神話から読み解く石上神宮と日高見国との関係

石上神宮は、正確な創建時期は不明ですが歴史はかなり古く、6世紀前半に書かれた『古事記』や『日本書紀』には名前が載るほど大きな神社でした。

日本の初代天皇・神武天皇の時代から天皇家に支えていた物部氏の総氏神でもあり、紀元前から建っていると思われます。

この鳥居に「フツノミタマの神」という額が掲げられています。

フツノカミ(経津主大神(ふつぬしのおおかみ))とは千葉の香取神宮の神様です。鹿島神宮の武御雷(タケミカズチ)の神と並んで剣の神様です。それがこの石上神宮(いそのかみじんぐう)にきているのです。香取神宮は物部氏の神社でもあります。物部氏と大和(やまと)は非常に関係があり、饒速日命(にぎはやひのみこと)が関東から来た物部氏の神様です。                 神武天皇のお爺さんにあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)は中臣氏という(後に藤原氏と呼ばれる)系統です。

石上神宮は物部氏の系統であり、物部氏を中心とした天孫降臨が行われたのは饒速日命なのです。日本の建国の問題が、これで明らかになります。つまり二つのグループ、一方は中臣氏、もう一方は物部氏となります。そして中臣氏が邇邇芸命、物部氏が饒速日命、この二柱の神が天孫降臨をされたということが分かります。

ところが今は邇邇芸命が天孫降臨されたことだけと考えられていますが、実を言うと、物部氏の一行が大阪の方から大和(やまと)に天孫降臨されたという事実が、神話にも書かれているにもかかわらず、歴史の中では無視されてしまっております。

田中教授は、古事記や日本書紀に書かれていることが歴史的事実と見ております。           関東における中臣氏と物部氏、天児屋命(あめのこやねのみこと)が邇邇芸命と共に天孫降臨された主になるグループが邇邇芸命で関東の鹿島から九州の鹿児島に船で天孫降臨されたと想定できます。

天児屋命(あめのこやねのみこと)について

【中臣氏(藤原氏)の祖。天照大神の岩戸隠れにおいて、岩戸の前で祝詞を奏上した。天孫降臨では邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して、葦原中国(あしはらなかつくに)に降りた。と、日本書紀には記されています。】

日本は天国があるわけではなく、関東東北と関西九州、この二つが結ばれて日本が出来ていきます。が、「日の本」がもともとの国でありました。

この石上神宮に飼育されているニワトリも日を告げる神としての鳥なのです。ここは饒速日命系統なので古い神宮なのです。紀元前660年という時に饒速日命が天孫降臨された古い神社であると田中教授はみておられます。

物部氏系の神社がここにあります。その物部氏が聖徳太子の時にも、仏教を取り入れた時に逆に物部氏が攻撃されます。そこで一旦途絶えると言われていますが、やはりその物部氏が日本の士族の底流として残っていくことが分かります。

朝日が昇り、ニワトリが時を告げる・・・

朝日が昇る。先ずは時を告げる・・。

高天原で天照大神が岩戸にお隠れになった時、世の中が真っ暗になる。その時皆で宴をやり、八百万の神々がどっと笑い、その楽しそうな笑い声に誘われて外を覗こうとした時に腕力の神、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が天照大神の手をとって外へ引き出した。こうして高天原と葦原中国に光が戻った。

古事記に書かれているこの時に、時を告げたのもニワトリでした。そしてこの牛も鹿も忠実な動物として、ここに座っております。鳥も動物も神社でお祭りをする歴史が続いています。

こうした取材中もニワトリの高らかな雄叫びがオンラインの向こうから響き、神社の源流のようなものを感じさせられます。皆様も是非いらしてみてください。とのことです。

次回は「春日大社」に行ってみましょう。お楽しみに。


崇神天皇陵「前方後円墳の謎」

崇神天皇陵

第10代崇神天皇の陸墓。奈良県天理市柳本町にある墳丘長は242m、周壕を含めた全長は360m、 高さは後円部31m、前方部13.6m。4世紀全半に造られたと推定されています。

第10代の崇神天皇のお墓で、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)として神武天皇と並んで、はじめて大和の国の天皇の名称がついております。

神武天皇陵は242mですが、箸墓古墳は280m以上あります。崇神天皇は前回ご紹介させていただきました纏向遺跡という旧都と言ってもよい都をお造りになったことが考えられます。        箸墓古墳は最初の大和王朝のお墓で、それが倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という天皇の皇女のお墓ということに決められておりますが、田中教授は疑問を呈しております。

現在、箸墓古墳は非常に荒れてしまっております。残念ながら宮内庁が認定した天皇陵とは違い、残念な思いをしておられます。田中教授は箸墓古墳が崇神天皇のお墓ではなかったかと推定しておられるのです。

しかし、このようなお墓の認定は江戸時代末から明治にかけて行われたもので、必ずしも厳密な研究と議論の上に造られたのではないと教授はみております。纏向遺跡というキュートな形の中にある古墳が多分崇神天皇のお墓ではないかと。

これについてもこれからしっかりと発掘など調査をして考古学的な研究をしますが、やはりこれが正しいような気がしますとのことです。

すると、こちらは誰のお墓かと言いますと、天皇家のお墓であることには違いありません。多分、崇神天皇の皇子のお墓ではないかと教授は推定しております。

ここは一番高い所に水を湛えており、非常に美しく、お墓は東を向いていることは確かです。やはり太陽が昇る方向に円の方が向いていることに一貫しているのです。

ヤマトという国が多くのお墓と都が考えられる場所があるということは、彼らが皆、東から来ている人たちが中心になっていることを意味しております。

石上神宮(いそのかみじんぐう)や春日大社にしても、すべて東国の鹿島神宮や香取神宮の神々がみな同じ神として来ており、物部氏も香取神宮に依拠した氏族です。このような説は多くは語られているわけではありませんが、これは新しい説として認知されるべきと思います。

つまり、あまりにも西に傾き過ぎ、すべての歴史が西にあるかのように言われ過ぎております。さらに、朝鮮や中国からの影響というようにも思わされてきましたが、そうではなく、縄文時代の人口は東の方がはるかに多かったことは何度も言っております。日本全体が新しい説により古代史を作り上げていることが感じられます。

蝦夷(えみし)とか蝦夷(えぞ)と言って東が排除されるという歴史や、さらには富士山が全く出てこないなど、記紀に現れないそれらを補うことによって日本の歴史が成立するだろうと田中教授は述べられております。

この皇子のお墓の向こうにある伊勢神宮は東に向いています。遺跡を観るたびにこのようなことが分析できます。

すでに規整されたお墓を貶すわけではありませんが、この前方後方墳(田中教授は前円後方墳と言っています)は、天と地が結びついた一つの形として、円が太陽、後方墳が大地であり、太陽と大地が結びついていることで、日本全体の図像として考えられるわけです。そしてこれが一貫して皇室関係の古墳に見られることは、日本のある種の一貫した形が示した思想であると思います。

次回は「神話から読み解く石上神宮と日高見国との関係」です。お楽しみに。


初代天皇の墓「奈良の箸墓古墳」

日本初の巨大古墳「箸墓古墳」

箸墓古墳は奈良県桜井市箸中にある最古級の前円後方墳(前方後方墳) 3世紀初頭に造られたもので、墳丘長278m、高さ30m。奈良にある古墳時代前期初頭の大和(おおやまと)古墳群の一つ、纏向古墳群を代表する古墳である。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の墓と定めている。田中教授は第10代崇神天皇の墓であるとの見解を示しています。                                           

  

 

 

箸墓古墳の名前は第7代天皇の皇女の悲劇的な話の印象が強く名付けられましたが、実際は崇神天皇のお墓と田中教授はみておられます。

戦後になり、これが前述の女性の墓と関連付けられ、卑弥呼のお墓ではないかと言われ始めました。しかし、邪馬台国は北九州説が強いわけです。箸墓古墳説と北九州説が主張し合って未だに決着がつかないと言っていますが、実際は最初から決着はついているのです。

何故ならば、魏志倭人伝は3世紀末、西普(中国)で書かれた歴史書『三国志』の日本に関する記述部分のことで、邪馬台国と卑弥呼に関する記述があります。魏志倭人伝は邪馬台国や卑弥呼の存在を主張する際の根拠となっていますが信憑性は乏しいのです。詳しくは「魏志倭人伝を疑う」として田中教授の書籍「邪馬台国は存在しなかった」をご覧になられてください。(勉誠出版 刊田中英道著)著者である陳寿は日本や朝鮮半島にも訪問したこともなく書かれている文献であるとのことです。

実際に古墳の前に来てみると、向こうに三輪山があり、大神神社(おおみわじんじゃ)があります。下の広々とした平野には新しい都を造ろうとした考えが連想できます。        三輪山や大神神社は想像を超える歴史があり、調べれば調べるほどその深さを思い知らされます。パワースポットは従来ならば聖地と呼ばれる場所で、長き時を経て積み重ねてきた不思議な力を感じずにはいられません。呼ばれないと登れない山と言われているそうです。三輪山に魅力を感じた方は、もしかすれば三輪山に呼ばれているのかもしれません。ぜひ一度足を運び、三輪山のパワーを授かってみてください。と[Tabiyori] より。

この箸墓古墳には一足先に天孫降臨された饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が長く住んでおられました。ここに神武天皇が東征され統治されたのに出会い、饒速日命に仕えていた長髄彦(ナガスネヒコガ)は、ここに饒速日命という立派な当主が居られるのに何故ここに来たのかと詰問します。神武天皇も饒速日命に何故天孫降臨された時に、ここに統治されたのかと問い質します。      お互いに三種の神器を持っているのか確かめ合います。

勿論、双方がきちっと持っています。ここでお互いに正統であることを認め合ったうえで、饒速日命が、神武天皇を新しい天皇(スメラミコト)であることを認め、譲ることになります。

一方、神武天皇に先立ち、天磐船に乗って天降りしてきた饒速日命を、長髄彦は主君と仰いで仕え、妹を后としたことで、神武天皇に敵対しました。そして更に抵抗を続けたために、前の当主、饒速日命が自ら、長髄彦を殺してしまいます。という物語があります。

そして新しい大和がここに形成されます。これが纏向遺跡と言われています。

この地形をよく見ますと、道路も皆、東を向いています。東から来た人たちが住み始めていると考えられます。正に三輪山が東なのです。前円後方墳の円の部分が東を向いています。

今まで、東から来たという人たちはあまり居りませんでした。九州に天孫降臨をした人たちが、日向から大和にやってきました。それが東征で、それ以前の人たちはもともと九州にいたのでは、という考え方が強いわけです。九州に来た人たちは、まさに関東から来た人たちであり、鹿島から鹿児島へという、鹿児島に入る川(天降川)に着くという物語が分るのです。

