日本は「日の本」、日の丸は「太陽」。太陽が昇る国は「日本」として古から世界の人々、特に西方の人々は羨望の気持ちで見ていたといいます。
その日本で、太陽に一番近い場所が関東・東北という事で、縄文時代からこの場所に鹿島神宮が建てられ、文化が発展していった特別な存在とのことです。
従って、縄文土器や遺跡も関東・東北が一番多く、人口も90%がこの地に住んでいたとされています。
神社に対する記録には、鹿島神宮、香取神宮、そして伊勢神宮の三つがあり、このうち二つの、鹿島神宮と香取神宮が関東にあったということが大事なことで、しかも記録には「大倭日高見国(おおやまとひだかみこく)」という言葉が使われていたことが田中英道教授の調査で解ったということです。
これは、日本は「大倭」と「日高見国」が合体した国であるということが、誰もが読む祝詞に記されているということです。
神道で読む一番大事な祝詞に書かれているにもかかわらず、歴史的な検証がなされず、せいぜい三輪山で太陽を望む印象を言葉にした程度の理解でしかなかったものが、実は関東・東北が日高見国であったという発見です。
その鹿島神宮は、太陽を拝む自然信仰として建てられております。
一般的に神社には神殿がありますが、鹿島神宮には、ないのです。
正門は西で、東に向かって真っすぐな参道があります。太陽が東から昇って降りる本道が中心となっているのです。従って南にある本殿は北を向いています。
この鹿島神宮は「日が高く昇るのを拝む」という信仰でありました。
鹿島神宮には鹿がたくさんいます。もともとは鹿の島だったそうです。
それは縄文海進といって、暖かくなると海が内陸に迫って入ってくる。そこに太陽が昇る一番近い場所(最東端)という地形を利用して建てられています。従って、正門を出てまっすぐ行くと、更に海の中に鳥居が立っています。鹿島神宮は海に寄り添う形で作られたということが分かります。
先ず、鹿島神宮を観ることによって、日本の歴史を知ることができますので、早速中に入ってみましょう。
鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市にある神武天皇元年(紀元前660年)創建の神社。全国にある鹿島神社の総本社である。日本を最初に平定し、国譲りを成し遂げた軍神・武御雷神(タケミカズチノカミ)を祭神とする。神社の格式を定めた「延喜式」(927年)では、伊勢神宮内宮、鹿島神宮、香取神宮三社のみが神宮と表記される。
日本は縄文時代に東国の日高見国に始まった。その中心がここ鹿島神宮であり、神話に登場する高天原である。邇邇芸命(ニニギノミコト)は、鹿島から鹿児島へと船により天孫降臨し、数代の後に神武天皇が西国を征した。神武東征においても、その危機には鹿島神・武御雷神が刀を降ろし(日高見国が加勢)、天皇を助けている。 文・画像提供:鹿島神宮
鹿島神宮境内案内図
拝殿が北を向いています。本殿は拝殿の後ろ側にあります。拝殿と本殿は真正面にあるのが一般的ですが、鹿島神宮は太陽を拝むのが主要であるので、このように配置されているのですね。
しかし、中にある礼拝所は東を向いているようです。
ここの神様は『古事記』の天地開闢後は、三柱の神様で、最初が天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)、次は高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カムミムスヒノカミ)の三柱の神様で、総称して造化三神と言われております。
このことはカタカムナの80種のウタヒの中の7番目にも記されております。
(7)「マガタマノ アマノミナカヌシ タカヒムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ」
勾玉(精神の核) 天之御中主神(宇宙の神) 高御産巣日神(天の神=男) 神産巣日神(地上の神=女) ミスマルノタマ(スカラー波)「カタカムナ記」
そして天照大御神(アマテラスオオミカミ)が初代の神様となります。 この時代が日本の本来の基であったということになります。
そして、ここの御祭神は建御雷神(タケミカズチノカミ)です。
縄文時代は鹿と犬(縄文犬)が一番人間に近い動物で、神として大事にされていました。鹿は皮を衣服にしたり、肉を食料にしたりして大変貴重な動物でした。当時は大神(おおかみ)(狼)もいて、鹿の数も制限されていたようです。国譲り神話において、鹿の神である天迦久神(アメノカクノカミ)が、天照大御神の命(めい)を武甕槌大神に伝える重要な役割を担ったことから、現在でも鹿が神の使いとして大切にされていますと、記されています。(鹿島神宮記)
鹿島神宮 摂社 奥宮
奥之院も北を向いています。
これは太陽そのものを信仰するということが明らかです。
「慶長十年(1605)に徳川家康公による本宮の社殿として奉納されたが元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当たり現在地に引移して奥宮社殿となった」と説明されています。
