです。と。

太安万侶は大氏(たし)→秦氏(はたし)崇神天皇の息子の系統で様々な名前でユダヤ人たちは

ユダヤ系氏族 → 大氏 多氏 秦氏 土師氏、毛野氏

古事記の文体は漢文ではない。読みだけで漢字を使っている。言葉の能力があり、転換の出来る人でないとできない。太安万侶、稗田阿礼もユダヤ系であり、だからできるのであると考えられる。

ユダヤ教を思わせるユダヤ人たちの性格がよく出ていて、日本では考えられない行為をする。例えば姿の描写がずば抜けて大きく、日本人離れしている。

太安万侶、稗田阿礼のコンビが日本の歴史を非常に面白く作り上げるという。稗田氏というのはだいたい応神天皇に近いということがあり、そこから生まれているということも調べると出てくる

従って著者のこの二人を考えると古事記の創作がはっきりとわかってくる。

以上 田中英道師の研究による

稗田阿礼、太安万侶 共に人物画像が残っていないようです。

まとめ

①日本に灌漑の技術を指導したのは秦氏

②日本の姓を見ると、ユダヤ系の姓がたくさんある。

③『古事記の編纂に当たってユダヤ系の人物(太安万侶、稗田阿礼)が能力を発揮したことが分かる』

 

次回は「ユダヤ人、日本同化の過程」 お楽しみに


兵馬俑から読み取るユダヤ人の足跡

「記紀」について

奈良時代の720年(養老4年)に完成。日本最古の正史である『日本書紀』と、712年(和銅5年)に完成した日本最古の歴史書『古事記』を併せて「記紀」という。

「古事記」は「日本書紀」より神話らしく、荒唐無稽である。民族の記憶がフィクションとして描かれている。高天原が天上の物語のように・・

「高天原(たかまがはら)とは」
「日本書紀」「古事記」などに記された神々の住む天井の世界。
高天原は一般に「天井の神々の世界」と思われているが、田中教授は著書「高天原は関東にあった」(勉誠出版刊)などにおいて縄文時代以来の日高見国の中心が高天原であり、茨木県の鹿島神宮周辺であるとの見解を示している。

「神々とはどんな存在なのか」を考えると、特徴として単なる天上人ではなく、働くなどの生活空間があり、必ずしも天国の様なものではないということが分かります。日本の縄文時代の歴史等

遺跡が関東・東北にあり、そこにおける歴史が日本の祖先として神々があり 関東東北に住んでいた人たちが更に大和の祖先として神々と考え、これは新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)として815年氏族の名鑑であり、そこに3つの氏族として分類されている。

皇別・・神武天皇以降の天皇家から分かれた335氏族。清原、橘、源、蘇我などがある。

神別・・神武天皇以前の神代の404氏族。更に「天神」「天孫」「地祇」にわかれる。
「天神」は邇邇芸命が天孫降臨した際に付き添った神々の子孫。藤原。物部。忌部、中臣など246氏。
「天孫」・瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫。尾張、出雲など128氏族
「地祇」は天孫降臨以前から土着していた神々の子孫。安曇、弓削など30氏

諸藩・・渡来人系の氏族。秦、大蔵など326氏

渡来人の中の1/3は秦氏である。
秦氏とは最も有力な渡来系氏族。日本書紀によると応神天皇(270-310)の時代に中央アジアの弓月国から2万人規模で渡来したユダヤ系渡来人。秦の始皇帝の子孫。後裔であり、応神天皇、仁徳天皇に厚遇され、日本に帰化した。
聖徳太子の時代に活躍した秦河勝が有名。雅楽、能楽の祖でもある。

 

秦の始皇帝

清の君主であった始皇帝(前259~前210)は紀元前221年、史上初めて中国を統一した。

 

志那・・・「秦(シン)」が語源という説がある。
唐・・・北アジアの遊牧民が造ったと言われている。
後漢・前漢・・・漢民族が造ったと言われている。以後は游民族    が支配する。それ以降は游民族が入って来ては政権をとっている。
苗族(びょうぞく)・・真の始皇帝の時代に入り込んだユダヤ12氏族のうちのひとつと言われる。秦で摂政や関白の地位で関わる。
荘襄王(そうじょうおう、前281~前247)秦の第5代の王。始皇帝の父。始皇帝のお母さんがユダヤ系のため、ユダヤ的な個人主義,強い意志と長いディアスポラの中で生き抜いてきた能力を使い中国を支配する。従ってかなり乱暴なことも平気でやり、暴力的に国を統一することをやり遂げた。
だが、中国に根ずいていないので15,6年で消えてしまった。
しかし、秦の始皇帝陵から出土した大量の兵士や馬をかたどった埋葬品から読み取ることが出来
る。御者の顔が立派なユダヤ人の顔であったりする。
一方、兵馬俑は皆同じ中国人の形と姿をしていて、お墓に埋められている5,6千の兵馬俑が残っており、一人一人全く個性のない造られた写実的であり、正に志願された中国人の姿である。

秦(前778~前206)時代の方士、徐福

瞑想や気功などによって不老長寿を実現しようとする徐福もまた秦の始皇帝の命令により不老不死の薬を求めて東方へと船出した。平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり、秦には戻らなかったという。日本各地に徐福の伝承が残されている。

長寿の国、日本に2000人の若い人を連れてきて研究させようとするが、彼らが日本に居ついて戻らなかったという。それが紀元前2世紀末はじめ二番目にやってきたユダヤ人たちらしい。
今まで、これが中国人だと思っていたが、三国志や中国の歴史をよく検討してみると、そこまで12氏族が来ていることをみると、彼らユダヤ人たちが中国に入り、客家(はっか)という商人になった。
秦氏とう中国人の名前で来ている。それが朝鮮経由でやって来るので、百済・新羅人だと思われて、記録にはユダヤ人として残らない。

それで皆、朝鮮人だと思い、未だに大半の人たちが信じている。
日本の埴輪の姿はあきらかにそういう人たちだと

彼らはユダヤ教を捨てたにせよ、正式な埋葬とされるときの葬式にはこのような姿で出てくるということは十分考えられる。これではっきりとユダヤ人だと分かる。

 

まとめ

①新撰姓氏録から見ても、1/3が渡来人(ユダヤ人)だったことが分かる

②中国(支那)の歴史を見ても、ユダヤ人が重要な地位に位置し、兵馬俑からもその足跡を感じられる。

③中国に根を張ったユダヤ人たちは朝鮮を経由して、日本まで来ていることも十分推測できる

以上田中英道師の調査研究によるものです。

次回は「日本の歴史は誰に記された?」 お楽しみに❣


失われた10氏族の謎

失われた10氏族は日本にやって来た!?
その可能性がある。 紀元前660年、大和国の成立と言われている時代に、彼らが国を作ると同時に、外敵から守るという概念を与えた、つまり他国との危険さを知らしめた人たちがいました。

ここで天孫降臨を行った。しかも天孫降臨は二度行われている。
一つは物部氏の祖と言われる饒速日命、二番目は藤原氏の祖、中臣氏の祖と言われる邇邇芸命が鹿児島に天孫降臨され船で南から固めていくということをやられた。

そして饒速日命、邇邇芸命が共に同じ時期に鹿児島に行かれ、一方では高地から大和に岩船で入られました。この神話が語られるときに外の世界を知っているユダヤ人系の秦氏が入って来られたと考えられます。

これは朝鮮や中国ではなく、関東は秦氏が大分入っておりました。
紀元前1000年頃から紀元前660年の建国の時期と、更に崇神天皇により大和国がしっかりと成立するとき、そういう時代に彼らば入って来て大きな墳墓を造り始めました。

この時、西のローマは巨大建築の時代に入っているので非常によく対応しておりました。それはまるでピラミッドが日本に移ってきたように巨大建築を造るフリーメイソン(石工、レンガ職人など)が日本にもやってきておりました。
この墳墓というのは西の古代ローマが大建築の時代に入っているのと非常によく対応しておりました。

旧約聖書に記されたイスラエルの暗号

 

これまでは日本の歴史を古事記をもとに解説されましたが、今回は旧約聖書の中身を紐解きながらいろいろな謎を読み解いていただきましょう。

 

旧約聖書に書かれた創造主ヤハウエ 7日間で世界を作った「天地創造」を信じるユダヤ人が、何故根本的に歴史観の違う日本をめざしたのか?

なぜ旧約聖書『イザヤ書』には「東で主を崇め 海沿いの国々でイスラエルの神 主の名を崇めよ」と聖地を捨てさせるような記載がされているのか?