 

【天降川(あもりがわ)は、鹿児島県の中央を流れる二級河川。同県湧水町の国見岳に始まり、鹿児島湾(錦江湾)にそそぐ。鹿島を立った邇邇芸命率いる天孫降臨一行は海路を進み鹿児島湾に到着し、天降川から鹿児島に入った。その後、数代を経て日向(宮崎)に至る】

 

 

 

このことが大倭日高見国という日本の国の名前でした。倭は正にこの地(場所)ですが、大倭日高見国は今までどこであるかが分からなかったのです。この地も日は高く登りますが、ここは東国ではありません。東国こそ日高見国(日が高く昇るところ)であるという名前で、昔は東と西が日本にはもともとあり、西の方が外部からの人々が常に入ってくる、東が統治していくという過程が物語としてあると考えられますと。

これまでは多くの人が、日本は西だけという考え方で、朝鮮と日本だけで歴史が作られていました。縄文の時代が完全に東に多くの人口が、90%が今の名古屋、東海地方から関東、東北、北海道の南部までずっと一つの本州という名前で呼ばれていたのです。

それが日高見国であった。という考え方が正に大倭日高見国=日本という、日本の形成過程が分っていくのです。

石上神宮(いそのかみじんぐう)や春日大社は関東から来た人たちが、一番古い神社を造っているのです。それが大和の始まりと言えるのです。この山に囲まれたヤマトという意味がこの地から始まっていると言っても過言ではありません。

歴史というのは、これまでは邪馬台国はここであった、とか卑弥呼がいたのでは、とかがありますが、東海地方の半分以上は発掘された遺品で分かるのです。従って中国や朝鮮とも関係がなく、正に日本の日高見国、高天原からきた人々がここで住み始めたということが、もちろん鹿児島経由・九州経由でやってきたと言えるのです。そういう新しい考え方では日本は朝鮮から・・・という考え方は持たない方が良いのです。

日本は全ての国からユーラシア大陸を超えてやってきた人たちで、そして東から東南アジアを通って船で来た人たち、いろんな人たちがここに集まって日本という国が形成されていったのです。

日本に着くまでさまざまな努力をしてやってきたのです。なぜ日本に来るかというと、太陽が昇る国だからという強い憧れがあったからです。それがまたいろいろな意味で、日本がとこしえの国であるという考え方があるのです。

茨城の辺りは常陸、とこしえの国に皆がやって来て、それが寒冷化に伴って南下し始めたのです。また更に大陸の危険性をも感じて、日本を守ろうとする考えで、ここは周りが皆、山ですから好い環境でありました。

ここに前円後方墳を造る意義が出てきたのです。ここが首都であり、最初の天皇の墓を、崇神天皇がここでお眠りになっていると考えているのですと、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)は「天下を初めて治めた天皇」という意味です。 この「名」を持つのは神武天皇(初代)と崇神天皇(10代)。新しい国を創る・そこを統治される天皇・まさにそれが崇神天皇である。そのような仮説、ひとつの新しい考え方を持って新しい歴史を見直す、そういうことが今我々が、朝鮮からきた、中国から来たと今まで日本人の見方があまりにも狭すぎたと田中教授は考えておられるのです。

参考:神武天皇の真実 初代天皇は誰なのか?「古事記」「日本書紀」の記述をもとに最新の考古学の成果を踏まえ、導き出された結論とは 日本古代史最高の謎に迫る (扶桑社 刊、田中英道 著)

次回は崇神天皇陵「前方後円墳の謎」についてです。お楽しみに。

 


ヤマト王朝発祥の地・纏向遺跡

ヤマト国が成立する時に、一番重要な纏向遺跡が恐らく最初の都市であったのではないかと田中英道師の感動的な解説をもとに記させていただきます。

ヤマト国は崇神天皇が居られたところです。それは神武天皇と重なってくるのですが、神武天皇は紀元前660年という縄文・弥生時代という古い時代です。                           

橿原神宮の方に多くの遺跡が出土しているために記憶がそちらに集中していますが、大和国の方が最初の都市と言ってもいいと思います、と。

2キロ四方ぐらいの都市ですが、三輪山という山の信仰が感じられます。              ヤマトとは大和と書きますが、 本来は「山の人」なのです。   

ここには東海から来た土器が半分も占めており、すべて東から来ている人たちが主流なのです。

日高見国・高天原系の人たちが、この大和に移ってきたという歴史的な過程がある筈ですと分析され、崇神天皇がここで都市を造られたのですと分析します。

 

崇神天皇と神武天皇も同じく、始馭天下之天皇「ハツクニシラススメラノミコト」という同じ名前を付けておられます。それは、神武天皇が国を創ったのは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を重ねているわけで、ここでは正に崇神天皇が「ハツクニシラス」として国を統治され、皇命(スメラノミコト)は天皇であり、この地がその場所であると説明されております。

                                               名前が箸墓古墳というのは、とある命(ミコト)の暴力により皇女の性器に箸が刺され亡くなったという謂れの悲劇的な話で、皇女の墓として名付けられましたが、実は、このお墓は280mの日本で最初の前方後円墳(田中教
授は前円後方墳と呼んでいます)であり、崇神天皇のお墓なのですと仰っておられます。

この地が規範となって前方後円墳が、日本のあちこちに造られていきます。

一方、ここには多くの渡来人たちが来ています。         後に日本人の3人に1人は渡来人で、更にその渡来人の3人に1人は秦氏系であり、これは西洋系なのだそうです。

西洋系とは、長い絹の道を通ってきたユダヤ人系であり、この人たちが非常に高い文化を、しかも
技術的に大きなもの、巨大なお墓を創る文化を持ってきたのです。箸墓川に運河を造り、それで沢山の物を運んでくる、この頃は船が充実していて多くの機材や土器なども運んできたと思われます。

この纏向遺跡は日本の最初の首都であったと言えます。これらは山の麓にあり、ヤマト民族と言えます。この大和民族がここで発祥したことは、その後の歴史の重要な原点であります。

もう一つ昔は日高見国があり、その人たちが移動してきた、更に渡来人が来て、その盆地の中に国づくりを行い、ある意味、防御のためであったのだろうと想像できます。

埴輪を見ていると、人だけでなく馬もいます。馬はもともと日本にはいない動物でした。彼らが馬を連れてやってきたのです。朝鮮よりもっと遠く、ユーラシア大陸を通ってやってきた彼らが馬を連れてくる。埴輪になって立派な馬が登場する。

馬の埴輪 に対する画像結果.サイズ: 129 x 170。ソース: webarchives.tnm.jp

道路・運河・巨大古墳・・・古代大都市は彼ら(馬共々)の協力なしには出来なかったことなのです。とのことです。

桜井市立埋蔵文化財センター
奈良県中部に位置する桜井市は、大和王朝発祥の地として纏向遺跡、三輪山、箸墓古墳など数多く文化財を有していることから、桜井市立埋蔵文化財センターも大和王朝の歴史を知る上で重要な施設となっています。この度の撮影の協力施設となっています。

次回は日本初の巨大古墳「奈良の箸墓古墳」について
お楽しみに❣


鳥居の形が伊勢神宮とそっくりな神武天皇陵

初代神武天皇の陸墓。奈良県橿原市、橿原神宮の北に隣接する円丘の形状で周囲は約100m。   記紀に「畝傍山の北方、白禱尾の上」と記された神武天皇陵は、いくつかの地を巡り江戸末期の(文久3年)、現在の地に治定されましたとのことです。

実は、神武天皇のお墓は徳川時代までは不明でした。                     田中教授は、当初、畝傍の山の中腹に前方後円墳のような形をなしているお墓があり、記紀にも畝傍の山でお亡くなりになられたことが記されているので、その地と予想されたそうですが・・・

・・実は御魂というのはどこの地にと固定しなくてもよく、つまりお墓がどこにあったかというよりも、どの時代にどういうふうに生きられたかが大事であり、歴史家としてそのように分析します。と語られます。

ここは明治時代に造られたお墓で、初代の天皇らしい広い敷地内に祀られています。昭和15年に大祭がありましたが、今年2681年目という長い年代が経っていると、

歴史的にも不明になってしまいます。これは、それとして認めなくてはいけません。

明治時代に、この地に定められたことは、国民の合意の問題であり、それで由としなければならないのです。

2600年前(縄文時代)を第一次大和時代とすると・・。

その時代に饒速日命(にぎはやひのみこと)が居られた。磐余彦(いわれびこ)の前の王朝があり、それが神武天皇の叔父様にあたる。邇邇芸命、饒速日命は兄弟であることが読み取れます。

とすると、血筋というものは重なっていくわけで神武天皇は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)として邇邇芸命(ににぎのみこと)の三代目、饒速日命がすでに邇邇芸命、つまりお爺さんの同じ世代の大王(おおきみ)としてずっとここに住んでおられました。

それが欠史八代と言われた八代以上も繋がっていたということ、更に饒速日命が、磐余彦(神武天皇)が東征された時にお会いになり、そして国譲りをされたわけです。

 

そして、そこで抵抗していた長髄彦(ナガスネヒコ)という武将を殺してしまうことがありました。

∴饒速日命は磐余彦(イワレビコ)と血筋があるわけです。

それを譲られて新しく大和王朝を作ります。

しかし、それが(ハツクニシラススメラノミコト)という同じ名前で神武天皇と崇神天皇が呼ばれるわけです。そこで二人の名前の天皇が同一化する、という歴史の展開が読み取れるのです、と。

とにかく、文字のない時代で、2600年も前のことを記紀に記すのです。

そこに書かれた記録が無くなってしまったために、記紀が際立った神話と歴史をみごとに融合した本なので、それを我々は如何に読み取るか、しかし神武天皇の信仰がこうして続いていることが大事なのです、と。

 

西暦の時間が正しいと思われていますが、これもある意味では造られたものなのです。拘り過ぎると矛盾し、イマジネーションのない歴史家が不在説をわざと言おうとしますが、確かに存在されていたわけで、厳密に年代を言う必要はないのです。

この地に国民によってお墓が造られたそのことが大事なことであり、その継続性が天皇の存在を保証するわけです。こうしてお墓の前に来てみると新たに存在感を感じさせられます。皆さんも是非ここにきて体感してくださいと、田中教授が仰って居られます。

 

       鳥居の形が伊勢神宮とそっくりな理由

 

