東国三社を歴訪する(5)香取神宮

鹿島神宮の祭神が「武御雷神」(タケミカズチノカミ)でしたね。

次は建布都神(タケフツノカミ){経津主神(フツヌシノカミ)のこと}というもう一人の剣豪が祭神である香取神宮にやってきました。

{㊟香取神宮の祭神は、フツヌシ大神として広く知られていますが、『日本書紀』の一書=斎主神(いわいぬし神)という説もあります}

さて

神宮の格式が、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮と三つあるなかで、何故二つの大きな神宮が関東の、この場所にあるのでしょうか。                                                                                                              

写真提供:香取神宮 / 鹿島神宮

それは、伊勢神宮が天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祭るということで、この三つの大神宮というのは、日本が天照や天御中主(アメノミナカヌシ)など、神話で貫かれるひとつの太陽神、あるいは日本(ひのもと)である関東という場所が、日が昇る所であり、ここに、古の日本の人々の、心の在処を彷彿とさせるからにほかなりませんと、田中英道氏は語ります。

また、海の近い香取という名称ですが、今は「香取」という不思議な漢字が作られていますが、「鹿鳥」のような読み方もできるわけです。            日本は農耕民族と思っていますが、実はそうではなく、農耕も含め、狩猟、漁猟など様々な職種で仕事をしていたと言えます。                              関東東北は自然が豊かで、そして同時に太陽に近い場所ということで、世界から日本にやってきた人々は、太陽を求めに、あるいは太陽が昇るところをみたいと・・日高見国という名称はそのような意味があるのです。

香取神宮は一番海に近く、また鳥という意味は、船が鳥のように飛んでいくという、船に対する強い交通機関が、今日でいう飛行機や新幹線のような交流の場として、日本でも重要であったということが分かります。

更に、関東地方では大河の川が江戸時代に整ってきましたが、入り組んでいましたので、船が湾や運河などで結ばれていました。ですから人々は海に近い所、あるいは海の中で、生活をしていたことがわかります。

鹿島・香取はそれに結びついて日高見国あるいは高天原という倭国(やまとこく)以前にあった日高見国の先祖たちを高天原と言って、その中心地に鹿島神宮と香取神宮があるということです。

そういう意味で、この二つの神宮はそれぞれの役割があるように思います。

そのひとつは、香取神宮には物部氏(もののべし)になる、この中心的役割を演じてきた神宮そのものでありました。そして太陽を中心に祀るという形をとっているのです。

~「香取」という地名についての別の解釈~

『日本書記』に、「此の神(=祝い主)、今、東国の楫取(かじとり)の地に在り」と記されています。これを根拠に、カトリは舟の楫取の意である、という説が有力です。当初、香取神宮を奉斎していた有力氏族は、強力な水軍を保有して香取の海を制圧していました。この海の周辺には、多くの水夫(=楫取)たちが居住していたようです。という説もあります。

物部氏(もののべし)

神大から氏族で、鉄器や兵器の製造など軍事を司っていました。始祖は、神武天皇に先立って天降り、葦原中国(西日本)を治めていた饒速日の命(ニギハヤノミコト)。蘇我馬子らと仏教の導入を巡って争った物部守屋(?-587、画)が有名です。

中臣氏(なかおみし)

中臣氏の祖先は天孫降臨で邇邇芸命(ニニギノミコト)に伴って降った天児屋命(アメノコヤネノミコト)。氏神は鹿島神宮(茨木県鹿嶋市)の武御雷神(タケミカズチノカミ)。

このことから、中臣氏は東国を中心に栄えた縄文の出自であることがわかります。

中臣鎌足(614-669)は、大化の改新の中心人物として知られ、鎌足以後は藤原氏を名乗り大いに繁栄しました。

両神宮の関係は、一時論争にもなりましたが、香取神宮の方は、武御雷神が国譲りで中心人物になるので、建布都神(タケフツノカミ)はそれを助ける役割と見られています。

二つの神社で、どちらが偉いかという論争ではなく、役割があったということです。ひとつは祈りであり、ひとつはそれを支える様々な物(物部氏の物)、つまり二つが一つとなって高天原を支えていた。あるいは日高見国に居られた士族たちが後になって、後代倭国に皆移り、日本を新しい倭国として作っていった。これがまた大倭日高見国(オオヤマトヒダカミコク)という重要な二つの神だと言えるのです。

千葉県提供: 香取神宮 本殿

香取神宮の建物は、鹿島神宮とは対照的です。これは1700年ごろ江戸時代に再建されたということで、江戸時代(中期)は加羅風が流行って神社そのものも赤く装飾的になっています。                                               江戸の初期に造られた日光の東照宮のように建築が非常に凝っています。これがかつての日高見国の中心的な神社であり、それを江戸時代になって復活しました。 つまり江戸は関東の中心地が首都になるわけで、徳川政府は鹿島・香取を非常に重視したわけです。ここにも勅使がこられて天皇家もここを重視されておられたということです。                                                  明治以降も海の防衛ということで、二つの神社が大きな役割を演じ、戦艦鹿嶋・戦艦香取という海軍にとっても重要な役割を演じたわけです。従って、この地が海と通じているということが非常に重要なのです。

神話も現代に続く海の神として、非常に重要な域を締めているのです。こういう意味で皆さんも見ていただきたいと思います。以上田中英道教授の解説を記させていただきました。

香取神宮 楼門

1700年(元禄13年)に徳川幕府によって造営されました。三間一戸の純和様建築。丹塗りが施されています。屋根は入母屋造銅板銅板葺(当初はとち葺)。南側、楼上の額は東郷平八郎の筆によるもの.

