偶然は一切ない

偶然は一切ない。すべて必然である。

これは、すでに私の中では認識している言葉である。

昨日、事件が起きた。まだ明けやらぬ早朝散歩の帰り道、爽やかな気分でいつものコースを歩いていると、突然右足首がコケて痛みが走った。呆然と立ちすくんでいると、やがてスーッと和らいできて我に返った。

そこは、公園の中、石段を上がるとアーチの小径、横切ると樹木生い茂る芝山に通じる。古から存在する杉の大木に挨拶を交わすのが日課である。あと少しの所で、小径の段差に躓いたのである。

どうやら骨折ではない様子に安堵すると、近くに杖になる小枝が見つかり、杉の神に挨拶をして自宅に向かった。

これはきっと神のお告げであるに違いない。その気づきに確信のようなものが湧いてくるが、それが何だか分からない。

実は昨年の同じ時期、初秋とはいえ寒い朝であった。これも日課にしている庭の草取り、ツツジの植え込みに頭を突っ込んで、左前方にある草を取ろうと、左手左足をぐーんと伸ばした瞬間、左ひざに痛みが走った。

これは回復に時間がかかり、草取りが好きな私は残念でしかたがなかった。

それが癒え始めた頃に、足の甲の捻挫である。

これは偶然の筈はない。お前はまだ分からないのか! 神の叱咤激励を受けた思いでした。

 

さて、どうやって治そうか。骨折しなかったことは感謝である。だんだん腫れていく足の甲を手当てしながら、一体私の過ちは何であろうか? 一年経ってもまだ気づかない自分がいる。日々努力している自分がとても健気に感じるのだが・・・

 

今朝のことである。

千葉修司師の早朝ウエビナー、今朝のテーマは

「偶然は一切ない」、「すべて必然である」。

気付かない私に神はここまで配慮をしてくださる。正に偶然は一切なしである。

身が震える思いでご指導を受けると、

神のようなものは存在する。

気付きなさい。人は輪廻する。人は死なない。

最後まで勉強や挑戦をし続けると、その経験や勉強したことを来世に持っていける。

来世はそこから反省して経験と知恵を学ぶことができる。

努力すればよい。何もしなければ、何も気づくこともなく

ただ流されるだけで、来世も天国にはいけない。

「難い・嫌い・許せない」は強運になれないが、むしろ最高のメンターである。

人は生きているのではなく、生かされているのである。神様の喜ぶことを行いなさい。

世のため、人のために生きなさい。

人間、完璧な人はいない。自分はどうなんだろう。

気付きました。私は何と自分のことばかり考えていたのだろう。

真実を追求して、世を批判し、怒り、落胆し、希望を探しもとめ続けて・・

身近に、普通に、優しい心を持った近隣の人々がいる。

その人たちに、もっと愛の心を届ける

生かされている心を届ける。

肩の力を抜いて生きていこうと。

 

散歩の途中で積んできた、ススキや野草がやさしく私に寄り添ってくれました。