伊勢神宮は天照を祀っています。それぞれの天皇陵が一貫して天照の子孫が天皇になられていることで、鳥居が一番単純であり、これを神明造と言うそうです。

これこそが日本の原初の皇命(すめらのみこと)、統治者であり、長者(一番長い家系)であり由緒ある御方である。それが示され、縄文から来ている日高見国という大和時代よりはるかに長い関東東北にあった国の人が関西にやってきて大和国で統一され、天孫降臨されて統治される。そういう姿が目に見えてくるでしょう。

日本が日の元である。そこから出てきた天照、その子孫が大和にずっと居られる。 そして平安卿、そして鎌倉へと政権は変わりますが、ずっとここに居られたということが分かります。是非皆さんもここに来て感じ取っていただきたいとのお言葉でした。

伊勢神宮(内宮)の入り口にある大鳥居。

日本独特の古式ゆかしい伝統を感じる佇まいです。

次回はヤマト王朝発祥の地・纏向遺跡をお送りいたします。お楽しみに。


天地開闢~神武天皇

 

         天地開闢~神武天皇
      高天原(神々の住む場所=日高見国)

  日高見国とは古代関東東北中部にあった国、日高見国の中心となった場所が高天原となります

天地開闢・・・世界が生まれた天地開闢の時、造化三神と二柱の神々、別天津神(ことあまつかみ)が生成し、続いて神世七代が生まれました。

別天津神(ことあまつかみ)に続いて生まれた神
造化三神 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
     高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)
     神産巣日神(カムミムスヒノカミ)

宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)

天之常立神(あめのとこたちのかみ) 天地開闢の際に最後に現れた神さま。 独神とされ、現れてすぐに身を隠します。
神世七代(かみのよなよな)別天津神(ことあまつかみ)に続いて生まれた神
国之常立神(くにのとこたちのかみ)
豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
宇比地邇神(うひじにのかみ)、須比智邇神(すひじにのかみ)
角代神(つぬぐいのかみ)、活代神(いくぐいのかみ)
意富斗乃辺神(おおとのじのかみ)、大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
於母陀流神(おもだるのかみ)、阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)

 

伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
伊邪那美神(いざなみのかみ)

この二柱の神が大八州(おおやしま)――日本を造り、その後、
三貴子(みはしらのうずのみこ)をはじめ、多くの神々を生みました。

三貴子(みはしらのうずのみこ)により誕生した神
   ★天照大神(あまてらすおおみかみ)・・太陽の神
    月読命(つくよみのみこと)・・・月の神
    須佐之男命(すさのおのみこと)・・・海の神

 

天照大神(あまてらすおおみかみ)

 五男三女神誕生

★天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)男神
・天菩卑能命(あめのほひのみこと)男神
・天津日子根命(あまつひこねのみこと)男神
・活津彦根命(いきつひこねのみこと)男神
・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)男神
・多紀理毘売命(たきりびめのみこと)女神
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)女神
・湍津姫命(たぎつひめのみこと)女神

天孫降臨

経津主神(ふつぬしのかみ)と建御雷神(たけみかづち)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定。  高天原を治める天照大神は葦原中国を治めるために邇邇芸命(ににぎのみこと)を高天原から天孫降臨させました。

 

葦原中国

天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)男神

邇邇芸命 ⇒ 彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)⇒鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)⇒日本建国 神武天皇(じんむてんのう)⇒今上天皇(第126代徳仁天皇) 日本建国から2188年経ちました。

神話の時間の複雑さと単純な同一性

最近は紀元前千年ごろから弥生時代と言われています。現実の歴史の年代と記紀の期日とはどういう風に重なり合うかを考えると、神武天皇の東遷、あるいは邇邇芸命が天孫降臨されて三代目であられることも、現実であったであろうと思います。

そこで、饒速日命と邇邇芸命が兄弟かあるいは同一人物ではないかと。

この辺が神話と歴史の時間が必ずしも一致しないというか、神話には時間というものがないのです。神話ではシンクロニズム(同時発生)という、同じ神が何千年経てまた出現する。例えば高天原いう非常に不思議な空間の中の存在というのは時間を超えている。タカミムスヒの神という存在は、最初の造化の三神として出てくる神様ですが、天照と同時期にまた出現する。例えば岩戸にお隠れになった天照ですが、その時にタカミムスヒの神様が現れて、相談され指導もする。神武天皇のときも天照とタカミムスヒも記されたりしている。

このように神々のシンクロニズムというのは常にあり、神々は代々同一名で同一性を保っているのだという風に考えられます。同じ名前の神が後になってからも出現するのは、神は人なりと考えると、同じ氏族が代々続けて存在したということを表わしています。皇統とはそのような意味合いもあり、元来皇命(すめらのみこと)として名前のない存在でもあります。神話はそのようなことを自在にやっているわけです。しかしそれは歴史と関係がないかというとそうではないのです、と。

歴史家田中教授は、神々の存在を、日本は天国や地獄という西洋的概念はあまり持たない国で、現実そのものが自然の美しい福音の土地だと言われておられます。

我々は西暦で時間を言う習慣が出来てしまいましたが、記憶の中では昔のことが同時的に行われているという神話の時間というのは、きわめて複雑ですが、ある意味単純な同一性を、古事記や日本書紀の中でも時々行われております。

我々は世紀の初めに書かれた記紀というものを頼りに、そして現実の空間を考えながら、判断していくしかありません、と。

畝傍山を背に、橿原神宮にやって来ると神武天皇の存在感が感じられ、心が洗われる気が致します。田中教授は感慨深く語っておられました

 

次回は「鳥居の形が伊勢神宮とそっくりな神武天皇陵」をお送りいたします。      お楽しみに。❣


日本建国の地・橿原神宮

明治時代、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出され、明治天皇はこれを深くほめたたえられ、京都御所の賢所と神嘉殿を下げ渡され1890年(明治23年)4月2日、官幣大社・橿原神宮として創建されました。

 

 日本最古の歴史書『日本書紀』では、辛酉年(かのととりのとし)の春正月庚辰朔(かのえたつさく)(1月1日)に、大和国の橿原宮(かしはらのみや:現在の奈良県橿原市 橿原神宮とされる)に即位したと記されております。

この日はグレゴリオ暦(現行暦)置き換えると、紀元前660年2月11日となります。そのため、2月11日が建国記念の日ということになります。

ここに一つの謎があります

人々の神武天皇への敬愛の念が神宮の由来ですが、神武天皇の東征の時期について田中教授は、歴史家として考えると、それは事実であることの他に、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)という天皇が二人居られることに、古事記・日本書紀の共通した記述があるとのことです。

<初代>                                   神武天皇の称号:始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)        <第10代>                                    崇神天皇の称号:御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)

この二柱の天皇との関係を考えますと、結局神武天皇が東征され、ここに来られた時、すでに饒速日命(にぎはやひのみこと)という天孫降臨された方が居られたということ、そして饒速日命から譲られたということ、更には長髄彦(ナガスネヒコ)という別の配下がおり、その方が抵抗されたのを、饒速日命によって殺されたという話が記されております。

このような話との結びつきを考察しますと、饒速日命がまずここに居られたということになります。紀元前660年ごろの遺跡を見ると確かにそれが証明され、この辺りには沢山の遺跡があり、従ってここで都をお造りになった可能性があり、更にそれが九代続き、そこに崇神天皇が、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)という名前で呼ばれていたというわけです。

更に面白いことには、崇神天皇の記録が書かれておりません。                       そしてまた神武天皇の方は後歴が書かれていないのです。

つまりお着きになられた当地のことが書かれておらず、神武天皇のことが書物を読んでも出てこないのです。そこで、神武天皇と崇神天皇が同一人物ではないかという考え方が成り立ちますが、恐らく田中教授もそのように考えられておられます。

紀元後二世紀前後お着きになり、纏向遺跡のある所で都をお造りになったと。従ってこの橿原神宮は饒速日命が居られたことと重なります。が、今はここが建国記念日として祭られているということは、非常に良いことで、我々民族の記憶は、このような現実の神宮で毎年建国記念日が行われている事態を有意義なことだと考えますとのことです。

 

畝傍山 (うねびやま)

標高200m、大和三山(天香久山、耳成山、畝傍山)のひとつ。畝傍山の麓に初代神武天皇の宮、畝傍橿原宮がありました。

ここは大和三山の一番重要な山で、紀元前660年、2682年(今年2022年)古い天皇の歴史を畝傍の山が物語っています。

この頃は古墳が造られなかった時代の、縄文時代になります。弥生は紀元前1000年頃の弥生時代、現実の歴史の年代と神話の古事記や日本書紀の期日とはどういうふうに重なり合うか考えますと、神武天皇の東遷、あるいは邇邇芸命の、天孫降臨されて三代目であられることも、本当に現実であったことと思っております。と田中教授は仰っておられます。

饒速日命(にぎはやひのみこと)と邇邇芸命(ににぎのみこと)が兄弟、あるいは場合によっては同一人物ではとも考えられます。と・・。

 

次回は天地開闢から神武天皇までを振り返ってみましょう。お楽しみに❣

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その⑨

25 橿原神宮

遂にナガスネヒコと再び相対することになった神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、その弓の先に止まった金鵄により勝利することができました。

大和橿原に至った神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、初代天皇に即位されました。

橿原神宮は神武天皇が即位された橿原の宮があったとされる梅媚山の麓に明治23年に創建されました。

橿原神宮の北側に、神武天皇陵があります。神武天皇の命日とされる4月3日は毎年勅使が参向しています。

神武天皇がその東遷の途中で立ち寄ったとされる言い伝えや、ゆかりの地は各地に残っています。それらの地を訪れ、伝説を知り、その伝説と共に生きる人々を知ることで、神武東遷の道は未来へと続いていくことでしょう。

 

 

 
次は

日本建国の地・橿原神宮をお届けいたします。

お楽しみに!