まだ今の様に安定した居住地、食料のなかった時代、当時の生活感、行動原理を知ることで、ユダヤ人たちが日本に来る理由・意味が理解できるでしょう。

ユダヤ人たちの創世記を観ていると追放されていく運命を持っているような物語だと想像します。
創世記の、神が7日間で創造する物語を見ると、闇と光、光と闇夜の創造とあり、日本の神話と違うのは、必然的に国を追い出されるような運命を追う民族の様な気がします。
アブラハム・ヤコブ・イサク・・・12人の息子がいて12氏族がつくられます。

722年 アッシリアがユダヤ人たち12氏族を分裂させて2氏族しかいなくなります。

すでにモーゼがエジプトから奴隷になってしまった人々を救うためにカナンの土地に行くのに40年もかかったという。まずは日本に来たかという可能性が感じられ、これはモーゼ五書の申命記を読むと
「主は地のこの果てからかのはてまでの諸々の民のうちにあなたがたを散らせるであろう。そのところであなたもあなたの先祖たちも知らなかった木や石で造ったほかの神々にあなたは仕えるであろう」

さらに

申命記28章64節には
あなたのかみ、主の声に従わなかったから、残るものが少なくなるだろう・・・と記されています。

この二つに記される表現「木や石で造った・・・ほかの神々にあなたは仕える・・」は日本と関係記述である。これは偶像、つまり自然の神=「神道」を信じるということです。

ディアスポラ「民族離散」・・ユダヤ人たちが「追放される」あるいは「旅に出る」ことが「散らされる」という。そこから彼らは散らされる運命にあるのだということを改めて感じさせられます。これは日本にいる神々は誰も知らなかったことであります。

申命記『28節65章』
その国々の民のうちで、あなたは安らぎを得ず、また足の裏を休めるところも得られないだろう。主はそのところであなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせるであろう。

これは、もしユダヤ人が来たら、木や石に従うなんてことは好くないのだと、ここではっきりと言っている。つまり、これは絶対にやってはいけない。との忠告なのです。
これが、実際に日本にやってきたユダヤ人たちが、日本にいることを言わなかった、言えなかった原因なのです。ヤハウエの神(聖書において万物の創造者とされる唯一の神)の裏切り者となるので・・。正に自然神に従うことはユダヤ民族としては絶対にやってはいけない事なのです。

申命記『28章68節』
主はあなたを船に乗せ、かつて私があなたに告げて、「あなたはふたたびこれを見ることはない」といった道によって、あなたをエジプトに戻されるであろう。あなたがたはそこで男女の奴隷として敵に売られるが、誰も買うものはないであろう」

モーゼが率いていたシナイ半島にいたユダヤ人たちが東に行った人たちと戻る人たちがいたということが想定できます。戻る人は元のヤハウエの道に戻ることになるのです。

つまりこの時代は、モーゼがイスラエルに戻ろうとする時に来ている。これが日本に来たユダヤ人の流れの中の第一弾であると捉えることが出来るのです。
この時代はモーゼ章がいつ書かれたかによると

モーゼ五書・・・24巻ある旧約聖書の最初の5つ  モーゼが書いたという伝承からこう呼ばれる。「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民族記」「申命記」の五つ。
アッシリアに追われた人が日本に辿り着いた時→紀元前670年?
∴紀元前722年12氏族の10氏族が世界に散った
紀元前660年日本建国 → タイミングが合います。

申命記『28章64節』 木や石で造った他の神々にあなたは仕えるであろう → 神道?

ユダヤ人たちは神道を自然信仰としてみていました。
日本に定着した人たちは、戻らないでモーゼの言っていることを確認しました。
しかし裏切るだけのことはあると、アニミズムの最低の考え方もあるが、それ以上のものもあると捉えたのではないだろうか。それは自然環境、特に木や石といっているところを見ると、山を含めた自然環境が素晴らしい日本をイメージさせるのです。以上田中英道師の解釈、見解です。

この章のまとめ   失われた10氏族は日本にやってきた!!

①申命記に日本とユダヤ人の結びつきを思わせる記述が多くある。

②氏族が散った時期と日本建国はほぼ同時期

③神を裏切ってまで、自然信仰に仕えるまでの環境が日本にはあった

 

 

 

 

 


旧約聖書に記された “日本 “

何故 ユダヤ人は日本をめざしてやってきたのか!

ユダヤ人と日本人について考えると、これまで奇想天外な考えだったことが、意外にそうではないことを埴輪が明らかに示しています。

秦氏の歴史と、埴輪のユダヤ人との関係、更にこれまで言われてきた古事記、日本書紀がこれをどのように扱い、そこから何が読み取れるのか。

また著者の問題、とくに古事記、それ以後の歴史がどう絡み合っているか。

日本の神話と歴史は結びついています。その文脈の中でこれらの人たちがどう絡んできたのか、田中教授が系統的に解明しておられます。

特に今回はユダヤ人たちの立場が日本をいかに必要としたか、そして彼らがどのように日本の中で同化していったのか、世界におけるユダヤ人の歴史があるわけですが、それとどう関係しているのか、様々な問題が生じております。

まずは、長い縄文という時代が日本にはありました。この時は、まだはっきりとしたユダヤ人はおりません。ユダヤ人の歴史は紀元前2000年前頃から始まっています。
日本は13000年頃から16500年ぐらいまで縄文土器が造られておりました。独自な文化を持ち始めたのはその頃からです。

縄文正史 長い歴史のどの辺から彼らが入ってきたかという問題、そしてそれがヤハウェの神を信じているユダヤ教徒、そのユダヤ教徒がどのようにして日本の神道を受け入れたのか、後にユダヤ教徒は日本には殆ど存在しなくなったということですが・・。

そこにはイスラエルの国のユダヤ人と日本にやってきたユダヤ人とのどんな違いがあるのか それをどのように理解することが出来るのか・・・

 

「日本書紀と日本語のユダヤ起源」 ヨセフ・アイデルバーグ
について

現在のウクライナ南部生まれのユダヤ人
日本語とへブライ語の発音と意味に多数の共通点を見つけ、記紀など多数の日本文献を研究し著作「日本書紀と日本語のユダヤ起源」の中で、日本人と古代イスラエルの失われた10氏族との関係性について独自の見解を示しています。・・・・

 

しかしこの本は「ユダヤ人が日本を造った」などと飛んでもないことを言っています。
しかしそうではなく、日本に入ってきたユダヤ人たちがどのように日本と同化してきたかという物語が語られるべきである。これは決してイスラエルのユダヤ人に失礼になることではないと田中教授は指摘します。

同化することがユダヤ人たちの元来の立場であるということもお話ししなくてはいけないと。

日本はもともと「太陽が昇る国」であるということが大きな前提であり、
アフリカからホモサピエンスが発生し、そこから人々が動き始めた時に、これは新石器時代、旧石器時代に遡るという長いスパンを持っておりますが、まだ民族が生まれていない時代に、日本という国はもう存在していたという。
これは、旧約聖書にも地の果てと(東の国の島々に)と記されております。アフリカに人類が誕生してから100年も経たずに日本にやった来た人々が、長いエジプト、シナイ半島として中東、ユーフラテスを超えて長い道を(後になってシルクロードという)歩いて、あるいは馬に乗り、あるいは逆に中東あたりから船を出してペルシャ、インド、東南アジアを超えて日本にやって来ると言う船の航路もあったのです。

日本に何故来るかというと太陽が昇る国だからです。これはユダヤ人たちも旧約聖書にて述べております。彼らも東の果ての国だということも、エジプトの神話から、太陽神のラーが船の先頭に書かれているわけですから東の国という存在が日本であることが分かっていたのではないかと思われます。我々はそこに16500年以降、あるいは人口が多くなり13000年ごろから、日本に太陽が昇る国という概念が出てきたと思われます。

そこで日本では竪穴住居が造られ始め、土器もどんどん作られ、土偶という形、とくに日本神話で語られるヒルコの存在が土偶になったと考えることが出来ます。

それと同時に漆や勾玉、勾玉も1万年以上前から造られていることが発掘で分かっています。従ってその時から日本は太陽が昇る国だということが島の国として言語を交渉、貿易、通商も行っていました。その中でいろいろな人が世界の各省からやって来る。北海道、朝鮮半島からも東南アジアからも島伝いにやってくる。琉球は日本に来るユダヤ人たちの通り道であったということもわかってきたのです。

 

 

次回は世界最大の謎「失われた10氏族の謎」です。お楽しみに


ヤマト王権繁栄編(後編)

古墳時代から仏教伝来

第10代崇神天皇は各地に将軍を派遣するなど、大和王権の基盤を整え、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と讃えられました。

その後も日本武尊(ヤマトタケルノミコト)による各地への遠征や神功皇后による朝鮮半島の新羅征伐など内外の平定が行われました。

こうした努力が実り第15代 応神天皇 第16代 仁徳天皇の御代 古墳時代の黄金期を迎えます。

国内は落ち着き、引き続き、朝鮮半島の国々も朝貢国として従えていました。

当時の日本がいかに大国であったかを知るには、応神天皇・仁徳天皇の陵墓を見るだけで充分でしょう。

 

応神天皇陵                               長さ425m 高さ36m

 

 

 

仁徳天皇陵

長さ 525m 高さ 40m

往時は更に大きかった可能性が指摘されています。

ゼネコン大手の大林組が昭和60年1985年に古代工法による仁徳天皇陵の建設工費と工賃を算出したところ、延べおよそ680万7000人(2000人/日)が動員され、工期は15年8ヵ月 総工費は796億円でした。

このような世界最大級の建造物を造る国力が日本にあり、時の天皇がそれほどに尊敬される存在であったことは確かですが、それだけではありません。資金と技術の面で大いに活躍した氏族がいました。それは秦氏です。

日本正史である『日本書紀』に次のような記述があります。

応神天皇十四年二月

弓月の君率いる約18000人が日本への帰化を希望していたが、新羅が邪魔をしていたため、加羅国(からこく)に留まっていた。応神天皇は「木菟宿禰」(つくのすくね)に精兵を授け、邪魔するものを打ち、道を開けと詔した。 新羅王は恐れて詔に伏した。