香取神宮の楼門は、元禄文化の時代の建築を現し、また当時の装飾的な唐風の建築をも現わしています。

また、江戸時代に、鹿島・香取の復活の意味があり、長い間、京都や関西の文化が続いていましたが、江戸時代になって、やはり東の文化を再興しようという、これが水戸の国学にも表れています。要するに関東、東国の倭省あるいは、京都・奈良が日本の古い時代の文化より更に古い文化があったということを少し気付き始めたのです。

田中英道教授の書籍「東京の歴史」にも記してありますが、江戸というものが、更に古い日高見国という国があり、そこに太陽を中心とした祭祀国家があるのだろうということを予想したわけです。

それが今の縄文文化と重なり合って、見ごとに一つの文化の長い歴史があったということが分かってきたのです。そしてそのことが、江戸が首都になり、国府文化が水戸に花が咲き、水戸光圀公がそれを奨励されたわけです。それこそが日本の東国の日高見国といったかつての高天原の強いイメージの復活というか、縄文弥生という言葉は江戸時代には使われておりませんが、しかしそういう時代があったという記憶が、この神宮にも結び付いていると田中教授は見ています。

それは単なる7,8世紀以降の大和時代は、確かに素晴らしい文化を生み出したわけですが、更に奥の、さらに古い時代・・ちょうど元禄文化の頃に芭蕉という俳人が1690年代に「奥の細道」を書かれた。これこそが江戸と東北全体を包む俳諧の見事な文章であったわけです。そこでこの「奥」というのは何であったか? いろいろ言われますが、ある意味では時代の「奥」、つまり縄文・弥生の時代の奥、東国を感じさせられるわけです。これはまたひとつの解釈ですが、そういうことを思わせるこの香取神宮なのです。と、語っておられます。

更に、楼門の中にある見事な狛犬ですが、これは獅子・・ライオンです。決して日本の動物ではありません。                        ライオンのモチーフが使われたのはアフリカ、中東の奥の国々で獅子が描かれるのです。それが遠くの日本までやってきた。        それをもたらした人々は中東の人に違いないのですが、中国と中東、古代ローマまでを結ぶ、長い道のりのシルクロード、その間にはペルシャや様々な中東の大国があり、そこで大建築に使われる一番の動物は獅子でありました。それが日本までやってきたというわけです。

 

従って日本は孤立した東洋の国ではなく、正に中東、西欧から来た人たちが、この日本で定着したと言えます。その中に勿論秦氏、ユダヤ人たちもいました。この香取神社は古くからあり、江戸に入ってまた見事に再建され、素晴らしい建築が造られているわけですが、この獅子だけは古い木造です。しかし見事な彫で遺されているのです。

 

私たちは、日本という国の世界性を、寺院や仏閣の中で観ることができるので、そういう歴史的な眼が、文化をより注目する視点となっているわけで、単なる江戸時代に造られた建築と見ないで、歴史をあるいは空間を、世界を観るという・・建布都神(タケフツノカミ)も実を言うと剣の神でもあるし、同時に物部氏という有力な日本を形成する貴族たちが、いかに日本に貢献したか、その中にこのような古く海外のものまでもたらしていたということも注目すべきであろうと思います。

いずれにしても、東京に近い場所に、これだけ立派な神社があり、その歴史を語っているということを、我々はもう一度見直す必要があるだろうと思います。と田中教授は語っておられました。

香取神宮の建築、東照宮と重なる魅力

      画像:千葉県

香取神宮 拝殿・本殿

拝殿は1940年(昭和15年)、国費により造営された。黒の漆塗りを基調とし、極採食を取り入れている。本殿は1700年(元禄13年)、徳川幕府の手により造営された。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、屋根は桧皮葺(もとは柿葺)。

香取神宮は江戸時代に復興した見事な建築を観ることができます。

徳川家康を祭る日光東照宮の建築の流れを汲んでいますが、更にご覧になって判ると思います。

均整の取れた見事なプロポーション、そして黒と金の様々な装飾を入れ、江戸の代表的な名建築となっていると言えます。これは建布都神(タケフツノカミ)、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の忠実な護りてとしての関東の二大神宮の重要性をより宝占めていると言ってもいいと思います。

香取神宮の重要性は、関東だけではなく、茨木は今、残念ながら文化圏としてあまり宣伝されていませんが、江戸時代に建てられたこの神社が古い時代の東国からの推移を現してきた日本書紀の時代からずっと続く関東という日高見国の記憶から、ここで開花していくと言ってもいい、もう一つの新しい歴史を我々は見直すべきと思います。と・・。

香取神宮の要石

鹿島神宮の要石がナマズの頭を、そして香取神宮の要石は尾を、それぞれ押さえつけているのだそうです。

地震や災害に対するこの荒唐無稽な考え方は、今日でも予知さえ出来ず、自然の動きに従うしかない状況は同じ、祈りと信仰が心を救うということで、バカにすることはできないと思います。

祖先の人たちが、地震で苦労していたことがよく分かります。

今日では科学と称して自然を研究していますが、これを見るとこれが発祥と感じます。

またこの要石は関東だけではなく日本全体を治める意味もあったと思われます。

香取神宮 奥宮

奥宮は広い樹蒼の中に建てられています。神様はこの高台から国を見渡しておられたと言います。

奥宮が存在する意味について田中教授はこのように言っておられます。

奥宮とは、奥で何かを成らしめているという存在。つまり自然が神であり、その自然を拝む場所として神社が造られた。そして更にその奥に奥宮として建てられた。従って神社は山の中にあるのが普通です。やはり、神社というのは自然信仰を基にしており、そこには神がお隠れになっている。我々は遠くから拝むのがまた自然信仰なのです。この香取神宮の奥宮はなかなか素晴らしい奥宮です。との感想を述べておられました。

次回は鹿島立ちの出発点「息栖神社」をご紹介します。お楽しみに。

文中の紹介本

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。