国譲りの舞台 出雲大社

出雲の神話は、本当に存在していた!?

出雲大社にやってきました。正式には「いずもおおやしろ」、通称「いずもたいしゃ」と言います。記紀(『古事記』と『日本書紀』)の神代においてはっきりと神殿造営が記されている唯一の神社です。

主祭神は七福神の大黒様で知られる大国主命(オオクニヌシノミコト)

大国主命は天照大神の弟にあたる、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子孫であり、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)によって始まった日本の国造りを、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)と共に完成させました。

完成の後は、「国譲り」により、国を天照大神に譲り、出雲大社に住み、その歴史は今日に至ります・・。

日本神話に登場する八頭八尾(やまたのおろち)の大蛇。高天原を追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲の国、斐伊川の上流で、八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)に悩まされ、国津神を救うため、八俣遠呂知と戦い退治します。

その時、尾から神々しい剣が現れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は天照大御神に献上します。今日まで伝わる三種の神器の一つで、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、天叢雲剣(あめのくらくものつるぎ)とも言います。

そして、一時追放されていた素戔嗚尊(すさのおのみこと)ですが、このことで天照大御神に認められます。

八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)を倒し、櫛名田比売(クシナダヒメ)を娶った素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、そのまま出雲に住みます。

素鵞社(そがのやしろ

素鵞の社は、出雲大社本殿の奥にある摂社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られています。

大国主命の最初の先祖と言っても好いと思います。素戔嗚が斐伊川でヤマタノオロチを退治した後、出雲が栄え、大国主命が後継者となります。

素戔嗚は天照の弟であり、異質の神様であると同時に、出雲は倭(やまと)の奥之院という立場を貫かれていることも日本の皇室の床しさも感じさせられますとの田中教授の感想です。

大国主命は縁結びの神でもあり、決して欲張ったりせず、また稲葉の白兎を助けたりして非常に人柄も好く、国を治めるにも立派な人格者ということです。

しかし、後になって、やはりこの出雲の国も高天原の国にしたいと天照が考え、国譲りを要請します。

この国譲りの神話も非常に重要で、いずれ稲佐の浜に行って、武御雷の神(タケミカズチノカミ)と建御名方神(タケミナカタノカミ)「大国主の御子神」との対決があります。

出雲の名所:稲佐の浜       

出雲大社とセットで行きたい神々の決闘の地

さらに、この戦いは鉄と銅の戦いでもあったということです。

つまり、関東の武御雷神(タケミカズチノカミ)は鉄、建御名方神(タケミナカタノカミ)は銅、鉄と銅の戦いとなると、戦わずして鉄が勝つわけですから、実際は戦わなかったのではないかとも考えられます。 鉄の文化圏と銅の文化圏として大きな違いがあったのではないかと推測します。 鉄が作られたのは高天原系の関東東北で、砂鉄が結構多かったようです。決して朝鮮から持ってきたのではないと。そういう意味で日高見国が優勢であったと考えられます。と田中教授の解説です。

戦いの場所の「稲佐の浜」。夕日がきれいな海岸の光景です。こういう場所があるということは実際に歴史的にも戦いの場所があったと思われます。名所としても是非来ていただきたい所です。と・・

この出雲大社と高天原は、天津神と国津神という地上と天上の争いというのが出てきます。田中教授によりますと、これは東国と西国の争いということで、この後、天孫降臨があり、その前触れとして高天原がいかにして西方と結びつくかという意味でも、出雲大社が大変重要なのですと言われます。

「出雲大社」の大社というのは神宮より少し格が落ちますが、鹿島神宮、香取神宮が高天原系の代表的な神宮であり、西方の出雲大社が代表的な神社になるわけです。

珠を授かる大国主命

大国主命(オオクニヌシノミコト)は国を治めることで、天照から珠(タマ)を授かります。

この珠は、魂という意味でもありますが、田中教授は大元は「太陽」であると言います。太陽こそが日本の伝統であり基本であると・・。

大国主命はその珠を与えられたために、国を統治することができたわけですが、

やはり、日本の基本は「玉」。 勾玉(まがたま)は、縄文・弥生時代から日本に伝わる装身具で、皇室の三種の神器にも八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があります。

これは太陽と月(三日月)で、このような玉は 1万年前から日本にはあり、国を統一するためにも重要な存在としてここでも垣間見られ、興味深く感じさせられますと仰っておられます

 

出雲大社の拝殿             

出雲大社には素晴らしい「しめ縄」がかけられています。

しめ縄は「縄文の縄」のことで、神様が降りた神聖な場所を示すものです。

出雲大社のしめ縄は、長さ13.6m、重さ5.2tという日本最大級の大きさとのこと。飾り方も一般的な神社とは異なるようです。

皆さんはお相撲取りのしめ縄を思い浮かべることでしょう。これは実を言うと同じなのです。

すべてを紐で周りを囲む(結ぶ)ことで、横綱も神様なのです。それに値しない横綱もいるかもしれませんが、あの強さが、この中に神様が居られるとみたのですね。

縄文時代からきた「結ぶ」ということは

高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)
『古事記』の天地開闢において、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に続いて最初に成る三柱の神(造化三神ともいいます)。

その三柱の神々から始まり、「結ぶ」ということが日本にとっていかに大事であったかが分かります。

なお結び方は、高天原とこの出雲とでは異なるようです。

大倭日高見国の存在については祝詞(のりと)の中にはっきりと記されています。
現在も使われる大祓詞(おおはらえのことば)という中臣氏以来の祝詞には日本は「大倭日高見国」(おおやまとひだかみこく)であると記されています。

日高見国が、天照がおられる東であり、出雲が西の中心であったのです。そういう歴史がここに来ると現実的に解ってきます。

さらに注目すると、ここには菊の御紋がありません。

それは高天原の神武天皇の系統ではない系統であること。これも非常に重要で、出雲大社と鹿島神宮、出雲大社と伊勢神宮の二つの系統が日本をずっと守ってきたということがよく分かります。天照の伊勢神宮も統一されるわけですが、大国主命の存在が歴史的に重要な存在であり、神々が現実の士族、人間であったということを強調したいわけです。それとまた倭に戻ると大国主が大物主命ということで三輪山の神でもあります。

大国主命と皇命(すめらのみこと)の系統が常に協力しているということが分かるのです。

天照と素戔嗚(スサノオ)の二人の兄弟(神)が日本を統治されるという形となり、それが邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨によって神武天皇が統一されるということに繋がっていきます。

大倭日高見国とはどういうことかという謎が解明すれば出雲大社の重要性がより理解することができるのですと田中教授は仰います。

ここへきて一番クライマックスと言ってもいい大神殿、これこそが日本のおおきなシンボルの一つと言えるでしょう。

次は大国主命が要求した大神殿の謎について記します。お楽しみに。

田中英道氏について

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                       中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                         日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。