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その⑧

22 丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ) 

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は長髄彦(ナガスネヒコ)と戦うにあたり、高倉山で夢のお告げを得て、霊力のあるという天の香具山の土を取ってこさせて、その土で80枚の平瓦と甕を造りました。兵たちを勇気づけるため丹生の川上で戦勝祈願したと伝えられています。

 

カムヤマトイワレビコは八咫烏(ヤタガラス)の導きにより、吉野を経て、宇陀へと至りました

23 八咫烏神社 墨坂神社


拝殿

八咫烏の化身と伝えられる八咫烏神社は建角身命(たけつぬみのみこと)と名を変えた八咫烏大神を祭神とする神社で、式内社にも列せられた由緒正しい神社。建角身命は神武天皇の東征の際、熊野で停滞する天皇一行を大和へ導き、天皇の勝利に貢献した八咫烏の化身といわれています。

大量の炭を燃やし、火責めの計画を立てていた会式の軍に対し、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は宇田川の水を浴びて討滅に成功しました。

カムヤマトイワレビコは大和の多くの豪族との戦いに勝利します。

24 等彌神社(とみ神社)               鳥見山中霊畤春季大祭

鳥見山は即位された神武天皇が祭りの庭を設け、皇祖神を祀った場所と伝えられています。これは大嘗祭の起源とされており、鳥見山の西麓に位置する等彌神社の奉仕により毎年5月13日鳥見山中霊畤春季大祭が営まれています。

 

ついに長髄彦(ナガスネヒコ)と、再び相対することになりました。

次回をお楽しみに。

 


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その⑦

20 熊野那智大社

世界遺産に登録されている熊野那智大社、一行が光輝く山を見つけ、探り当てられたのは那智の大滝、那智の奥、大雲取連山から流れている流水が大瀧となっており、全山に那智48瀧と数多の瀧があり、一番高いのが那智御瀧です。
一の瀧とも言い、高さ133m・銚子口の幅13m ・瀧壺の深さは10m以上あり、流下する水量は毎秒1トン程度といわれています。

この瀧の上流には二の瀧、三の瀧があり総称して那智の大滝として、国の名勝になっています。

大滝を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れであるご神体としてお祀りになり、その守護の元に八咫烏(ヤタガラス)の導きによって、無事に大和に入られたと伝えられています。

八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されており、また、太陽の化身ともされています。

 

21 神倉神社(かみくら)

世界遺産である神倉神社、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)が登り、軍を率いたとされる天磐盾(あめのいわたて)という巨岩がこの神倉神社です。鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝えられる538段の急な石段を登りつめると現れるのが社殿とご神体の「ゴトビキ岩」、熊野三山の神々が最初にご降臨されたと言われる巨大岩です。

熊野と伊勢の境で神倭伊波礼毘古命一行は海難事故に遭い、稲飯命(イナヒノミコト)三毛入野命(ミケイリノミコト)の二人の兄を失います。亡くなった二人の兄、稲飯命は室古神社(むろこ神社)に三毛入野命は阿古師神社(あこし神社)に祀られました。

兄たちを手厚く葬り、一行は更に旅を続けました。

二木島湾はかつて伊勢の国、阿古と熊野の国の室野の境界であり、室古神社、阿古師神社の名称もそこからきていると言われています。

次は丹生川上神社です。お楽しみに。

 


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その⑥

17 男神社(おの神社)摂社浜の宮

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は大和に東から入るため、先ずは南に向かいました。

男神社(おのじんじゃ)の歴史は紀元前まで遡り、別名は「おたけびの宮」と呼ばれています。五瀬命(いつせのみこと)と神武天皇の霊を浜宮の地に祀ったのがはじまりとされています。

その後、859年(貞観元年)、現在の地に遷在されました。社は旧延喜式内社で、近くの双子池を中心とする一帯は男里遺跡があり、かなり広い範囲に人が住みついたと考えられます。浜宮は現在、男神社の摂社となっています。

御祭神

《主》神日本磐余彦命、彦五瀬命、《配》天児屋根命、熊野速玉神

この辺りは大阪湾に面し、敵に報いることなく手傷を負って死ぬるとは残念極まりないと雄々しく叫ばれたことで、オノミナトと呼ばれることになり、おっという地名も残されました。

雄叫びの宮とも言われる男の神社は859年に今の地に遷座され、その境内は天神ノ森とも言われています。

 

男神社の社叢は大阪府緑の百選に指定されており、見事な森で、多種類の古木の中には府内最大といわれているむくろじ(無患子)の木もあります。

18 水門吹上神社 (ミナトフキアゲ神社)

オノミナト、今の和歌山県で負傷したイツセノミコトが亡くなりました。イツセノミコトが雄叫びをあげながら亡くなったことに由来し、紀ノ川の河口付近にはオノミナトという地名が伝わっています。

その地に建つのが水門吹上神社 (ミナトフキアゲ神社)で水門神社と吹上神社と二つの神社で合わせて祀っています。

19竈山神社 (かまやま)

ウイキペディア 提供

和歌山市南部、竈山の地に鎮座する。「竈山」とは『古事記』『日本書紀』に見える地名で、両書では神武天皇(初代)長兄の彦五瀬命(五瀬命)が竈山に葬られたという。当社はその彦五瀬命の神霊を祀る神社であり、本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える竈山墓(かまやまのはか、宮内庁治定墓)がある。

主祭神

 

彦五瀬命(ひこいつせのみこと)

「五瀬命」とも。ウガヤフキアエズとタマヨリビメの間に生まれた長男(第1子)で、神武天皇の長兄。

配祀神

  •  左脇殿:彦五瀬命の兄弟神

稲飯命(いないのみこと) – 『日本書紀』本文では第2子(一書で第3子)
御毛入沼命(みけいりぬのみこと) – 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)- 末弟(第4子)

  • 右脇殿:神武東征に従軍した随身

高倉下命(たかくらじのみこと) – 熊野の土豪。
可美眞手命(うましまでのみこと) – 物部氏祖。
天日方竒日方命(あめのひがたくしびがたのみこと) – 大神氏祖
天種子命(あめのたねこのみこと) – 中臣氏祖
天富命(あめのとみのみこと) – 忌部氏祖
道臣命(みちのおみのみこと) – 大伴氏祖
大久米命(おおくめのみこと) – 久米氏祖
椎根津彦命(しいねつひこのみこと) – 倭氏祖
頭八咫烏命(やたがらすのみこと) – 賀茂氏祖

カムヤマトイワレビコは更に南下し熊野に到着します。 次は熊野那智大社です。お楽しみに。


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その⑤

15、石切箭神社(いしきりつるぎや)

吉備を出発すると河内の国、今の大阪府東部の白方の津に上陸、西から大和に入ろうとします。

石切劔箭神社(いしきりつるぎや)神社の祭祀は、代々、木積(こづみ)氏が務めておりました。

木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の、最有力氏族のひとつ(穂積)から転じたものとのことです。そして物部氏は石切劔箭神社の御祭神である饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫にあたります。

(石切劔箭神社より)

神武天皇と布都御魂(フツノミタマ)の劔

鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ侵攻を続けていました。河内に上陸し、現在の石切霊園のあたりから大和へ向かう神武天皇の軍勢を見て、長髄彦(ナガスネヒコ)は「平和で豊かなこの国を奪われてなるものか」と、戦をしかけます。

 土地に詳しく勇敢な長髄彦の軍勢に皇軍は総崩れになり、退却を余儀なくさせられます。哮ヶ峰(たけるがみね)の麓の高庭白庭の丘に兵をまとめた神武天皇は、かたわらの巨石を高々と蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々をこの地に招来して祈りを捧げ、敵味方なく戦死者の霊を祀りました。

 神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。  

ところが熊野の女王、丹敷戸畔(ニシキトベ)の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い、全滅の危機にさらされます。

そこへはせ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命(アメノガクヤマノミコト)でした。高倉下命(たかくらじのみこと)が布都御魂(フツノミタマ)の劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。                       神話「フツノミタマの劔」(石切劔箭神社より)

この戦いで兄彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が重傷を負ってしまいます。

16、枚岡神社(ひらおかじんじゃ)

創祀

枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。
神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(アメノタネコノミコト)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。

※皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。

御祭神

主祭神として祀られている児屋根命(アメノコヤネノミコト)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。
経津主命(フツヌシノモコト)・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。

神武御東征(じんむごとうせい)

神武天皇(神倭伊波禮毘古命:カムヤマトイワレビコノミコト)は、日本の国を治めるため、九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。

これを神武御東征といいます。浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻止しようと戦がおこってしまいます。

思うように進むことができないばかりか、兄である五瀬命(イツセノミイコト)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら日に向かって敵を討つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。

この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。

時の有力者と枚岡神社(御神徳記より)

堀川天皇  寛治5年(1091年) 8月12日行幸 御馬・御幣・御太刀 奉納
平清盛   永萬元年(1165年) 神馬・御幣 奉納
源義経   承安元年(1171年) 太刀二振奉納
源頼朝   建久元年(1190年) 御剣・砂金奉納
足利尊氏  暦応元年(1338年) 宝物奉納
楠正行   正平4年(1349年)1月2日 太刀・物具献納
関白近衛前久  天正11年(1583 薩摩下向の途次参拝
辰輸「すすき川 近き衛のそれならて 身は百敷の 遠津嶋守」 等
豊臣秀頼  慶長7年(1602年) 行合橋改修・擬宝珠奉納
慶長10年(1605年) 本殿建立、釣燈籠奉納(桑山重正奉行)
後陽成天皇 短歌献納
関白太政大臣近衛基熙
   「ひらおかに 天下ります神ならば 民くさかるる あわれおばしれ」

次は、男神社(おの神社)です。お楽しみに


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その④

12、高島宮、高嶋宮(たかしまのみや、たかしまぐう)

更に吉備、今の岡山県を訪れます。神武天皇が日向から大和国への東征途上で、吉備国に営んだとされる行宮(かりみや)。吉備高島宮、吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや、きびたかしまぐう)とも呼ばれます。

高島は高岡港の南およそ8キロに浮かぶ、広さおよそ1、2平方キロメートルの島です。日本書紀によると、カムヤマトイワレビコは、高島の宮に3年滞在し、船と軍備を整えたと記され、地元ではこの島のことと考えられています。島内ではカムヤマトイワレビコが吉凶を占ったと言われる上村山や水を汲んだと言われるマナイなどがあります。

『日本書紀』によると、太歳甲寅の年の10月5日に軍舟を率いて日向を出立し、大和へ向かう東征を開始した彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと。後の神武天皇)は、豊後水道を通り筑紫国、安芸国とを経て、翌年(乙卯年)3月6日、吉備国の高島の地に行宮を造って3年間滞在し、その間に船舶や武器の準備、兵糧の備蓄を行った上で、戊午年2月11日に再び大和へ向かい出航したというが、この時の行宮が高島宮であり、ちなみに神武天皇の即位は高島宮進発の3年後、辛酉年であるとされています。『古事記』も大同小異の伝承を記すが、高島宮での滞在を8年間としています。(ウイキペディアより)

13、亀石神社 (かめいわ神社)

カメの形をした岩がご神体の亀岩神社 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)の水案内を務めたと言われる珍彦命(ウズヒコノミコト)が乗っていた大亀の化身が岩となったと伝えられています。

 

 

 

14、安仁神社(あにじんじゃ)