こうして弓月君率いる約18,000人もの人々は日本にやってきます。

弓月の国とは現在のウイグル カザフスタンにあった原始キリスト教を信仰する国で、平安時代初期に造られた士族名鑑である新撰姓氏録には

秦氏は秦始皇帝の三世孫、孝武王の後裔であり、孝武王の子の功満王(こうまんおう)は仲哀天皇8年に来朝、更にその子の弓月君が応神天皇14年に来朝した。とあります。
秦の始皇帝がユダヤ系であることは中国古代の文献にも書かれ、田中教授も研究により確かめられています。
従ってその子孫である弓月君と、弓月君と率いられた多くの帰化人たちもユダヤ系渡来人です。
日本は彼らの帰化を快く迎えました。

彼らは養蚕や絹織りに従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように温かいことから波多の姓を賜ることとなりました。そして現在の京都、太秦の地を与えられました。

ディアスポラ民族離散により彷徨ったユダヤ人たちは、豊かな自然に恵まれた日本に快く受け入れられ、同化し、様々な分野で日本のために活躍するようになります。特に自分たちを連れてきてくれた応神天皇や手厚い待遇を与えた仁徳天皇への感謝から資金や土木技術を惜しみなく投入し、世界最大級の巨大な墳墓である応神・仁徳天皇陵の建造に力を尽くしました。

 

 

 

 

 

6世紀になると日本に仏教が伝来します。聖徳太子は個人が信じることが出来る宗教として仏教を受け入れました。共同宗教の神道と個人宗教の仏教、この二つを受け入れることで日本人の精神は豊かに熟成していきました。

日本人は佛を「ほと」という仏教の教えを「け」形にみました。すなわち仏像です。そして個人宗教である仏教が入ったことにより

仏像には作家が誕生しました。
優れた仏像のたぐいまれな姿は神道の土台の上に仏教によって人間を深くみつめた仏師たちによって生み出されたのです。
歴史学者であり美術史の第一人者である田中教授は仏像を語る時、作家を重要視しない傾向には警鐘を鳴らしています。

神仏習合を成し得た日本はますます成熟し八世紀前半には聖武天皇によって世界でも稀有な文化国家へと導かれます。

あおによし ならにみやこは さくはなの

におうがごとく いまさかりなり

奈良(寧楽)の都は今は、

咲く花の匂うように真っ盛りである

と、謳われた天平の時代です。

聖武天皇は仏教による鎮護国家を目指し、全国に国分尼寺を創建、総本山として東大寺を建立し、

台座を含めると18mにもなる現在でも世界最大のブロンズ像である奈良の大仏を造ります。

大仏を造った仏師 国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)は、田中教授が天平のミケランジェロと呼ぶ大彫刻家です。

次は「日本に同化したユダヤ人」です。お楽しみに。


日本国家形成の過程~ 前編

日本国家形成の過程を考えるには、東アジアに限定した視界を取り払い、世界的視点に切り替え、世界地図のアフリカ大陸/ユーラシア大陸/日本を思い浮かべてください。

アフリカで誕生した人類・ホモサピエンスが世界に拡散したわけですから、日本人もその中におりました。

10万年前アフリカで人類は誕生し、太陽の登る場所を目指して東へと進み始めます。中東・インド・東南アジアを経て日の昇る国、日本に辿り着いたのは今から約4万年前のことです。温暖湿潤の穏やかな気候と豊かな自然に恵まれた日本列島に到着した人々は、さらに東へと進み定着しました。そして温暖期を迎えた縄文時代には、東日本を中心に高度な文化を育みました。

縄文文化の代表として知られる縄文土器は世界最古の土器であり、最も古いものは青森県東津軽群の大平山元遺跡から出土した1万6500年前のものです。

縄文時代はこの頃から紀元前10世紀頃まで約1万5000年にわたって続きました

東日本に栄えた有力な氏族たちは、日が高く昇のを見る国、日高見国を形成し、その中心は東の最も広大な関東平野にありました。例えば後に藤原氏となった中臣氏の出身が茨木県鹿島市の鹿島神宮であり、物部氏の出身は千葉県香取市の香取神宮です。いずれも今日までその歴史を続けています。

弥生時代に入ると寒冷化が進み、関東・東北に集中していた人口は徐々に西日本へと移動します。アフリカから人類が日本列島に到達したように、その後も帰化人の日本への流入も続いていました。シナ大陸では周の統一王朝が崩れて春秋戦国時代に突入しており、戦乱状態の大陸から九州へと流入してくる難民も多かったでしょう。日高見の国の人々はこのような外圧に相当な危機感を持って西日本をまとめる必要に迫られます。神話に語られる天孫降臨・神武天皇による東征はこのようhな外圧を受けた統一事業でした。そして日本の中心は東日本から西日本へと移ります。

 

最初に東が西を抑えたのは「国譲り」でした。出雲を中心に西日本に栄えた新興勢力を東日本に栄えた縄文以来の日高見国が吸収しました。日高見国から派遣された武御雷の神・経津主命は強大な力を持って出雲の大国主神を説き伏せます。

藤原氏の氏神である武御雷神は現在も鹿島神宮におられ、物部氏の氏神である経津主命は現在も香取神宮におられます。

日高見国の中心 神々の住む高天原は現在の茨木県鹿島であり、そこから邇邇芸命一行は大船団を仕立て鹿児島へと天孫降臨しました。鹿島から鹿児島へです。

鹿島の児だから鹿児島というわけですから、明治の廃藩置県の時、県名を考えた人は歴史としての神話の記憶を地名に残したかったのでしょう。

江戸時代の著名な学者・新井白石も 「神は人なり 高天原は鹿島神宮のあたりを指す」と述べており我々が教えられた戦後の歴史教育とはずいぶん違っています。

そしてここでもう一つ重要な事があります。

一般的には天孫降臨というと邇邇芸命によるものを言いますが、もうひとり饒速日命という方が関西に天孫降臨していました。

鹿児島へと天孫降臨した邇邇芸命から数代を経て、神武天皇が西日本を平定するため宮崎を出発します。一方饒速日命の勢力はすでに関西を抑えていました。

九州、中国地方を制圧し関西に入った神武天皇は饒速日命とぶつかります。その中の長髄彦に敗れ窮地に追い込まれます。それまで西から東に向かって進んでいた神武天皇は日高見国の太陽の御子である自分が東に向かって行軍するのはいけないと考え、大阪から伊勢方面に回り込み、太陽である日高見国を背にしてその後押しを受けて戦い勝利をおさめます。そして奈良県橿原の地で最初の天皇に即位されました。

このように東日本の高天原勢力による「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」という統一事業は大陸情勢を背景とする危機感から行われたものであり、特に神武東征は九州防衛に対する強い危機感から計画されたと考えられます。

最初に大和王権都となったのは奈良県桜井市にある纏向遺跡であっただろうと考えられます。纏向遺跡からは4棟からなる3世紀前半の居館跡が発掘されました。

最初に日高見国から関西に降った饒速日命の居館だったのでしょうか?

それとも神武天皇でしょうか?

田中教授が神武天皇と同一人物ではないかと考える第10代崇神天皇かも知れません。そして纏向地域には278mという巨大な前方後円墳箸墓古墳があります。

3世紀後半のものとみられ巨大な前方後円墳としては最古のものです。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、  卑弥呼の墓だと主張する説もあります。

しかし田中教授は神武天皇と同じ 始馭天下之天皇(ハツクニシラス)の名を持つ第10代崇神天皇の陵墓ではないかとの説を展開します。それはこういう流れです

饒速日命が関西に天孫降臨(最初に関西地域を治め)決史八代 2~9代  饒速日命の政権

その後に神武天皇の政権が行われたと考えると

第10代 崇神天皇が神武天皇であり、最初の巨大前方後円墳である箸墓古墳こそが崇神天皇(神武天皇)の陵墓であるということです。

ヤマト政権誕生の地である奈良県桜井市には三輪山に鎮座する大物主神を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)があります。

日本の神道はまず太陽を中心とする自然そのものが神であり、自然と神は一体となっています。

古事記の冒頭もまず天地が現れ、そして最初の神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れます。

神が自然をつくるキリスト教とは反対です。

三輪山は山そのものがご神体であるため、古来より江戸時代まで神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない禁足の山とされてきました。明治以降は心得・規則を尊守すれば入山できるようになったものの一部の神域に禁足地が定められています。

日本の歴史は大和から西日本から始まり、それ以前は古代の神話の世界というイメージを持っていないでしょうか。

しかしそれは大きな間違いです。

縄文時代から東日本に高度な土器を造る文化的な国々があり、それらの氏族たちが日高見国を形成し、弥生時代になり、日高見国が西日本に大和政権をつくりました。

日本は東から始まった国なのです。古来から伝わる中臣氏祝詞には、日本のことが「大倭日高見国」と書かれています。

西の大和国と東の日高見国の二つをあわせて日本ということです。

以上田中英道教授より・・・ つづく


平氏が源氏に敗れた理由?

