東国三社を歴訪する(6)息栖神社と東国三社巡り

東国三社の最後の神社「息栖神社」にやってきました。

この息栖神社は鹿島神宮や香取神宮のようには知られておりません。

ではなぜこの神社が重要なのかと言いますと、「天の鳥船」という神が祀られております。「天」、「鳥船」の由来が示されております。

鹿島神宮が「タケミカズチノカミ」、香取神宮が「タケフツノカミ」、この二柱が日本のお天道様であり、この東の海から太陽が昇るという意味なのです。

この地にたくさんの神社があるということは、太陽を守るという意味があるということです。

日本の神というのは天照という女性であり、あまり強い神ではありません。それを、

両神社を守る剣豪二人が、国譲りの時もお出になられ、高天原を守るという役割を演じたのです。

この息栖神社の場所が天孫降臨の時に鹿島から鹿児島へという動きをする場所であり、息栖神社の別名「天の鳥船」は「鳥のように早い船」という意味でありました。

確かに歩くよりは遙かに早く、また沢山の武器や物資を持って行けます。

日本が海の国であるということを示しているのがこの関東の三社であるのです。

 

それでは、これから港に行き船が鳥のように飛んでいくという実感を味わってみましょう。

九州には隼人(はやと)という地名があります。

隼人・・・熊襲(くまそ)と同じく、古代の九州に居住した豪族。

隼人は火照命(ほでりのみこと、海幸彦)の子孫です。

それは正に、鳥のように早く飛んできたという意味で付けられています。

従ってこの地は「海に開いた関東」ということで重要な意味があるのです。

息栖神社の御神木

息栖神社は、応神天皇の時代に出来たと言われていますが、神社として成立したのは八世紀ごろで、この御神木はその時からあったろうと思われます。

ご覧になられて分かる通り、木のことを柱と読みます。

柱(はしら)とは神を数える時に使います。

一柱(ひとはしら)、二柱(ふたはしら)・・・十二柱(とおあまりふたはしら)と数えます。

日本人の神のイメージは、樹木を想定したのだろうと思います。御神木がこのようにしめ縄に捲かれているのは、これが神であるから・・自然信仰の形であるのです。これこそが日本の原型なのです。

このような神社を造るというのは、実は後からなのです。それは仏教がきてからなのです。

 

応神天皇の頃には秦氏が来ている

応神天皇十四年の春、百済を経由して中国よりも西方の弓月国から1万8000人もの渡来人が来日し、応神天皇は快く迎えています。

 

西の方から来る人達は、神殿を造るのが宗教だと思っていますから、その後は社殿が出来ていくわけです。それまでは、樹そのもの、太陽そのものを拝んでいればよかったのですが、彼らが来ることによって社殿を造るようになっていったのです。

しかし、それが記憶をしっかりと定着させるためには好かったことだろうと思います。

 

利根川あたりは殆ど縄文海進といって、縄文時代は海でありました。そこに東国三社があるわけですが、昔は伊勢参りのあとに必ずこの東国三社をまわるという習慣がありました。

それは伊勢神宮が、天照大御神を祭ってはいますが、こちらは、天照る神、つまりお天道様そのものを参拝するという、つまり太陽そのものを拝むわけです。

鹿島神宮で説明しましたが、そこには本殿がありませんでした。

太陽が昇る真っすぐの道に本堂がありました。

従って、江戸から来た人たちが、ここに船でやってきて、そして二つの神社をお参りする習わしになっておりました。

また、ここには井戸があります。その井戸から大事な水を飲むということも、自然信仰の一つとして大事な習わしであったのです。

要するに関東全体が海と共にありましたので、倭が山に囲まれた場所であったことと対照的です。それが日本を造る大倭日高見国という二つの国があったといういことを証明しているのです。

伊勢参りの後、東北三社巡り、あるいは三社巡り詣でといって、江戸参りの人たちが必ずここの大きな鳥居に着いたのです。 伊勢参りと東国という繋がりを認識する・・。それは江戸までは神宮が三つありました。そのあとに、この神社に来るということが大事でありました。

井戸にまで鳥居がついています。つまり井戸も神でありました。それが水という神聖なものを祀る意味があるわけです。従って人々は自然そのものを敬愛していたということがわかります。

田中教授の説明でした。

 

次回は、国譲りの出雲大社に行ってみましょう。お楽しみに。