カムヤマトイワレビコの兄、五瀬命(いつせのみこと)が、10年間、この地に滞在したと伝えられ、後に後継たちをこの地に祀って久方の宮と称したのが起源とされています。

 

 

黒須田川沿いのソメイヨシノ       すすき野のさくら

 

  • 次は、難波の岬を通って、河内の国、今の大阪府東部の白方の地に上陸、西から大和に入ろうとします。カムヤマトイワレビコに先立って都入りしていた、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)とその息子、ウマシマジノミコト宇摩志麻遅命を祭神とする石切劔箭神社「いしきりつるぎやじんじゃ」をご紹介します。お楽しみに

神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その③

8、神武天皇社

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)が滞在した地としてお社が建てられ、祀られてきた神武天皇社、度々の兵火により焼失を繰り返し、平成12年に再建されました。

9、岡湊(おかのみなと)神社

昭和20年米軍の爆撃により、神武天皇社 社殿が焼失した際、御神体が移されたのが岡湊神社、今もなお祭祀は続けられています。

10、岡田宮(おかだぐう)

神武天皇が主祭神として祭られている岡田宮、古事記にはカグヤマトイワレビコが1年間滞在されたと記されています。日本書紀には仲哀天皇(チュウアイテンノウ)8年、岡田宮の御祭神である岡県主(オカノアガタノヌシ)、その祖先の熊鰐(クマワニ)や 仲哀天皇(チュウアイテンノウ)と神功皇后(ジングウコウゴウ)に忠誠を誓ったことが記されています。

御信奉の冠状のさんれいは、大和朝廷から5世紀ごろ加持されたと言われています。

11、多家神社 埃宮(えのみや)

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は東に進路を変えて安芸の国、今の広島県を訪れました。

この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝えられています。

『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かむやまといわれびこのみこと)が七年坐すとあります。『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとあります。

この多祁理宮(たけりのみや)あるいは埃宮(えのみや)という神武天皇の皇居が後に多家神社となりました。

この祠には下記の由緒が記されている

平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社[厳島神社](いつきしまじんじゃ)、速谷神社とともに全国屈指の大社と崇められました。

当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命(あきつひこのみこと)ほか六柱の神々でありました。

 

中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えませんでした。

そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興となりました。

明治7年県社となり、その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀されました。

大正4(1915)9月、社殿を焼失しましたが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備が整いました。

なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重であり、現在、県指定文化財となっています。
以上、多家神社埃宮(えのみや)のHPより、参考にさせていただきました。

次回は(12)吉備(岡山県)です。お楽しみに

 


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その②

五、大入島おおにゅうじま)・神の井

神の井  佐伯湾に浮かぶ大入島(おおにゅうじま)の北端近くに位置する日向泊に、「神の井」はあります。    神武天皇が、東征の途中に立ち寄ったと伝えられる佐伯市大入島の日向泊。波打ち際までわずか数メートルの距     離にもかかわらず、今でも清水が湧く「神の井」があります。水がないことに心痛されて、砂浜に折弓の尖でこの井戸を掘られたという故事があります。

島民は一行の安全を祈り、大きな焚火で見送ったとされ、今も大入島トンド火祭りが行われているそうです。

六、早吸日女神社

紀元前667年、神武天皇が東征の際に、速吸の瀬戸(豊後水道)の海底に大蛸が住みつき、潮の流れを鎮めるために守っていた神剣を、関に住む海女姉妹が海底深く潜って大蛸よりもらい受け、神武天皇に献上したと言われています。
早吸日女神社(はやすひめじんじゃ)は、その神剣をご神体とした神社で、古くより厄除開運の神として地元の人の信仰を集めています。また、神剣を守っていた蛸も崇められており、蛸の絵を奉納して一定期間蛸を食べずに願い事をすると成就すると言われる「蛸断ち祈願」を行っている全国でも珍しい神社です。

七、宇佐神宮(大分県)

宇佐都彦・宇佐都姫が磐余彦一隊をもてなす

当時、宇佐一隊を治めていた宇佐都彦・宇佐都姫が「あきひこつまがりや」を造って、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇)一行をもてなしたと言われています。宇佐神宮の西参道から寄りの側にかかるクレハシを渡ってほど近く、騰宮と称する所が「あきひこつまがりや」と伝わっています。

日本の神話や国家の成立が記された、わが国最古の歴史書『古事記』・『日本書紀』には、宮崎・日向で生まれ育った神武天皇が、奈良・大和橿原までの遥かなる道のりを旅し、初代天皇として即位する物語が記されています。

「神武東遷」と呼ばれるこの旅路の伝承は各地に残っています。それらの土地を訪れ、伝承とともに生きる人々の姿を知ることは、「現在を生きる私たち」と「かつて生きた人々」とをつなぐ縁となることでしょう。

「神武東遷」に縁のある22の自治体が協力し、日本遺産の認定を受けるために取り組んでいます。

~参画団体~
宮崎県 :高原町、都農町、宮崎市、日向市
大分県 :佐伯市、大分市、宇佐市
福岡県 :芦屋町、北九州市
広島県 :府中町
岡山県 :笠岡市、岡山市
大阪府 :東大阪市、泉南市
和歌山県:和歌山市、那智勝浦町、新宮市
三重県 :熊野市
奈良県 :東吉野村、宇陀市、桜井市、橿原市

宮崎市公式チャンネルに記されておりました。共有させていただきたく記させていただきました。

次は神武天皇社 岡湊神社へ行ってみましょう。お楽しみに

「蛇足です」

日本昔やさい 茎立菜(くきたちな)

雪国の春を告げる野菜(日本昔やさい)秋に種を蒔き、20~30㎝に育ち、寒さに当たった茎立菜の株は、冬の和らかな日差しを浴びて次々に花茎を伸ばしていきます。冬から春にかけて雪国の貴重な野菜です。

農家さんおおすすめの食べ方

おひたし(おろし生姜を乗せると美味しい)、煮びたしなど。置賜地方では、ふすべ漬けという、茎立菜を熱湯にくぐらせ、1日~2日密封して塩漬けし、辛みを引き出して食べる郷土料理があります。 山形県高鼻町の農家さんからの記事より

 


神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その①

 山幸彦と海神の娘(トヨタマヒメ)が結ばれ、鵜戸神宮付近で生まれた(ウガヤフキアエズノミコト)の子が、日本の初代天皇といわれる神武天皇(カムヤマトイハレヒコノスメラノミコト)です。

 高原町の「皇子原」で生まれたとされる神武天皇は幼少期、(サノノミコト)と呼ばれていました。高原町には、その名を冠した「狭野(さの)神社」、幼いころ遊んだとされる「御池」などがあります。 

 神武天皇は日本国を治めるため、大和の国へと向かいます。その東遷の際、宮崎市の「皇宮屋(こぐや)」で約30年を過ごし、45歳で日向の美々津港から出立されたといわれています。「神話のふるさと宮崎」より

(一)狭野(さの)神社

第5代孝昭天皇の御代に神武天皇ご生誕の地にご創建されたのが始まりと伝えられています。
神武天皇はカムヤマトイハレヒコのご幼名狭野尊(サノノミコト)に由来しています。皇族のご幼名は生まれ育った地名を付ける慣習があった事から、当地の地名の狭野が由来すると伝えられており、当社より西に1キロ程に有る末社の皇子原神社がご生誕の地といわれます。
また、直線の参道では日本で一番長いといわれる狭野神社の参道沿いはおよそ400年前に植えられた美しい杉並木となっており、国の天然記念物にも指定されています。ご参拝前に歩くと心が清められるようです。

(二)宮崎神宮

国登録の有形文化財に指定されています。カムヤマトイハレヒコは45歳までこの宮崎神宮に過ごされたと言われています。

宮崎神宮摂社皇宮神社
皇宮屋(こぐや)と言われる皇居跡に建てられています。
カムヤマトイワレビコは天下を治めるには、日向の地は西過ぎると、東遷を決意し出発されます。

(三)都農神社(つの神社)
日向の地の第一の神社であった都農神社

宮崎の宮を出立したカムヤマトイワレビコが立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈ってご祭神を祀ったとされる場所。
以来、神武天皇の願いを叶えた都農神社は、
心願成就にご利益があるパワースポットとして、県内外の人から信仰を集めておられるそうです。          

 

矢研の滝

都農町にある矢研の滝はカムヤマトイワレビコがこの滝で矢を研いだと言われる由来が残されています。

(四)美々津の立磐神社

ここにはカムヤマトイワレビコが腰かけたといわれる岩が境内に残されてあります。

美々津港

ここから船出した港

風向きの変わった明け方、急遽、「起よ、おきよ」と慌ただしい出港となりました。現在も「おきよまつり」として伝わっています。

次は九州の東岸を北上し、大分県佐伯市の大入島・神の井トンド火祭りをご紹介しましょう。お楽しみに。

 


神武東征の出発地・宮崎神宮

ここは神武天皇が生まれ育ったところです。

この地で生まれ育った神武天皇を主祭神に、父である鸕鶿草葺不合尊 (ウガヤフキアワセズノミコト)、母である玉依姫尊(タマヨリヒメノミコト)が祭られています。

15歳で皇太子となられた神武天皇は、45歳の時、ここから東征に出発しました。
鹿児島神宮はお父様の山幸彦で、そのお子さんが磐余彦命(イワレヒコノミコト)と言います。

神武天皇の存在が戦後問われてきましたが、存在説を田中英道氏は認めておられます。

それは、ここに日向という処があります。日に向かって立つという意味で、それは神武東征という旅であります。神武天皇が居られたということは、お着きになった大和の橿原神宮や、畝傍山(うねびやま)近くに墓も宮もあったということも必ずしも言えないということで、神武天皇があたかも居られないということですが、やはりここから出られて第十代の崇神天皇、始馭天下之天皇 (ハツクニシラススメラノミコト)、神武天皇も「御肇国天皇(ハツクニシラススメラノミコト)」、字はちょっと違いますが、二人の天皇が同じ天皇であることを考えれば、ぴったりと合います。

 

神武天皇が都を造られた橿原神宮や畝傍山(うねびのやま)の近くは、最初の天皇と名付けてはおりませんが、天孫降臨された天皇といっても好い饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が居られました。これが紀元前660年という古い年限で、こんなに古い年代に神武天皇が居られたことがおかしいというのがこれまでの説でした。

始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)が、崇神天皇と合致するということで、そして欠史八代という第十代までの間の天皇が、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の王朝の天皇、あるいは皇命(スメラミコト)であったことと繋がります。

 