本来は太陽だけを拝むので建造物は無くてもよいのですが、それを形式化し、神社化したのが実は、ユダヤの人、秦氏(一神教の人たち)が来てからなのです。また形式化することによって、このように残っていく。仮に太陽神だけだと拝むのを忘れてしまい、信仰が途絶えてしまうことにもなりかねませんが、彼らの役割はこれを形式化して残したということにあり、大変面白い歴史の事実となっています。 一時、この環境が荒れた時期もありましたが、科学者たちの太陽が研究の対象になっており、自然というものを大事にする中で復活しています、と田中教授は言います。それも、この鹿島神宮を観ると、納得させられますと・・。
武御雷の神とナマズ
これは、最近できた建造物ですが、武御雷の神がナマズの上に立っている像です。 本来は剣豪ですからナマズとは関係ないのですが・・、
しかし、要石があり、ナマズは地震を予知する能力があるということで、建てられたのでしょう。
武御雷神は 日本を武力で守ることを教えた神様でもあります。
縄文時代の人々は、殆ど戦争らしきことはしていないと言われています。 非常に穏やかな人たちですから。
それは天照大神が女神だから、国を守るのに戦うことは主要な手段ではないということを示しているわけですが、そこに武御雷神という軍神がいることによって、鹿島神宮はその彼を祭神として守っています。しかし本来信仰の基は太陽なのです、と田中教授はそう仰っておられます。
武御雷神(タケミカズチノカミ)はこの後、天照大御神を護るために二度大きな役割を行っています。一つは国譲りの神話の時に、武御雷神(タケミカズチノカミ)が香取の神宮の神と共に出雲に行き、建御名方神(タケミナカタのカミ)を破り、殆ど戦わずに諏訪に逃げてしまうということで、国を譲らせた事になります。
同時に神武天皇のときに倭(ヤマト)に行かれて、軍勢が病気になったときに「武御雷の神」が刀だけを送り、それを使って勝利した。この軍神が、高天原が戦う時には常に中心になっていたということが分かります。
ナマズについては、地震からナマズが救ったと言われています。滑稽ですが、今でも同じですが・・地層のズレとは言っていますが、誰も予知ができない。それでナマズが起こしたのだという説もあまりバカには出来ない・・・と。 やはり関東・東北は地震が多かったということを表わしていると思います。と田中教授は仰います。
要 石(かなめいし)
地中に埋まった要石・・・これが何故祭られる?
見える石は小さいが、巨大な石が地中に埋まっています。
これが本来の神道であると田中教授は言います。
岩、石、樹木など自然の物そのものを信仰する。そこに脅威を、理解に絶する何ものをも感じる・・それが神である。 岩を見て凄いと感じ、それが神を語っていることになります。
それをヨーロッパの人はアニミズムという。
『元々は、すべてに霊魂が宿るという考え方。西洋では、キリスト教が進んでいるという固定観念から、アニミズムを原始的な未開社会の信仰と考えた。』
それが、御霊(みたま)信仰、皇祖霊(こうそれい)信仰と繋がって、全体が神道ですから、神道そのものもアニミズムとは言えない。つまり、アニミズムはその一部である。それをゴッチャにする人は日本人に多い。
本来は御霊信仰という死者に対する信仰、古墳や前方後円墳など皇祖霊信仰(歴代の天皇を始め、皇祖=天皇の祖先の霊を祀ること)、我が家の長を祀るなどの神道にも結びつきます。
この要石は自然信仰の形を今日でも残しています。要するに自然道というのは、自然にあるものを信仰していく。(田中教授)
このことについて、本居宣長が別の定義をしています。(1730-1801)
『35年を費やして「古事記」を研究した他、大昔から日本に脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、中国の儒教など外来的な教えは自然に背くものであるとした』
鹿島神宮の樹叢
鹿島神宮の樹叢は天然記念物に指定されております。
広大な森には杉・シイ・タブ・モミの巨木が生い茂り、その種類は600種以上にも及ぶと記されております。参道の樹木は神格化した伊勢神宮と違って、元来そのままの原生林となっています。 縄文時代の人々は原生林そのものを信仰したことが分かります。
ある種の畏怖の念を起こすものをすべて神とした。天上の全ての物を作ったのが神ではなく、(そういう神は、日本人は信じない。)日頃見える自然の脅威、自然の畏怖の念を起こすもの、それがみな神であったと。
私たちは常にそういうものに取り囲まれて生きています。この鹿島神宮の野趣あふれる樹々を見ていると、ある種の畏怖の念を感じます。と、田中教授は仰います。
1日40万リットル以上の湧水があり、水底が見渡せるほど澄みわたった池。
昔は参拝する前にここで禊をしたという。現在でも200人もの人々が大寒禊を行う。(鹿島神宮)
この池の水は、どんなに干ばつになっても、潤っている不思議な池なのだそうです。
縄文時代は水が信仰の対象になっていました。それを描こうとしたのが縄文土器の表面で、もちろん紐で描く、創造的芸術的な水を意識しようとした考えがあったと思われます。それは水が自然信仰としてあったからで、日本は自然をいかに抽象化してでも信じようとする豊かさを造形的な思考で作り出すという、火焔土器というのは考えられないが、火の上の水をいかに抽象化し、美しく描くかということがあっただろうと想像します。紐を表現手段とすることは変わらないと・・
水そのものを拝む、それがここにも現れています。太陽・木・岩・水という四大要素、火・水・土・地、この四大要素を信仰するというのが、日本にはずっとこの縄文時代からあったことが分かります。