世界最大の木造建築「東大寺大仏殿」

東大寺創建当初のレプリカ

1910年、ロンドンで開かれた日英博覧会に出展した東大寺創建当初のレプリカ(複製品)が展示されています。これは、東大寺創建当初の50分の1に縮尺されたものです。

このレプリカを見る限り、大仏殿の両脇には、今は存在しない7重の塔が建っていたことが分かります。当時はこれだけのものを建設する情熱と財力がありました。渡来人・秦氏の財力を使って造られたという説もあります。

これほど巨大な大仏殿は何といっても日本しかありません。世界一と言っても1.5倍から3分の2に縮小されてしまいましたが、それでも未だに世界一です。天平時代の日本人の壮大な心を感じさせられます。

聖武天皇が752年に開眼式を行った時に一万人以上の人が集まり、祝ったということです。

聖武天皇曰く、「この仏像が倒れたら国家が倒れる」。しかし2度も倒れてしまいました。                それは平重衡が源平の戦いの中で奈良までやって来て燃やしてしまったのです。平家がそれ以後立ち直れなかったのはこのせいであります。それにより源氏がこれを大事にすることで、頼朝と鎌倉幕府が征夷大将軍になり、東大寺復興の中心となって尽力し、落城供養にも上洛されております。

大仏が中心的な役割を常に演じております。今はこのように言う歴史家が少なくなってしまい、この大事さを忘れてしまっておりますが、とんでもないことです。未だにこれだけの多くの人が日本にやってくるということは奈良の大仏を見なくてはいけないという気持ちが大事なことで、造形の中に形として日本の象徴があるのですと、田中教授は解説されます。

平安時代編さんの「東大寺要録」や「朝野群載」などによると、東大寺には8世紀半ば、
100メートル級の大型の東塔と西塔が建てられていたそうです。

ところが平安中期に西塔を焼失し、その後1180年には、平清盛が五男の重衡に源氏と連携し始めた南都の追討を命じ、焼き打ちで東塔も焼失してしまいました。

鎌倉時代に高僧・重源によって東塔が13世紀に完成しましたが、再度落雷で焼失してしまいました。

次は古墳時代から仏教伝来 (ヤマト王権繁栄編)をまとめてみましょう。


東大寺盧舎那仏像

         世界が注目した神道x仏教のブロンズ像

聖武天皇によって建てられた国分寺の中の一番重要な東大寺の大仏です。
残念ながら2度も焼失しましたが、今あるのは1700年頃の作品です。しかし大きさと重量感はまだまだ支えられ、多くの観光客に身守られています。

東大寺盧舎那仏の造像、大仏殿建立の指揮をとった仏師・国中連公磨呂(くになかのむらじきみまろ)のこの作品は、複雑な青銅の技術であり、まずは粘土で造り、それをぴったりとした枠組みで包み、その後、粘土の表面を削り、そこに青銅のどろどろとした液体を流し込み、固めたものがブロンズ。それが天平の大仏で、約16メートルもある高さのものは世界でも、ギリシャにもありませんでした。この技術を習得したのは、やはり帰化人の集団と思われます。公磨自身も帰化人の3代目なのです。

帰化人と言っても日本人の一部ですから、当時、奈良には3人に一人(2人に一人?)は帰化人と言う考え方も成り立ちます。元来日本人はアフリカから出発して辿り着いた人たちですので、すべてが帰化人と言っても好いくらいで、この風土がたちまちにして日本人になってしまうことが日本の凄さなのです。決して断崖に造る中国の建築とは比較にはなりません。

752年、この大仏の開眼式が行われました。1万人以上の人が集まり、菩提僊那(ぼだいせんな)と言うインド人の僧侶が取り仕切ったのです。元来は聖武天皇ご自身が務められるのですが、それだけインドの僧を尊敬されていたということでもあり国際的でもあったのです。更にこの開眼式には最大な催しものが行われたのです。国際色豊かな盛大なるものであったということが記録でも分かります。

これは華厳経というお経に基づいているとはいえ、聖武天皇自身が神道と関係ないように見えますが、アマテラスという存在が大日如来、盧舎那仏と同化して太陽の意味合いを持っています。

更に神道の宇佐神宮の、み使いが来て、その一行が大仏を造ることを促進したことも、神が守っているということです。そういう意味で神仏習合ということでもありました。

聖武天皇(45代天皇)ご自身は出家をされましたが、同時に天皇でもありました。従って自らが神仏習合(神仏混淆しんぶつこんこう)の考え方を身に付けられたのです。これは共同体の神道と仏教と言う個人宗教、そこにもうひとつ法相宗という考え方があり、それがミュージアムでみた仏像にも影響していると思います。

つまり、個々人の感情・感性を大事にしているわけです。そのような仏教が国家の共同体と共にあるのです。華厳経と言うのはそれにふさわしい宗教であるのです。
どこにでも光があたり、小さな部分にもすべてに当たるということをお経で述べております。

仏の「け」というのは形のことで、「ほと」がブッタです。鎌倉時代にこの像を見て自分が仏教徒になろうという決意を書いたという文章がたくさんあります。仏を見て拝みながら自分が仏の道を歩もうとする。決して形式的にブッタの代わりに在るというものではないのです。全ての仏教が結集してこの仏像が出来たということです。

仏師の役割も大きく、いかに立派なものを造るかということです。そういう意味で仏師・国中連公磨呂や彫師や色彩もすべてが重要な関係性を持っているのです。

田中英道師の解説です。

 


真・日本建国史  ②

現在、日本は「建国」の記憶を失ったまま、歴史を刻んでいます。どの国も、自国の建国の経緯と精神を知り、当たり前のように教科書で教わっていますが、日本では多くの国民が建国を成し遂げた自国の初代天皇すら知りません。

もちろん建国記念の日に建国を祝う国民も少なく、自国がいつどのように誕生したのか説明することが出来ない状態です。

日本青年会議所(JC)の調査によれば、日本建国の日を知っている日本人は2割未満しかいなかった一方で…日本在住ではあるものの、中国人は100%、米国人は90%以上が自国の建国・独立の日を正しく答えられたそうです。

むろん 教科書で建国について一言も説明されていないので、しかたがありません。

日本は神武天皇の建国から2600年以上、初代・神武天皇から今の天皇陛下にまで126代にわたり、伝統の系譜が繋がってきたことのありがたみを感じることでしょう。

正しい建国を多くの日本人に知ってもらい、日本を誇らしく思える人が増えることで、それが子供や孫にも伝わり、失われた日本国民の正史を取り戻すため未だに論争が続く『神武天皇』の正体について田中教授が明確な結論を導き出し、“新説”をもって解明しています。

その本の内容をご紹介しますと

序章:天孫降臨と天皇家の起源  - 神武天皇とは何者なのか?

第1節
「国家とは何か」
縄文精神と”家”の文字が表す…日本人特有の国家観とは

第2節
「国家はなぜ作られるのか」
島国の日本に”建国”の概念がもたらされた理由

第3節
「自然が生み出した縄文精神」
なぜ日本人は万能の”神”を理解できないのか

第4節
「忘れられた”もう一つの建国神話”」
ヤマトの地で東国の縄文土器が出土する理由

第5節
「”世継ぎ”で紐解く神武天皇の系譜」
隠された初代ヤマト王『ニギハヤヒ』の正体

第6節
「解明・欠史八代の謎」
100歳超えの天皇は実在した?ニギハヤヒの子孫の記憶

 

第1章 ヤマト王権建国- 神話が示す神武東征の真実 

 

第1節
「なぜ神武天皇は東へ向かったのか」
“日向”という名に秘められた東国由来の信仰心

第2節
「強敵ナガスネヒコとの戦い」
国譲りの恨み?..神話に描かれる高天原 vs. 出雲の構図

第3節
「東国系氏族・久米氏の正体」
失われたユダヤ十氏族と神武東征の不可解な謎

第4節
「好戦化するヤマト王権」
神武天皇の時代から突如として戦争が増えた理由

第5節
「田中英道の新・建国神話論」
ヤマト誕生を紐解くカギは”日高見国”にあった

第6節
「神武天皇は実在した」
初代天皇のルーツを解き明かす神話のカラクリ

本章を学んで頂くことで、日本初の王朝である「ヤマト王権」がどのような経緯で成立したのか? その一連の流れが分かるようになるでしょう。これまでは九州から関西にまたがる「西日本中心の国家統一」だと考えられてきた神武東征ですが、田中教授の新たな視点が加わることで、実は、神武東征とは「”関東”を中心にした西日本制覇の歴史だった」という、全く新しい建国の姿が浮かび上がります。田中教授の壮大な歴史観によって、神話の物語が実在した本当の史実としてリアルに描き出されます…

第2章 ヤマト王権の国家統治 - 文化、政治、対外戦争

第1節
「神武天皇の正体」
記紀から読み解く初代天皇の日本建国秘話

第2節
「古墳が示す日本の起源」
なぜ古墳は関東に多く存在するのか

第3節
「巨大古墳築造の謎」
中国・朝鮮系ではない…高度な建設技術をもたらした帰化人

第4節
「魏志倭人伝の嘘」
強大な軍事力で古代朝鮮を制服した女将軍

第5節
「古代に流行した中国由来の疫病」
日本国民全滅の危機…疫病と奮闘した天皇

第6節
「ヤマト王権の”陰の立役者”」
日本の文化、政治の基盤を作った帰化人

本章を学んで頂くことで、世界一の大きさを誇る巨大古墳が突然造られた意外な理由が分かり、私たちがイメージするより”もっと強大な”ヤマト王権の国力に気付くことができます。第十代・崇神天皇(すじんてんのう)の時代には「課税」も始まり、国家統治の土台が築かれ、その後の「三韓征伐」では、朝鮮半島の国々が戦わずして白旗を掲げるほど、強力な軍隊を日本が持っていました。 一体なぜ、建国したばかりの国がこれほどの軍事力を持つことができたのか? 本章を通して、通説では教わらない「ヤマト王権」の強さの秘密が見えてくることでしょう。

第3章 国家の基盤を作った帰化人- 天皇家とユダヤの関係

第1節
「天才民族・ユダヤ人の謎」
なぜイスラエル帝国を作れなかったのか?