欠史八代

初代  神武天皇(紀元前660年)⇐饒速日命による最初の大和討伐
第二代 綏靖(すいぜい)天皇     
第三代・安寧(あんねい)天皇 饒速日命の討伐以降も日高見国(高天原)
第四代・懿徳(いとく)天皇       関東系の饒速日命系統による西国統治が 
第五代・孝昭(こうしょう)天皇 行われていた。         
第六代・孝安(こうあん)天皇
第七代・孝霊(こうれい)天皇
第八代・孝元(こうげん)天皇
第九代・開化(かいか)天皇   
第十代・崇神天皇(紀元後180年頃)→大和王朝成立。何かの理由により、                   再び神日本磐余彦天皇(神武天皇)によって二度目の大和討伐(東征)が行われた。

 

ここに、神武天皇が居られ、                     
また、塩土老翁 (シオツチノオジ)という重要なアドバイザーという方が居られ、「ここから東に行きなさい」と、そして「大和という処にいきなさい。饒速日命という方が居られる」と、そこに行くことが大和に東征される。そして饒速日命にお会いすることが目的でもあるということを塩土老翁が言われます。

それに従って行きますと、饒速日命と神武天皇が結びつきます。

大和に行きますと、饒速日命に長髄彦(ナガスネヒコ)という部下が抵抗します。後、饒速日命が長髄彦を殺してしまいます。そして磐余彦(イワレヒコ)が由緒正しい方だということで、饒速日命が引退されます。

このような話の辻褄が合う事で、神武天皇が居られたと考えます。そして崇神天皇と大和の場所で名前を変えられたか、あるいは統治を新たにされたと田中教授は考えておられます。

すると日本の神話というのは決して架空の話しではないと。

ということで神武天皇が45歳でお立ちになるまで(この年代も信じていいかとこれからの問題ですが)の磐余彦尊(イワレヒコノミコト)のお育ちになった宮崎神宮を観に行きましょう。

塩土老翁 (シオツチノオジ)という重要なアドバイザー

塩土老翁 (シオツチノオジ)は名前の「老翁」の部分からも想像できる通り、老人の姿であらわされる事が多い海の神で神話の中では見識を備え幅広い知識を持っている人生経験が豊かな神として描かれています。

また、シオツチノオジは宮城県の塩竈神社の祭神であり、この塩釜神社を本拠地として全国に分霊を祀る神社が広がっています。 シオツチノオジのエピソードの中で特に有名なものは「海幸彦・山幸彦」の物語の中で兄から借りた釣り針を無くして落ち込んでいる山幸彦に竹で編んだ小舟を与えて海神の産む海宮へと送り出したというものです。 結果、山幸彦は無事に兄の釣り針を持ち帰り、生涯の伴侶であるトヨタマヒメとも出会う事になります
出典 日本神話の世界

長髄彦(ながすねひこ)

長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する伝承上の人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。神武天皇との戦い(神武東征)に敗れ、殺されました。
(ウイキペディアより)

古代船おきよ丸

 

神武天皇が宮崎の美々津港から東征に出発されたことから、この地は「日本海軍発祥の地」とされています。古代船おきよ丸は、「西都原古墳群から出土した埴輪を原型として復元されました。

全長12メートル。

——

これこそが神武天皇が、日向から出発された船です。ここから九州各地、宇佐までも行かれ、そして福岡、地中海へ。相当長い旅ですが、一艘ではなく、天照、邇邇芸命、山幸彦、磐余彦、 天孫降臨をされて四代目ですが、

  邇邇芸命(ににぎのみこと)
  彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)/山幸彦
  鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
  神武天皇(じんむてんのう)

高天原勢を引き連れて出発されたということです。この高天原勢というのは東北勢で、みな陽をいつも大事にする太陽の軍勢といっても好く、これが太陽に向かって出航する。そして長髄彦の勢に敗れて後退し、陽を背にして熊野の方に回り、大和を攻める長髄彦に対する戦いをずっと行っていました。             大和勢には饒速日命(ニギハヤノミコト)という天皇が居られます。        長髄彦という人物は、やはり饒速日命の謀反者でもあり、最後はやはり殺されます。長髄彦はある意味で謎の人物ですが、出雲勢だろうと思います。      出雲から降りて大和に移ってきた人たちと考えられます。

天孫降臨された証として、三種の神器を示すように言われ、長髄彦は納得はしますが、抵抗し続けました。

そして世代交代し、饒速日命による最初の大和討伐が行われ、交代していきました。その饒速日命が最初の紀元前660年の時代で合うということです。

こうして神武天皇が統治されて崇神天皇がそれを引き継ぐという形になります。

 

天孫降臨というのは、このような船に乗って降臨したということです。

鹿児島神宮は山幸彦の神宮ですが、天降川風景を前回ご覧に入れましたが、あそこに船でやってきたということが分かります。

あの時代は世界中が船で横行していたのです。船がその時代の交通手段でありました。

これだけ大きいので、沢山の人や荷物も載せて往来でき、船が大事な時代でありました。

何故 田んぼが祀られるのか!

今、宮崎神宮の拝殿の前におります。非常に厳かで緊張します。

神武天皇は127歳で崩御されたことについて、長寿が考えられないとして、存在を否定する説が戦後出てきました。

これはいろいろな考え方があり、ひとつには四季の中で、春夏と秋冬で二年という説。

あるいは中国の暦を基本にするのではなく日本的な年代があったのでは、主観的な心の年代として長老を感じさせるような表現、年代の格付けのようなものがあったのではないだろうか。所説ある中で

讖緯説・辛酉革命説とは中国の王朝革命に関する理論があります。

神武天皇が橿原に宮を構えて即位した際の記述を見ますと、

『日本書紀』

辛酉年かのととり 春正月庚辰朔。天皇、橿原宮に於いて即帝位す。是歳を天皇元年すめらみことはじめのとしと為す

このように神武天皇は辛酉の年に即位したと記述されています。

日本書紀が中国の思想に影響を受けていることは明らかであることから、日本書紀の定める神武天皇即位紀元を定めるにあたっては讖緯説(しんいせつ)を採用しているということが分かります。

加えて神武天皇が日向国(宮崎県)から大和を目指して東征を始めたのは甲寅の年であり、これも中国の思想の縁起のいい年をとっているということも根拠のひとつです。

と記されています。

田中教授は、心の年代としてそれだけ長く生きられた人こそ長老であり、その分だけ偉いのであり、年代の格付けのようなもの、神になるということでもあります。

15代16代までは非常に長い年齢でお隠れになっておられます。

大まかに言えば、今の年代も丁度合いますと仰って居られます。

いずれ、明らかになることでしょう。

しかし、長寿があり得ないとして存在を否定する考え方は論理から外れていることでしょう。

 

神武天皇はこの宮崎神宮から東征されて大和に行きます。それこそが関東東北の大地から狭い大和という盆地の中心に行くという意味がどういうことか、

それは大和という処は、周りがすべて海に囲まれています。だから山の人であります。

何故、そのような狭い所に行くのでしょうか?

新しい大陸に行く意味は、警戒心という帰化人たちの考えであります。塩土老翁 (シオツチノオジ)たちはどうやら帰化人であったと考えられます。

これからは世界から人々がやってくる。場合によっては軍勢でやってくる。

この地は関東東北よりも広く、階段もある、などの忠告があったと考えられます。

東征と言いながらも小さな盆地に都を造るために行くという試みをされておりました。これは智慧だと思います。

それ以後、日本が安泰になるわけです。

やはり、周りが山で囲まれており城塞ですね

町をすべて壁で囲むという概念が新しい帰化人がもたらした考え方だろうと思われます。それに碁盤の目の都市を造るなどは西洋的概念ですね。

そういうものを持ち込んだ帰化人たちがいて、それが天皇たちに協力された。そしてそれがまた日本である、と考えますと田中教授は語っておられます。

宮崎神宮境内にある御神田です。 

  

「何故田んぼが祀られるのか」

ここで稲作を行っています。

九州は櫻島もあり、阿蘇山もある火山地帯です。時には爆発も起こり、火山灰などの影響も強く受けます。

すると縄文遺跡も9000年~6500年前くらいで突然消えてしまいます。

ここ宮崎神宮は正に櫻島の火山のためにみんなが移動して逃げていきます。

 

これまで高天原が九州にあったということが定説のようになっていましたが、やはり無理がありました。優れた技術によって米作りや絹づくりなどのさまざまな農耕がなされるためには、水が必要であり、この九州の地では無理であるということが分かります。

櫻島の火山灰などの被害で稲作に適さない土地柄ということ、高天原はやはり関東にあったということになります。

しかしこれが全国に稲作が盛んになるための過程であるとみることもできます。とのことでした。

次は神武東征について記していきましょう。

 


何故 霧島神宮が造られたのでしょう⁉

 

「なぜ霧島神宮が造られたのか」と言いますと

邇邇芸命が天孫降臨されて、この霧島神宮で降りられた、という神話を題材にして造られたからということです。

しかし、もともとは天照が、国津神に統治するために邇邇芸命がまず、高い所から降りるということで、ここにやってきたのです。

元来の歴史は鹿島から鹿児島へ海を渡ってきたことが考えられますが、神話に基づいて高い所に下りたと想定し、この霧島神宮は神話を重視して造られたと言えます。

この素晴らしい建築は、薩摩藩の島津久光公が江戸時代に造りました。 島津公がいかに豊かであったかということが分かります。

 

建築が新しいのは、高天原がまだ不確定で、九州の上の方にあるのではないかという想定があったからだろうと思います。しかし、鹿島から鹿児島へという天孫降臨の構想が現実的に見えてきたのです。

古い伝説を後になってこのように大きな神宮にしたことも日本の文化のあり方だと思います。

天孫降臨の神秘化がこの神宮にも特色として感じられ、それを見ることもまた面白いことです。と教授は語っておられます。

 

社殿について

現在の社殿は、第21代藩主島津吉貴公の寄進により1715年(聖徳5年)に建てられました。絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、登廊下、勅使殿、門守神社等は、山の静けさの中に美しく佇み。1989年(平成元年)、国の重要文化財に指定されました。

これは徳川時代の名建築と似ており、日光東照宮や様々な江戸の建築の粋を集めていると言っても好いと思います。

非常に装飾的であり、派手でもあります。

そして地元に神様が降りられたということを祈念するうえでも島津公が誇りを持っていたということがよく分かります。

参拝者も多く、新しい歴史的考察の上に立つと神話が観念化され、九州に高天原があると信じられたわけです。

しかし、歴史的にはそうではないこともあり、そういう神宮が建てられたことは非常に象徴的だと思います。われわれの新しい歴史というものは、今あるこのような神宮と、具体的な歴史を同様に説明していくことでもあり、霧島神宮が歴史的な意味があるということをお伝えしたく思います。とのことです。