これは、西洋では自然を構成する要素としては元素として考えますけれど、日本ではそのものを信仰する。それで自ら調和を感じるという。あまり理論化はしないがしかし存在は良く知っている。ということができると・・・。
この御手洗池は水らしい水を感じることができます。魚も泳いでいます。と、田中教授は感慨深く語っておられました。
高倉下命(タカクラジノミコト)の末社 潮社(いたのやしろ)
関東の神々が関西の神々と一体化している発見
大和の神様だと思われている「高倉下命(たかくらじのみこと)」という神様が、関東の鹿島神宮の神様であった。その神様が大和に行かれたという実証。これまでは大和のことは全て大和の神様がなさったと思っていたが、実は関東の神様が行かれている天孫降臨が、高天原から船で行き、鹿島⇒鹿児島へという関係を作って東征され、そこで会われた神が「高倉下命(たかくらじのみこと)」、その神が鹿島神宮の御祭神の武御雷神の剣を(250数センチ)天から頂いて敵の軍勢を打ち破ったという逸話がある。大和の神だと思っていたが実はこの高天原の地を歩いてみると、ここに高倉下命の末社潮社(いたのやしろ)があり、この地から大和に行かれたのだと分かる。
神話を読んだり、歴史の町を歩いたりしていると、関東と関西の神々の連携が分かるひとつの例でもありますと田中教授は言います。
「潮社(いたのやしろ)は潮宮(いたみや)とも呼ばれ、鹿島神宮の末社で、高倉下命(タカクラジノミコト)を祀っています。神話の中で、神武天皇が日向を発ち東へ進み大和へ向かったとき、長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、熊野山中で危機に陥りました。このとき高倉下が神武天皇のもとに師霊剣(フツノミタマノツルギ)を持参したとされ、その霊力により軍勢は毒気から目覚め、活力を得て戦に勝利、日本の建国に大いに貢献したとされます。荒ぶる神を退ける力を持つ、この剣は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が葦原中国(アシハラナカツクニ)を平定したときの剣です。(と潮社に記されていた説明です) |
高天原と鬼塚
「鹿島神宮の近くにある、太平洋を見下ろす台地。高天原という地名が現在も引き継がれている。鹿島神宮の神である武御雷神がここに登り、国見をした。隣接する「鬼塚」は、武御雷神が従わない鬼たちを退治し、その首を埋めたという。鬼の血で染まったため、今も砂が赤いと伝わる」。
鹿嶋周辺には3か所ぐらい高天原という土地が残っています。
高天原が高いというイメージはなく、海抜40mほどで、丘という感じはしますが、常陸という所を中心とした、鹿嶋、香取を含めたこの地域全体を高天原と言います。それが現実として日高見国という国があったのです。
日高見国というのは、大倭日高見国((おおやまとひだかみこく)という、そこが日本であったと祝詞が言っていますが、日高見国が日本書紀や古事記においては高天原という。
それは倭(やまと)にいた人たちの祖先が住んでいたところで、人が死ぬと神になるという神道のあり方で、祖先たちがみな神々であるという認識が当然その場所が国津神(くにつかみ)、または現地の私領の人たちの関係と同じ日本列島の中でも東の方を神々の国として高天原と呼んだ。そこがこの中心地帯であったということで高天原と呼んだ。ここに書いてあることは多少無理がありますが、そう解釈しないと土地の名前と神話が結びつかない。
日高見国というのは、中部 関東 東北全体が日高見国と呼んだということが、大体記紀によっても分かることで、それは過去の話しだということが書いてある。
しかし私(田中教授)は縄文の時期を日高見国と呼んだ。北海道から三重県まで日高という名前の土地がある。これについては前にも記したが、こうして歩いていると、何気なくあるという所が歴史の冥利というか、実地に歩いていると意外なところに歴史が現れてくることが分かる。つまり、それを知っているかどうかの問題である・・。
鬼 塚
鬼というのはいったいどういう人かというと、一説には縄文人というか、中央と結びつかない人たちというか、一方では、やはり顔が赤くなった白人たち、つまり日本人と違う形をしているわけです。それは外来人、帰化人たちが住んでいたという可能性もある。そういうことも含めて、この時代が現代の地続きにある話だということを、つまり古代という特別視する必要はない。できるかぎり神は人間であったというような荒井白石の話しですが、そういう考え方で見ることは必要である。この辺に高天原という土地があったことで、古い士族たちが、中臣(なかとみ)氏、物部(もののべ)氏といった人たちが、鹿島神宮や香取神宮の近くにいたということを我々は認めることができるだろうと思います。
※荒井白石
江戸中期の朱子学者、歴史、地理、言語、文学など多数な分野に精通した。著書「古史通」では、「古事記」「日本書紀」などを研究し、神武天皇以前の神代史を明らかにした。
同書は、1716年(享保元年)に完成したもので、古代の神々を現実の人間として捉え、高天原は、天上の場所ではなく常陸国(現在の茨木県)だとした。
以上鹿島神宮の散策について、田中英道教授の足跡を追ってみました。
ありがとうございました。
次は東国三社のひとつ、香取神宮を訪ねたいと思います。お楽しみに・・