第2節 「古代日本と同化ユダヤ」
聖徳太子、お面、仏像に見られるユダヤ人の痕跡

第3節
「ユダヤ系渡来人の功績」
相撲、埴輪、京都..文化の基盤を作った”秦氏”

第4節
「前方後円墳が作られた理由」
権力の象徴ではない?古墳に込められた祖先の死生観

第5節
「騎馬民族を支配した古代日本」
今の天皇家に受け継がれる遊牧民の風習

第6節
「戦闘:ユダヤ人vs日本人」
ヤマト王権に伝来した騎馬民族の戦い方とは

本章を学んで頂くことで、縄文以来の伝統を守りつつも、ユダヤ系渡来人を受け入れながら国家の発展を遂げた、国際色豊かな「ヤマト王権」の姿が浮かび上がります。あらゆる国で排除されてきたユダヤ人たちが、なぜ日本では政権中枢部にまで影響力を及ぼすことができたのか? その理由が分かるとともに、「朝鮮人・中国人が技術をもたらし日本を発展させた」という古代史の通説がそもそも誤っていたことに気付かされます。古代日本とユダヤ系渡来人の関係を知れば、歴史の見方が変わるだけでなく、身近にある文化的造形物からも「ユダヤの痕跡」が見えるようになり、古代日本の歴史に壮大なロマンを感じられるでしょう。

講座全体を見終わった後には、これまで”フィクション”だと考えられてきた初代・神武天皇が、実在した歴史上の人物としてはっきりと描き出され、失われた真実の日本建国史が見えるようになります。田中教授の壮大な歴史観、定説を大きく覆す新説に驚くとともに、神武天皇による建国以来、王朝が一度も滅びること無く、126代にわたり父系を絶やさず今日まで至っている…そんな日本の伝統の長さに感銘し、改めて自国の歴史に”誇り”を持つことができるでしょう。

真・日本建国史 神武天皇とヤマト王権の謎   田中英道著

さて クイズです。

日本という国は、「いつ」「誰によって」建国されたのか?

あなたは何問答えれるでしょうか?
是非挑戦してみて下さい。

第1問
日本を建国したのは誰でしょうか?

イザナギ、イザナミ
アマテラス
卑弥呼
初代 神武天皇
聖徳太子

 

第2問
日本が建国されたのはいつごろのことでしょうか?

5世紀ごろ
3世紀ごろ
紀元前2世紀ごろ
紀元前7世紀ごろ

 

第3問
日本が建国された場所はどこでしょうか?

京都
奈良
出雲
北九州

 

第4問
この中で日本よりも歴史の長い国はどれでしょうか?

中国
イギリス
デンマーク
日本が1番長い

 

第5問
建国記念の日とは、正しくは何を記念する日でしょうか?

初代 神武天皇の即位を記念する日
イザナギ、イザナミが日本の国土を作ったことを記念する日
アマテラスが天地を創造したしたことを記念する日
卑弥呼が日本で最初の国を作ったことを記念する日
日本が建国されたことを記念する日

 

以上、正解はご自身で研究してみてください。

なお、書籍についてはダイレクト出版株式会社です。

 


『真・日本建国史』①

日本建国神話とは、九州の地で「天下を治める」と決意した神武天皇が瀬戸内海を経由して奈良盆地とその周辺を統治していた豪族を滅ぼし、日本初の王朝・ヤマト王権を建国したという一連のお話です。

実はこの神話は、戦前までは当たり前のように教科書で教わっていました。
ところが、戦後になると「神武天皇は実際には存在していなかったので、架空の物語に過ぎない」「神武東征とはあくまで神話(フィクション)である」と神武天皇と東征の物語は「ただの作り話」として歴史学者から完全に否定され教育の場で全く教えられなくなりました。
神武東征は本当に「架空の物語」なのでしょうか?

戦後の学者が言うように、古事記や日本書紀に記された建国の物語は本当に「ウソの歴史」なのでしょうか?
最新の考古学研究で浮かび上がってきた神武天皇と神武東征にまつわる3つの謎を見てみましょう。

①  なぜ神武天皇の伝承が「東征ルート」の各地に克明に残されているのか?

実は、宮崎、福岡、広島、大阪、和歌山、奈良など、神武天皇が辿ったとされるルートには、異様なほど多くの伝承や遺跡が残されています。たとえば、神武天皇が出発したとされる宮崎県日向市の美々津町、この地域には「起きよ祭り」という不思議なお祭りがはるか昔から続いています。これは、午前4時過ぎ、子供たちが「起きよ、起きよ」と戸を叩きながら回るお祭りです。これは、東征を控えた神武天皇の出航が早まり、植戸を叩きながら慌ただしく送り出す様子が伝承として残され、祭りになったと言われています。
また、大阪府泉南市にある「男の神社」にも、神武天皇にまつわる興味深い伝承が残っています。神話では、奈良の大和にやってきた一行が敵の攻撃を受け神武天皇の兄が負傷するエピソードがあります。実はこの神社には、その兄の手当てをした村人の伝承が残っています。
奈良での戦いに敗れ、負傷した兄を乗せた神武一行は、船でこの地域に上陸、その際に、神武天皇の兄の右側で手当てした者の家を「右座」、左側にいた者の家は「左座」と名乗ったという言い伝えが残り、これらの伝承や遺跡以外にも、東征のルートのほぼ全ての地に「神武天皇がいた」という記憶が、古くから神社や伝承、神事、祭りなどに「完全」な形で無数に残されています。
もし神武東征が「架空の物語」だとしたらこれほどまで津々浦々と地元の人々が記憶し、伝承として残るものでしょうか。
そして、神武東征の痕跡でないとしたら、これらの伝承や遺跡をどのように解釈すればよいのでしょうか・・・

 

② なぜ、神武東征の経路だけに共通する「遺跡」が発見されるのか?
神武東征と一致する不思議な事実はそれだけではありません。

この分布は、弥生時代の中期から後期(前1世紀から後3世紀後半に推定)にかけての高地性集落の分布です。高地性集落とは古代日本の集落形態の一つで、高い大地や山頂に防衛的あるいは畑作農耕を営む目的で形成された集落です。この分布の不可解なことは、この時代の高地性集落が瀬戸内から大阪湾周辺、さらにはなぜか紀伊半島をぐるっと回って熊野あたりまで点々と残っていることです。この遺跡の分布、何かを彷彿させないでしょうか?九州から瀬戸内海を経由し、奈良に攻め込んでくる「神武東征軍の街道ルート」と、見事なまでに一致しているのです。
一体なぜ、神武東征と同じ時代に、同じ舞台でこれらの高地性遺跡がみつかるのでしょうか。奇妙にも一致するこれらの遺跡の数々は…神武東征の現実性を示唆しているのでしょうか?

 

③ 宮崎と奈良を繋ぐ二つの皇居軍跡…神武東征の痕跡
さらに、宮崎にある皇宮神社と呼ばれる神社を紐解いていくと、興味深い新事実が浮かび上がってきました。実はこの皇宮神社は「神武天皇の皇居跡」とされる神社で、地元では「皇宮屋(こぐや)」と呼ばれ、神武天皇は15歳で皇太子になると45歳で東征を始めるまで、ここに住んだと伝わっています。

 

同神宮の宮司はこのように言います。「この皇宮神社付近には古代から集落ができていたことがわかっています。稲作に適した土地で、大農園を造られたことが、ここに皇居を構えられた理由でしょう」また、宮崎県立看護大の大舘真晴准教授はこのように言います。
「ここに皇居があったことを端的に示すのは「宮崎」という地名です。宮の崎とは、宮殿の前とか宮の前とかを示す名前です。平安時代の古文書には『宮崎の郡』という表現が頻繁に出てきます。古代にはすでに、重要拠点としての認識があった土地だったことは間違いありません。
驚くべき新事実はこれだけではありません。

さらに近年、宮崎を出発した神武天皇が最終的に辿り着き、日本最初の国家を建国したとされる奈良盆地にも巨大な都跡が発見されたのをご存知でしょうか?
纏向遺跡と呼ばれる、3世紀初め~4世紀初めごろの遺跡です。歴史学者たちの度重なる調査によると、遺跡の範囲は東西約2km・南北約1.5kmにおよび、その面積は3k㎡に達しており、
まさに広大な古代都市の全貌が浮かび上がってきました。さらに驚くべきことに、その中に3階建てのビルに相当する20数本の柱の跡…王の皇居らしき巨大な建物跡も見つかっており、まさに相当な権力者がこの地で国を作ったことが伺えます。この纏向遺跡の不可解な点は。それまでの奈良は弥生時代に過疎地域だったにもかかわらず…突如として古代都市が形成されたことです。

 

 

 