 

 

ここは邇邇芸命がお住みになり、と同時にそれ以後三代神武天皇までの鹿児島におけるひとつの国が出来たと言えるということで、この霧島神宮が重要な役割を果たしたことが想定できます。

霧島神宮が邇邇芸命、鹿児島神宮が山幸彦と言えます、と。

さらに、この地には霧島連山があり、それを祭る神社でもあります。

霧島神宮は
鹿児島県霧島市霧島田口、宮崎県との県境近くにある。天孫降臨の神、邇邇芸命を祭る神社。邇邇芸命が天降った霊峰・高千穂峰を背景にして建つ。

邇邇芸命を主祭神とし、妻の木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)、

子の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、その妻、豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)、孫の鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあわせずのみこと)、孫の妻、玉依姫尊(たまよりひめのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)/神武天皇を祭っています。

 

霧島神宮の奥社

知る人ぞ知る隠れパワスポ「山神社」です。

祀られている神様は大山津見神(おおやまずみのおおかみ)です。
天孫降臨された邇邇芸命(ににぎのみこと)の奥さん木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のお父さんです。

日本の山に宿る山の神様として有名。

霧島の連邦が続き、山に対する祈り、お祭りごと山さえあれば、それが神道です。

これを見ると神道の原型がよく分かり、人々がここで祈っていたことも分かります。ここに神話が持ち込まれ、山の下に神宮が建てられたことが分かります。これこそ縄文の自然信仰の原型と思います。それが九州の鹿児島に見られることにも、実は縄文杉は種子島にありますが、そこが近いことも感じます。木、山、土、岩、太陽などの信仰をここで行っていたのだなぁと、田中教授は樹々に囲まれ自然と一体になって語っておられるお姿が印象的でした。

 

次は神武東征の出発地・宮崎神宮に行ってみましょう。お楽しみに


鹿児島神宮の屋根に現れる歴史の真実

   鹿児島神宮の菊の御紋

前回もお話ししましたが、皇室の御紋で大変尊いのですが、実を言うと人類最古の文明と言われている古代メソポタミアの『シュメール&エジプト&古代イスラエルの王家の紋章』は、『ご皇室の御紋と完全一致』の『花びら16枚の太陽のご紋』なのです。全部一緒の太陽のシンボルです。                                          日本の皇室がどういう由緒があるのか、日本を造って下さったのですから日本の総本家であります。その皇室のシンボルが人類最古の文明であり、王族のシュメールのシンボルでもあります。そういう凄い歴史を日本は戦後GHQによって消されてしまいました。

 

鹿児島神宮のご神殿の屋根

鹿児島神宮のご神殿の屋根にあるのは明らかに太陽神なのです。

それはなぜかと言いますと、高天原の中の太陽ということで雲が架かっています。それが鹿児島神宮では菊の御紋になっています。それはなぜかと言いますと、建物全体が江戸時代に再建されておりますので、日本が儒教を取り入れた時代の変遷を反映していると思われます。

 

 

 

本殿の屋根の千木は雷や太陽の光を表わしています

一番、頂の所に菊の御紋があります。

その下に雲があります。それは明らかに天照であり、太陽の印があります。菊の御紋ではなく太陽であることがわかります。

関東・東北勢がこの鹿児島にやってきて示したところも太陽であったのです。ここで応神天皇を祀って居られることで日本の歴史を感じさせられます。日本の複雑さというか、日本人の結集していく過程・物語がどこを歩いても感じられます。と田中教授は感慨深く語っておられます。

奉納木馬

昭和18年に造られたものです。

馬の由来は

馬という動物は元来日本には無かったのです。恐らく応神天皇の頃、大陸からもたらされたのです。上賀茂神社にも白い馬がいる。秦氏系の人々、外来の人たちがもたらしたと考えられます。ここは応神天皇も祀っているので、応神天皇も外来の人を受け入れたので、それが皆日本人となって同化してしまいます。その時馬を連れてきた人たちの馬がここにいるのです。この馬の祭りの盛大な様子を下記に記します。

初午祭・・・旧暦1月18日を過ぎた次の日曜日に行われる。

鹿児島県の三大行事の一つで、御神馬の鈴懸馬を先頭に多数の踊り連が続き人馬一体となり踊りながら参詣する。

日高見国から来た山幸彦(邇邇芸命の息子)が、関東に馬が来ていたということを示唆していると思います。ここ鹿児島が東と強く結びついていたということが分かります。

写真提供:鹿児島神宮

 

島津家の御紋

 

 

 

 

 

秦氏がもたらしたネストリウス派

 古代キリスト教の教派で、431年に異端認定され排斥されました。
 ペルシャ帝国を経て7世紀にはアジアに伝わり、中国では景教と呼ばれました。

島津藩も秦氏系と言われます。それが逆に薩摩藩の特色でもあります。西郷さんの活躍も長い伝統の中から生まれたと思います。と説明されております。
以上 田中教授の解説です。

次回は霧島神宮に行ってみましょう。

 

 

 

 

 


山幸彦が祀られている鹿児島神宮

 鹿児島神宮にやってきました。

写真:ウイキペディアより

大隅国一之宮。邇邇芸命の子であり、神武天皇の祖父、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)/山幸彦とその妻、豊珠比売命(とよたまひめのみこと)を主祭神とする。鹿児島県霧島市隼人町字内にあり、創建は遠く神代。また八幡大神・応神天皇をお祭りする正八幡宮としても栄えました。

現在の社殿は1756年(宝暦6年)、島津氏24代当主、薩摩藩第7代藩主の島津重年(しげとし)公により造営されました。

山幸彦は二代目で、ここにかなり長く居られました。

 

り針を無くして山幸彦が困っていたところ、塩土老翁(しおつちのおじ)が助けて、釣り針を探してくれます。
それを海幸彦に返して、弟の山幸彦が勝ってしまう。ここに象徴的な日本の神話の物語があります。
つまり、海からやってきた人たちが山に登る。これは後になって結局、日高見国が船でやってきて、この鹿児島に着き、そして倭(やまと)に行く・・
つまり倭というのは山幸彦。そういう過程をここでも見ることができるのです・・と、説明されます。

日本は海と関係が強い

この鹿児島神宮もそうですが、海に近いわけです。
日本は、海との関係が強いということを語っているのです。
この鹿児島神宮は、鹿島から鹿児島へという日高見国から上陸した人たちがここにいる。そしてここに地盤を造った人たち、三代目の神武天皇たちが東征をするという形になっています。

この鹿子島神宮で頂いた由緒書きを見ますと、面白いことに

「山幸彦」が「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)と言いますが、その本名が天津日高日子穂穂手見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)と古事記には記されています。つまり、日高と記されているのです。従って、これは顕かに日高見国から来たことを示しているだろうと思います。

従って私たちが考える日本と言うのは「大倭日高見国」でありました。この日高見国ということを誰も説明しなかったのですが、まさにこれが高天原と言い、そこが日高見国であったということが、これで理解できるわけです。と。

更に面白いことに

三代目までは170万年過ごした」という不思議なことが古事記に書かれています。結局、海神国(わだつみのくに)に行ったと記されていますから、なが~~い年月が経ったということの説明かと思いますが、これはちょっと非現実的な年代ですから、やはりこれは「この地に長く居た」ということを示していると思います。

さらにこれは邇邇芸命(ににぎのみこと)と饒速命(にぎはやのみこと)が兄弟であると記されていますので、饒速命が倭に最初に天孫降臨をしたのかもしれないということを示唆するわけです。

いずれにしても、この鹿児島神宮は山幸彦が来られたということで、私たちも、ここからある意味で神武天皇の祖父になるわけですが、それが日本を造った倭に行かれて東征されたことを、非常に個人的(田中師の母方の系統が隼に居られた)にも、感慨深いところがありますと仰っておられます。

神武天皇の系譜

  • 天照大御神
  • 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
  • 邇邇芸命(ににぎのみこと)
  • 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)/ 山幸彦 → 神武天皇の祖父
  • 鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあわせずのみこと)
  • 神武天皇

菊の御紋と神話の関係

菊は中国から来た花で、奈良時代から来たと考えられます。

皇室の御紋として今は定着していますが、当時としては相応しくなく、これは太陽ではないかと思われます。

太陽を表わすということは、日高見国の天照とも関係しているわけで、もともとここ鹿児島神宮は日高見国から来た人たちが定着した神宮です。

その印が太陽なのです。

実を言うとエジプトにも、シュメールやいろいろな所でこれとそっくりな御紋があります。それは皆、太陽なのです。

花弁が16枚ありますが、現実の菊の花びらは16枚もありません。太陽の菊の御紋という由来を示していると思います。鹿児島神宮の御神前にもこの御紋があります。

太陽ということを出そうとしない傾向

「大倭日高見国」という名前の日本が倭の方だけに限定し始めたというのが奈良時代以降だろうと思います。従って、日高見国と言うのを忘れようと、あまり太陽神が出てくると、天照、アマテルシー、お天道様が出てきて東を強調することになるのであろうと・・ところがこの鹿児島神宮にはちゃんと太陽的な表現が感じられるので注目すべき神宮と思います。と田中教授の見聞です・・・

 

      

 

次回は「鹿児島神宮の屋根に現れる歴史の真実」エジプト・シュメールとの比較で読む天孫降臨の足跡」です。お楽しみに!