一体この突如現れた広大な遺跡と、そこに位置する王の宮殿らしき建物跡は何を示すのでしょうか? そして、東征前の神武天皇がいた宮崎に伝わる皇居の伝承と東征後の拠点となった奈良で見つかった巨大な遺跡は何を意味するのでしょうか?
九州の宮崎にあった都を出発し、東征してきた神武天皇が奈良に辿り着き、ここに都と宮殿を築いたのでしょうか?  もし、戦後の学者が言うように、神武東征は「架空の物語」である。と考えていれば、これらの謎の答えは見つかりません。
残念ながら戦後の歴史学者によって、神武天皇の建国の歴史は一方的に否定され、もし、戦後の学者が言うように、神武東征は架空の物語であると考えていればこれらの謎は見つかりません。
しかし「神武東征」が実際の出来事だという前提のもと、建国の歴史を丁寧に読み解けば、見える絵柄はがらりと変わります。
東北大学名誉教授 さらに 日本国史学会 の会長を務め、書籍「神武天皇の真実」の著者でもある、田中英道教授はこのように語ります。
「残念ながら、戦後の歴史学者によって、神武天皇の建国の歴史は一方的に否定され、戦前まで当たり前のように教わっていた建国の歴史について私たちは知る機会を奪われました」

 

その代わり、今では必ず学校教育で「卑弥呼」や「邪馬台国」について教わるようになりました。
その理由は単純です。『神武天皇は実在しなかった』と、日本建国の歴史を否定したい彼らにとって唯一すがるものは中国の歴史書『魏志倭人伝』以外にないからです。』
現在、学校で使われている歴史書は、「魏志倭人伝」の内容をもとにして中国王朝への臣下の礼や「邪馬台国」による中国への朝貢などまるで古代の日本は中国の属国だったとアピールするかのように、古代中国の関係から語られ始め天皇の血筋とは関係のない「女王・卑弥呼と邪馬台国」がまるで日本の起源かのように訳されています。そこには戦前まで教科書に載っていた初代・神武天皇の名前すらなく、神武天皇による建国の歴史については一言も触れられていません。
しかしそもそも『魏志倭人伝』の著者「陳寿」という中国人は、実際に日本を見たわけではなく、伝聞の話しを書いたに過ぎません。日本で『卑弥呼』の痕跡は一つも確認されておらず、卑弥呼・邪馬台国の存在自体、信憑性が低いのです。

日本の歴史学者は、「日本書紀」や「古事記」という日本の立派な歴史書を無視して、
『卑しい巫女(卑弥呼)』「邪悪な国(邪馬台国)」などと他国が侮辱的に書いた歴史書を一心不乱に研究している酷い状態です。そのせいで子供たちが本当の日本の建国史を学べていないのです。そして田中教授はこう続けます。
「確かに、記紀は、神武天皇が即位してからずいぶん後に書かれた書物であるため、どうしても記憶が薄れると同時に、記録の調整が必要になり、不正確な部分もあります。しかし、遺跡や遺物などの考古学的発見と、神社や伝承といった現代に残された記憶とをしっかりと結び付ければ、建国の物語は“実在した史実”をもとに記述された日本の正史である、ということは明らかです」「大事なことは、記紀に書かれていることをそのまま読むのではなく不正確な部分は考古学や科学的な根拠をもとに修正し、さらにそこに解釈を与えることで『現実の歴史』として描き出すことです」それこそが今の日本に求められる歴史家の役割であると言えます。当時の日本人が彼らをどのように評価していたのか、おのずと浮かび上がってくるのです。
現在、日本は「建国」の記憶を失ったまま、歴史を刻んでいます。どの国も、自国の建国の経緯と精神を知り、当たり前のように教科書で教わっていますが、日本では多くの国民が建国を成し遂げた自国の初代天皇すら知りません。
もちろん建国記念の日に建国を祝う国民も少なく、自国がいつどのように誕生したのか説明することが出来ない状態です。

日本青年会議所(JC)の調査によれば、日本建国の日を知っている日本人は2割未満しかいなかった一方で…日本在住ではあるものの、中国人は100%、米国人は90%以上が自国の建国・独立の日を正しく答えられたそうです。
むろん 教科書で建国について一言も説明されていないので、しかたがありません。
日本は神武天皇の建国から2600年以上、初代・神武天皇から今の天皇陛下にまで126代にわたり、伝統の系譜が繋がってきたことのありがたみを感じることでしょう。
正しい建国を多くの日本人に知ってもらい、日本を誇らしく思える人が増えることで、それが子供や孫にも伝わり、失われた日本国民の正史を取り戻すため未だに論争が続く『神武天皇』の正体について田中教授が明確な結論を導き出し、“新説”をもって解明しています。

『真・日本建国史』
次回もお楽しみに。


世界最大のお墓「仁徳天皇陵」

仁徳天皇陵とは正に「任」と「徳」を持った素晴らしい天皇として高く評価されていたことがよく分かります。だからこそ、このような大きな天皇陵が出来たことが一目瞭然です。
未だに「証拠がない」などと言っている歴史家もおりますが、国民が挙ってお墓を造ることを協力した力の持ち主ということで、疑う必要は全くないと思います。
この古墳の重大さについて、今、国民が行わなければならないことは、歴史上にこういう天皇が居られたことについてしっかりと認知する事ですと田中教授は強調されます。
この古墳と応神天皇陵が巨大さを売り物にして世界文化遺産に登録したわけですが、これから日本国民がしなければいけない重要なことがあります。
それはこういう天皇が居られたことをしっかりと認知する事です。
これは古事記や日本書紀にちゃんと記されておりますので、それを信じる以外ありません。正に証拠が現存しているからです。
何故このように大きく造られたかという証拠は、「慕われていた」ということ、そして崩御された天皇に対して人々が尊敬の念を持つと同時に、大林組の50年前の統計でも1000億という、今に換算すれば2~3000億と言っても好いほどに、その労働力と築16年間という、毎日2千人もの労役が必要とされたという考えられないことが行われたわけです。

世界初の減税政策?仁徳天皇と「かまどの煙」

古事記にも記されていますが、天皇がある日、高台に立たれて見渡すと、家々には煙が立っていない。それは人々の食べるものがないという知らせを聞き、3年間税金を徴収しないことを決めたという。

高き屋に のぼりて見れば けむり立つ 民のかまどは にぎはひにけり  {仁徳天皇 御歌}

3年後になると、やっと釜戸に火がともり、一安心となるが、それでも天皇は税金を取らなかった。
さらに皇居の佇まいは修繕も行わず、13年ぐらい壊れたままにされたなどと記紀には記されています。これは仁徳天皇を讃えるための作り話だと現代の歴史家たちは必ず言われます。
しかし、このお墓の大きさを見れば、当時の人口総がかりで行ったことは厳然とした事実であり、埴輪や古墳を作った土師氏と言う一族、組織力のある集団が造ったということが何よりの証拠です。

応神天皇陵の建築で弓月国から1万7千人の人々が来たという、明らかに秦氏であります。彼らは大陸を旅して各地で物を売買し、運ぶということをやっておりましたが、同時に彼らの技術を持ち、宮殿や要塞を造る能力があり、いわゆるフリーメイスンでありました。
この時代は集団で巨大な居城を造っておりました。勿論その中に能力のある人がおり、その人が中核になり事業を行ったのです。石を運ぶにしても運河を利用し、船で運んだりしていたことは明らかです。その技術力や労働者には給料として、お米であったり絹であったり、色々な形であったでしょうけれど、それを行うのは秦氏たちであったろうと思います。

弓月国から来た秦氏たちは秦の始皇帝の子孫であることも記されており、神話の中の様々な風貌の人、例えば素戔嗚尊(すさのおのみこと)や日本武尊(やまとたけるのみこと)や猿田彦(さるたひこ)など、180cmもの巨大な人たちがたくさん神話にでてきます。

彼らはどういう経路で日本に入ってきたのか、そして日本の神になったのかについては、やはりそれだけの能力を持つと同時に、日本の中に同化し、すでに東北におられたのです。

正に十代目の崇神天皇から第二の大和王朝が出来、そこに多くの東からの人の土器が半分以上あったということで、そこにもユダヤ人たちがおり、また新たにやってきたユダヤ人たちが日本に同化する形で、このような立派なお墓を造ることになったのです。

そしてまず内政が上手く行われていた。名前が仁徳と付けられるような、徳を讃えられるような指導をされます。
更に言えば外交でそういう人たちを使ったということもあります。さらにもう一つ朝鮮半島や中国から、遣日使が来ています。

それは唐と同じ役割をして強国であったことがよく分かります。仁徳天皇陵は大阪の海辺に造られていました。そこに来た人々には「このように凄い天皇が居られる」ということを認知されておりました。たくさんの遣日使がやってきたことがよく分かります。国内的にも国際的にも人々に慕われていたという人徳がありました。
これが仁徳天皇の巨大さを示すものです。これだけ巨大なものを造ることの大変さを理解しなくてはなりませんし、今回の巨大遺産の説明が足りないのです。大山領国・・・云々?訳の分からない土地の名前を付けて、この巨大さを説明しないのです。それを正直に説明することが大事なのです。これが国際的にも認知されていたことが分る筈です。この時代が最も栄えていた大和王朝の時代だったということが分かります。

それ以後は朝鮮半島や大陸が強くなったことがあったりしても、やはりここでしっかりと国が造られていたこと、そして天皇が人々に慕われていた。彼が言うのには、自分の存在は民のためにある。天が私に地位を与えたけれど、それは民のためである。ということを言っておられます。自らそう言っているということは、それを自分に課せられていた。そういう地位と言うものはこの時代から、現代の天皇も同じことを言われます。この時代はもっと困難な時代でしたから、そういう時代から天皇は徳を積まれていた。この記憶がずっと天皇を支えているのです。そして国民はずっと覚えているのです。従って、この天皇陵こそが記憶されるべきなのです。世界にも、エジプトよりも、秦の始皇帝よりも大きいということをしっかりと認識する必要があります。

日本のあり方を世界にどんどん示す必要が、そのためにもこれを原型に戻す必要があります。

それはどうやって石を運び、土を運び、どうしてこの形で造られたか、こういう謎を、あたかもピラミッドの謎を解くように、日本人が示すことにより、初めてこれが世界で理解されるようになります。すると日本の古代と言うものが非常に生き生きと復活していくわけです。そのこともこれから学者がやらなければならないのです。これまでの固定観念を捨てて是非やるようにしたいと思います。と、田中教授は語っておられます。

次回は「真・日本建国史」神武天皇とヤマト王権の謎
世界一大きなお墓はピラミッドではありません。

実は、日本に存在するお墓、「大仙陵古墳」という名前の、巨大な前方後円墳こそが
世界一大きな墓なのです。

当時の価値で約1000億円~2000億もの費用をかけて、
2,000人が15年以上もの月日をかけて造られたとされる巨大古墳です。

お楽しみに


世界遺産になった”応神天皇陵” その②

世界遺産1位 「仁徳天皇陵」

世界遺産2位 「応神天皇陵」

前回は、この巨大な応神天皇陵を誰が何のために造ったのかについてお話させていただきました。

今回は、世界遺産になった天皇陵を世界の人々が納得するようなもとの原型に戻すように、建築家もがんばっていただきたいとの田中教授の願いも記します。

大和の日本を創り変えていく、これが応神天皇が行われたことと思います。人々に応神天皇の功績を知らせる必要があります。と同時にユダヤ人秦氏が持ってきた巨大な財力を、あるいは彼らが稼いだ日本における富をつぎ込んで造ったのがこの建造物であるということです。

これからの課題は、仁徳天皇、応神天皇、1位・2位共にその原型を世界の人々に示すことは当然の義務です。森でこんもりしている形だけでは建築物の原型が分かりません。これでは世界の人たちが満足するはずはありません。この山の樹を刈り取って原型に復元すれば巨大な建築が現れます。これを復元すべきであると田中教授は言います。

大林組はおそらく、今の感覚では、1千億~2千億というお金では足りないくらいかもしれませんと言われます。しかしそんな巨額なものをお墓のために出すという人がいるのか。それこそが、彼ら(秦氏)の感謝の気持ちの現われであるのです。当時は灌漑設備をたくさん造っています。秦河勝は「河に勝つ」という名前ですから、氾濫する川を見事に変え、京都の町を造ってしまいます。それが秦氏で、それをここでもこのような立派なお墓を造ってしまうのですと。4世紀末のことが、このように遺っていますので文献などはいらないのですと。

仁徳天皇陵が1位、応神天皇陵が2位です。この世界1位・2位の巨大天皇陵というお墓を、これから地元の人を含めて元の状態に戻す作業を、長期にわたっても構わないのでやってほしい。それこそ日本の力です。日本という国は現代の建築が立派である云々ではなく、この時代から見事な建築を行っていた。それは日本人が働くことにより、はじめて実現したのです。孜々として働く人がいなくてはいけないのです。簡単にできることではありません。それは構想力と労働力そして支える財力が総合しないと出来るわけがありません。それは常識です。文献がないとは関係がありません。立派な建造物が物語っているのです。その物を分析し、そこから考えることがフォルモロジーなのです。

これを造った日本人、これを天皇のために造ったということも非常に誇り高い民族であることが分かります。ユダヤ人の技術をすぐに理解して造ったのは日本人であるのです。それは皇祖霊信仰といって、天皇に対する深い信仰の念があったからこそであり、これを日本に来た土師(はじし)が古墳を造ったことは日本書紀にも書かれていますと。

実を言うと、最初の大きな古墳「箸墓古墳」は第十代の崇神天皇のお墓であると同時に「箸墓」というのはちょっとおかしいのです。百襲姫命(モモソヒメ)の死を悼んで付けられたのではなく、恐らく土師氏の(はじ)が(はし)とも読めます。
土の師は大工、土から建築物を造る技術を持っている人たち、それが土師氏ですから、土師氏が人々の能力を結晶化してこれを造ったのです。その労働力の中に応神天皇に対する深い敬愛の念があります。それ以後、応神天皇陵が八幡神社(はちまん)、八幡神社の主となられます。全国にたくさん存在しますが、八幡神社が祀っている神が応神天皇なのです。つまり秦氏の神社が応神天皇を祀っているのです。応神天皇が秦氏を助けたから、正に秦の始皇帝の先祖たち(ユダヤ人)を、そしてその子孫ですから、ローマ帝国から最後にやってきた国は日本でしたから・・・。

新 日本古代史(扶桑社刊 田中英道著)にも載っています。

日本人が理解し、それを評価することにより、はじめてこれが生きてきます。そして同時に、できるかぎり元の原型に戻すように建築家も頑張っていただきたい。ユダヤ人たちから基金を集めても好い。彼らが指導した部分もありますから。是非にも世界遺産を機にこれを復活する方向にいってもらいたいとの田中英道氏のお言葉を最後にこの項を締めさせていただきます。

 

★土師氏(はじし)
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代に、古墳造営や葬送儀礼に関わった氏族である。


世界遺産になった”応神天皇陵” その①

ここは大阪市ですが、この近くに仁徳天皇陵があります。その向こうには大阪難波の向こうに瀬戸内海が広がっています。一体なぜこんなところに大きな天皇陵が建てられたのか?これも謎の一つになっています。

天皇ご自身は大和に居られます。
ここは弓月国から1万7千人以上もの渡来人が来ています。応神天皇を知る上でこれが非常に大事なことなのです。これまでは国内問題だけで考えられてきましたが、これだけの巨大なお墓、(仁徳天皇は更に大きなお墓です)その財力・資力・国民の動員力はどこから来たのかについては誰も問うておりません。

応神天皇の時代には弓月国から沢山の渡来人がやってきたのです。

弓月の国というのは秦の始皇帝の子孫であると「新撰姓氏録」に記されています。しかし日本の歴史家はこういうものは勝手に作ったもので、秦の始皇帝なんて言うと偉そうに聞こえるから、それを入れたのだと・・そういう程度しか言っておりませんでした。
しかし田中教授は、さらに前の時代から考えると、秦の始皇帝というのはユダヤ系の人であることがほぼ分かってきたのです。
それは由来や史記をよく読むと、ちゃんと記されているのです。

秦の始皇帝のお墓も有名ですが、多くの兵馬俑があります。その兵馬俑と共に馬車に乗った、その時代の始皇帝の銅像が出てきたのです。その顔を見ると堂々としていて中国人には見えません。 モンゴロイドというか、明らかにユダヤ人の顔です。ユダヤ人というのは別に特殊化しているのではなく、このシルクロードがユダヤ人の道でした。

ユダヤ人たちは商人としてこの道を行き来しておりました。他のペルシャとかローマの商人は行っても帰ってきます。
ユダヤ人たちは行った先で住み着いて、また12氏族の小さな国を造っていく。新羅、百済もその一つです。そして最後に日本にやって来たのです。

日本にやってきた時に、応神天皇が迎えてくれた。それが巨大で安定した国であった。
天皇がずっと居られて15代です。
物語ができるのです。

仁徳天皇が名前を付けられたと思いますが「太秦(うずまさ)」と言い、
絹を秦氏が持ってきました。それを渦のようにたくさん持ってきたということで
「太秦」と名付けて、京都に土地を与えました。
それが今でも土地の名前が残っています。

★秦氏とは日本に渡ったユダヤ系渡来人。代表的人物は聖徳太子と共に活躍した秦河勝(画)
河勝はキリスト教を日本に紹介したと言われている。

そこで初めて巨大なお墓の意味が解ってきます。
ユダヤ人たちは、この頃すでにいろんなところに住み込んできますが、各地に放浪しては、その地に建築を造っていく、都市も創っていく。従ってシルクロード沿いには巨大な都市が多いわけです。後になってイスラム教の都市になってしまいましたが・・

日本にやってきた時も、彼らの建築技術は、
こんな高い山を石で積んでいくわけですから・・
巨大な石をピラミッドのように積んでいくのではなく、かなり小さな石でも積んでいくという技術は同じなのです。

これを誰が持ち込んだというと、彼らしか考えられないのです。
中国人にもこのような技術はありません。前方後円墳があるかというとないのです。
朝鮮には5,、6世紀のもので、これを持って行ったと思われます。

誰が造ったか?
仁徳天皇陵は、大林組という建築会社が調査したところ、一日2千人使って16年かかるということです。では誰が給料を出したか?(コメなどの食料を配ったのでしょう)動員は?
それは勿論天皇の詔があったのでしょうけれど、それを技術力、経済力で支えたのは明らかに弓月国の彼らだったということを言えるわけです。
何故かというと土地を貰っておりますから。
絹の仕事をしたり、お酒の仕事をしたり、さまざまな仕事を持ち込んだのです。
日本にこれだけ豊かな産業が出来ていくという時代でもあったのです。

応神天皇陵がそれをうまく利用して、大和の日本を創り変えていく、これが応神天皇陵がやられたことだと思われます。
次号では世界遺産になった応神天皇陵と仁徳天皇陵を原型に戻して、世界の人々に見ていただくことの実現を田中教授に語って頂きましょう。  お楽しみに

 

 

 

 

★新撰姓氏録・・815年(弘仁6年)に編纂された士族名鑑

 


大和と日高見国を繋げる重要な神社・春日大社と神鹿

 

春日大社にやってきました。ここは春日大社の第一の鳥居です。大和と日高見国を繋げる重要な神社です。境内にいる沢山の鹿たちは鹿島神宮から連れてきたと春日曼荼羅に記されております。

 

 

天の原 ふりさけみれば春日なる
             三笠の山にいでし月かも       阿倍仲麻呂

 

遣唐使として唐に留学した阿倍仲麻呂は認められ、唐で科挙に合格し、高官に登りますが、望郷の念が強く、帰国します。しかしその途中、船が難破し、東南アジアの方に流されてしまいます。日本への帰国は果たせず、唐で客死します。その時に歌った歌とのことです。有名なこの歌は、百人一首に選ばれ「今昔物語」や「古今和歌集」に採録されています。

この歌は望郷の歌で、正にこの春日大社を思い起こされて歌ったと言われています。ここは大和の現況であり、「天の原」とは高天原のことで、それは関東東北のことです。そこから来た人たちが鹿島から鹿児島に行き、東征して大和にやってきたという物語をこの歌で思い起こすことが出来ます。東と西を結び付ける要となる大社であることでも重要です。そして興福寺も同時に藤原氏のお寺であり、この二つが東大寺を生み出し、奈良の大和の文化を生み出す非常に重要な神社になるのです。

阿倍仲麻呂が詠う三笠の山も、この地から山を信仰している場所でもあったと伺われます。   その三笠の山が一番東で太陽が昇る所でありました。それが大倭日高見国、この二つの国を結びつけ、そして高天原も阿倍仲麻呂が最初の「天の原」と詠っているのです。そういう意味でその重要性を再認識させられますとのことです。

この建築も大変優れております。これは江戸時代に、徳川がお金を出して造られたと言われています。江戸時代に、日本の都が関東に造られたということによって、かつての日高見国、高天原の地域に徳川が幕府を造ったということになります。そのことが立派な神殿の建築にも表れております。

それ以後も栄えているわけですが、最近、藤原氏のことをあまりよく言わなくなってきた傾向があります。藤原氏は祭祀をやられた家系であり、天皇を常に守るという立場で、藤原不比等も聖武天皇、光明皇后が天皇家としっかりと結びついております。それを権力者の野心のようなことを言われてきましたが、そうではなく、日本という国は役割分担の国であり、天皇を守る役割を持っていた藤原氏がずーッと現代まで、近衛文麿が三回も首相になられたわけです。ある時は戦争責任など非難されましたが、しっかりと藤原氏の役割を演じていると田中教授は見ておられます。

現在、戦後に生きる人々があまりにも藤原氏を批判し、つまり権力批判として逆に非難される時代にもなってきました。記紀にも、藤原不比等(ふひと)が、勿論天武天皇が主宰されたわけですが、それをよく解読してみると、非常に客観的に記されており、自分たちの権力を裏付けるために勝手に作った云々など戦後の考え方ではない非常な緻密さがあるとして、田中教授はレヴィ=ストロースの考え方と一致しておられるようです。(下記参照)

衛文麿
総理大臣を三度務めた(第34代、38代、39代)他、各大臣職などを歴任した。近衛家は藤原忠道の子基実を始祖とする五摂家の一つ。江戸時代初期に後継が居らず、後、陽成天皇の第四皇子が養子となり近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫に当たる。

藤原不比等
史(ふひと)とも書く。天智天皇から藤原の姓を賜った中臣鎌足(藤原鎌足)の子。文武天皇の時代(698年)には、不比等の子孫のみが太政官(最高国家機関)の官職に就くことが出来ることとなり、元の姓である中臣氏の一族は神祇官として祭祀を受け持った。

クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)
フランスの文化人類学者。「私が人類学者として賞賛してきたのは、日本がその最も近代的な表現においても、最も遠い過去との連携を内に秘めているということです。」と述べている。

春日大社の神殿の前におります。田中教授は奈良で一番重要な神社は春日大社であるとのこと。

春日大社は藤原氏の主宰するところであり、藤原氏が中臣氏と言って、関東では有名な鹿島神宮の重要な祭祀を司る社なのです。

春日大社をみると、藤原氏と当時の天皇の関係とか、興福寺との関係(神仏習合の)関係を藤原氏が成し遂げたことでもあります。そしてそこで奈良の大仏が造られ、これこそが聖武天皇の鎮護国家として作り上げた大きな証拠でもあります。それにより国分寺が日本中に建造され、仏教と天皇ご自体が祭祀様であられるわけで、こういう神仏習合の国が出来たということです。聖武天皇の「聖」は聖徳太子の「聖」でもあります。

聖徳太子がまず提言され、奈良時代に律令国家として、大宝律令をはじめ、しっかりとした国が造られていきます。それを成し遂げたのが藤原鎌足(中臣 鎌足)、天智天皇、天武天皇そして聖武天皇と藤原不比等です。

以上のことから、ここは歴史的にも重要な大社で、奈良に来るたびに訪れますが、やはり若い人が、単なる信仰だけではなく、歴史を知る上でもこの日本の重要な神社や興福寺共々訪れて欲しい、と同時に、自然環境がこれほど保たれているのも珍しく、興福寺と春日大社の、この空間というのは現代でも稀な自然の調和が保たれております。若草山が信仰の対象であったと言われますが、自然というのは人間と一体となって初めて保たれるわけで、日本が一番自然を大事にしていると言われますが、この地を見ればよく分かります。

鹿を始め様々な動物と共に生きるという環境が、これこそ日本なのですね。

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

奈良に来たら、必ずこの春日大社と興福寺に来て歴史を感じていただきたく、そういう意味でも重要な大社とお寺です。

 

 

 

鹿島神宮の鹿をここに連れてきたことも、そしてまたここが鹿の神社になるということも鹿島神宮は武御雷神が主祭神だからです。

 

 

 

                                 👆 鹿島神宮 👆

茨木県鹿嶋市にある神武天皇元年(紀元前660年)創建の神社です。国譲りを成し遂げ、葦原中国(日本)を最初に平定した軍神武御雷神(たけみかづちのかみ)を祭神とします。日本における支配層の最大氏族である藤原氏の氏神です。武御雷神とともに国譲りを成し遂げた経津主神(ふつぬしのかみ)は千葉県香取市の香取神宮に鎮座しています。藤原永手(ふじわら の ながて)は伸護景雲(じんごけいうん)2年(768年)、称徳天皇の勅命により鹿島神宮を勧請して奈良に春日大社を創建しました。 神社の格式を定めた「延喜式」(927年)では、伊勢神宮内宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみが神宮と表記されました。

春日大社の鹿の園

縄文弥生が長く続き、様々な動物と生きる、これが日本です。ここは鹿のいる大社として有名ですが、武御雷神が白い鹿に乗ってここにやってきたという伝説があります。それは縄文・弥生の時代が長く続き、東北が中心になっておりました。人口も圧倒的に多く、埴輪の数からも分かります。その人たちがだんだんと西に注目していきます。それは大陸が日本に対し、危険な様相を帯びてくる・・・清の始皇帝が中国を統一し、日本にいつ攻めてくるか分からないという状況など、日本を守る必要性を感じ、剣の強い武神の神、武御雷神が、鹿に乗ってやってきたということが、奈良を日本の中心として守るという意味合いがあるのです。

現実的には関東東北の神たちが関西・九州まで守るという形になっていきます。これが万葉集にも語られるわけで、また武御雷神が鹿に乗ってやってくるという意味が物語っていることも忘れてはいけませんとの解説です。

 

「神鹿」としての歴史のはじまり

奈良の鹿。その歴史的なルーツは奈良時代、710年(和銅3年)に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様が御蓋山(春日山)の山頂に降り立った際に「白鹿」に乗ってやってきたという神話を起源とするとされています。

一方、奈良時代の万葉集でごく自然に詠われているように、奈良時代の「鹿」はまだ「神鹿」としての扱いを受けていたとは言えません。「神鹿」として本格的に扱われるようになるのは、神話の発信地とも言える「春日大社」が発展・繁栄するようになってからでした。

平安時代になると、京都に都が遷ってしまったので一見奈良のお寺は大ダメージを受ける所も多かったのですが、春日大社という神社は、そもそも「藤原氏」の「氏神」様として成立したという歴史も持っていましたので、藤原氏が京の都で絶大な権勢を誇るようになる中で春日大社の存在も重視されることになり、奈良の寺社の中では例外的に「平安時代にもっとも繁栄した」神社となっているわけなのです。春日大社は天皇の使いである「勅使」が訪れて祭事を行うなど国家的にも重要なお寺として地位を高め、当時の日本を代表する神社へと成長することになりました。

神社が繁栄すればするほど、「創建神話」というものの存在感・重要性も同時に高まっていきますので、「神鹿」としての信仰は、春日大社が発展した平安時代に強化され、次第に奈良の人々に浸透することになりました。平安時代前半の841年(承和8年)には、神鹿が降り立った春日山一帯の伐採・狩猟などが禁じられるようになるなど、具体的な「自然保護」の枠組みも登場します。「鹿の保護」についての平安時代以前の史料は乏しいのが実情ですが、このような時期から既に「神鹿」を保護するようになっていたと考えることができるでしょう。(奈良市内名鑑より)

 

次は世界遺産になった「応神天皇陵」です。お楽しみに