天孫降臨の真実

    

「高天原から地上に降りてきた」という天孫降臨とは、八世紀の始めに、古事記や日本書紀を書いた人たちは、「日高見国」を「高天原」と呼んでいました。
「高天原」という名を付けたために、天孫降臨という言葉を使ってしまうことになったのです。

それは「鹿島から鹿児島へ」、つまり縄文時代は関東東北に沢山の人が住んでいた日高見国「鹿島」、そこの人たちが九州の「鹿児島」にやってきたのです。

そこで倭(やまと)を抑えるために、神武天皇が東征を行います。その時に一緒に来た人たちが隼人(はやと)なのです

隼(はやぶさ)とは鳥ですね。つまり、「鳥のように船で行く」という意味です。 当時は徒歩や馬よりもはるかに速い乗り物でした。しかも荷物や武器を持っていくこともできます。それが得意だったのが「隼」つまり「隼人」たちでした。     

しかもこの人たちは関東の人たちなのです。

古代、アフリカから来た人たちは船で来た人たちが多く、着いた場所が、太陽が昇る地であり、これこそが日高見国、今の高天原という地なのです。

しかしそこに着いた人たちは、西半分を統治することができなかったので、天孫降臨をして統治することになります。

この場合、神武天皇が、九州から東征して大和に行くという時でしたから、そこに着いていたのが隼人です。

また熊曾(くまそ)という人たちがおり、北方の熊ですから、一緒に付いてきた人たちを、九州の人たちが、隼人と区別して別称的に呼びました。

という訳で「隼人」は原住民ではなく、関東から九州に来た人たちであり、そして倭(やまと)へという道順をとっているのです。

天孫降臨の人たちは、「天降川」という川を船で九州の鹿児島に着いたという、正に天孫降臨の土地なのです。

この地は、日本を東征した人たちで、その中に残った人たちが隼人と熊襲ということになります。この記事は、田中英道師の研究を記しています。

今からちょうど1300年前の時代は、隼人と熊襲という九州に残った関東の人たちが少し取り残されたわけです。その人たちがある意味で反乱したということになります。しかしすぐに沈静してしまうのは、やはり同じ日本人だったからでしょう、と。

天降川 (あもりがわ) について

 

鹿児島県の中央を流れ
る二級河川。同県湧水町の国見岳に始まり、鹿児島湾(錦江湾)に注ぐ。

鹿島を立った邇邇芸命率いる天孫降臨一行は、海路を進み鹿児島湾に到着、天降川から鹿児島に入った。その後数代を経て宮崎に至る。

この川は鹿児島湾に向かい、桜島が見えます。

この天降川は現地の人は「あもりがわ」と呼んでいますが、田中教授は、本来は「あめふりがわ」と読むのが本当であると言います。何故ならば、「天(あま)」は「海」という意味でもあり、天孫降臨の「天」でもあります。天孫降臨がなぜここに関係があるかというと、鹿島から鹿児島へ海を辿りながら船でここにやってきた。恐らくそこに猿田毘古神(さるたびこのかみ)という神が導いたと言われますが、邇邇芸命(ににぎのみこと)という高天原の神と称している有能な政治家だったと思われます。それが船団を組んで、後に言われる多くの藤原氏、中臣氏、物部氏たちを全部連れて一気にここまでやってきた。 それが鳥のように非常に早く来たものですから、隼と言われた人たちなのです。 後に「鹿島から鹿島立ち」が習慣となるわけですが、関東から出発するという意味があるのです。その船団がこの鹿児島まで来たということなのです・・と。

さらに「鹿児島」という地名ですが、現地の人たちは、その地名の由来が分からないようです。

鹿児島とは、「鹿島の子」であるという意味です。               鹿島を立ち、鹿児島までやってくるということを土地の人も忘れてしまっている。しかし誰かが「鹿児島県」と名付けた時に、関東から鹿児島に船でやってきたことを知っていたに違いない。                         更に、河川が非常にゆったりとしており、多くの船の往来が、川の規模から見ても可能であることが分かると思います。

このように地名としても、歴史が残っていることは大事なことであり、ここに来た甲斐があるということです。

「あもりがわ」と読んでしまうと、それが分からなくなってしまい、歴史が消えてしまうことになります。田中教授の先祖が、この隼人に生まれ育った人であり、更に鹿児島神宮の宮司でもあるということから、歴史を感慨深く皆さんと共に楽しむことができましたとのご感想です。

従って、高天原の人たちがここにやってきたので、天降川(あめふりがわ)と呼ぶのが正しいのです。この意味がよく分からなかったので、「あもりがわ」と呼んでしまわれたのでしょう・・・と田中教授は語ります。

 

猿田毘古神(さるたびこのかみ)

邇邇芸命が高天原から地上に天降ろうと思し召すと、天之八俣(天と地の間にある方々への別れ道)に、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がありました。

天照大神と高木神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)に「おまえはかよわい女であるが、神と向かい合った時に、気後れしない神である。だから、お前が行って、『我が御子が天降ろうとする道に、そのようにいるのは誰か』と尋ねなさい」と命ぜられました。天宇受売神は、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、艶やかな踊りを踊った神です。

そこで天宇受売神がそのように尋ねると、『私は国つ神、名は猿田毘古の神です。ここにいる理由は、天つ神御子が天降りなさると聞き付けたので、先導させていただこうと思い、ここへ参上し、待っていました。』≪現代語 古事記(学研刊、竹田恒泰 著147頁より)≫

 

 

神武東征とは、神武天皇が日向国(現在の宮崎県)を出発し、大和(奈良)で朝廷を築くまでの物語です。

神武東征は、次の3つに大きく分けることができます。

.日向国(宮崎)~熊野村(和歌山)
.熊野村(和歌山)~阿陀(奈良)
.宇陀(奈良)~橿原(奈良)

神武東征で、神武天皇は、兄3人と別れがあり、助力を得て熊野・吉野の山間部を抜け、最後に奈良で豪族を倒しながら、都を開きます。

次回は「山幸彦と海幸彦との諍い」で有名な鹿児島神宮に行ってみましょう。

お楽しみに😊

 


大国主命が要求した大神殿の謎

出雲大社の本殿の前にやってきました。
この大神殿は日本のシンボルの一つとも言えます。

 

          上記画像をクリックすると、巨大の柱の模型が表示されます。

※出雲大社には、天之常立の神(あめのとこたちのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)・天之御仲主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・宇麻志阿斯可備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の別天神五柱と和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)が祀られています。

※現在の本殿は1744年(延享元年)に造営され、1952年(昭和27年)に国宝に指定されました。

大社造(たいしゃづくり)と呼ばれる日本最古の神社建築様式で高さは24メートルに及びます。

 

大国主神が鎮座する神座は本殿の南向きではなく、西向きに配置されています。多くの学者は九州の方を向いていると言いますが、 田中教授の新たな解釈では鹿島神宮と相呼応しており、鹿島神宮の拝殿は北向きですが、中の御神座は東を向いているということは両神宮の強い結びつきを感じさせられます・・・と

 

鹿島神宮はアマテラスが守られているところで武御雷が祀られています。その周辺には多くの高天原という地名が出てきます。               それは高天原が関東東北にあったいう証拠であると言っているわけですが、それと呼応して、出雲大社が西を代表して、相対応している線で結ぶことが出来るという面白い解釈も成り立ちます・・・と。

 

巨大な円と三つの柱が・・

※2000年(平成12年)の遷宮の際、古代の柱が発見され、
千家国造家(出雲大社の宮司家)に伝わる古代本殿の平面図「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」の通り、3本の大木を鉄輪で束ねて1本の柱とし、本殿の高さは現在の倍、48メートルに及ぶ可能性が示されました。

神殿の前には、巨大な円と三つの柱が束ねた形で図式化されております。

博物館に展示されておりますが、これは三本の大木を鉄輪で束ね1本にまとめ、神殿を造る柱にしたのです。神殿の前に三か所あります。これこそ、現実に巨大な神殿があったということを示しています。

これは2000年(平成12年)に出雲大社の発掘調査があり、1248年鎌倉時代(宇治2年)に遷宮された時の本殿の柱であるということが分かったのです。直径110センチ、つまり2メートル以上の直径の柱です。想像すると90メートル以上の大きな神殿であったということが分かります。

これは鎌倉時代のものですが、それ以前に造られたものはもっと巨大なものであったと想像します。それだけ大国主命の存在がいかに大きかったかということが分かります。

 

神在祭

10月の和風名月は神無月ですね。「全国の神様が出雲(島根県)に集まるため神様がいなくなる」という由来は有名です。

旧暦の10月10日~17日、全国の神々が出雲大社に集まります。
そのため旧暦の10月は神無月であり、ここ出雲では神在月となります。

神在祭の前夜、国譲りの伝承地。稲佐の浜で神々を迎える神迎神事が行われた後、
神々は大国主神が待つ出雲大社に向かい、世の様々な事柄を神議り(かむはかり)にかけて決められます。その時、神々が宿泊されるのが、本殿の東西にある十九社。いま映っているのは東十九社です。

国譲りを天照が言われた時も、ここで 西の方の士族たちが集まり「どうするか」を話し合ったにちがいないと想像されます。

国譲りが重要な議題であったと推測し、神在月であり、他の神社は神無月となったわけです。

それが今日まで残っていることが非常に面白いことですね。

 

出雲大社の境内から心御柱(しんのみはしら)が発掘される

2000年10月。島根県の出雲市の出雲大社の境内から平成12~13年に出土し、

鎌倉時代に建立されたとみられる本殿を支えた巨大柱の中心に位置した「心御柱」、これまでの歴史の定説を覆す、「考古学的大発見」がありました。直径1メートルを超える大木を3本も束ねた巨大な柱が出土されたのです。

心御柱は、出雲大社に高層神殿が存在した可能性を示す中心的な柱で「神が宿る」とされています。

「3本の巨木という決定的証拠の発見によって、かつて出雲地域には伝説の大神殿が存在していた」という言い伝えが、本当に事実であったことを、完全に裏付けられてしまったのです。

この言い伝えは記紀に「国譲り神話」として記されています。

それは「国譲り神話」の中に、出雲を治めていた大国主が、“国を譲れ”と迫った高天原勢力に、一つの条件を提示しました。

「国を譲る代わりに、頑丈な基礎と太い柱で、高天原に届くほど高く、千木をかざして建ててもらうならば、私は出雲の地の果てに隠れておりましょう。」    そう大国主がお願いして、造られたのが、地上48メートル、マンション16階の高さに相当する巨大な出雲神殿でした。

今回発見された巨木は、この出雲大神殿を支える柱の一部であったのです。

その証拠に、出雲大社に古くから残された「大神殿の設計図」と比べてみても・・

柱の大きさも一致。 「3本の木を1本に束ねる」という形も見事に一致。   これによって、高さ48mの大神殿」の柱であることは、ほぼ間違いないとされ・・

神話で出てくる伝説の神殿は現実に作られたものであった・・・と、そう考えざるを得ない、まさに歴史を覆す大発見となりました。

その他にも、出雲地域では、358本の銅剣、16本の銅矛、39個の銅鐸といった大量の祭祀道具が出土されるなど、遥か昔、出雲に「非常に大きな勢力」が存在していたと思わせる、決定的な証拠の数々が見つかっています・・・  

 

不思議なことにこれら銅鐸や銅剣には✖印が付けられています。

今までは、完全に「作り話」だと思われていた出雲の大神殿・・・

しかし、これらの発見によって、単なる作り話ではないのではないか・・?

神話と実際に起きた歴史との関連性について関心が集まり始めました。

田中教授の調査で解ったことは、出雲大社と鹿島神宮は共通の設計であるということ。
つまり、出雲大社は「高天原」の神殿に似せて建てられていたのです。武御雷の神が住む鹿島神宮があった場所が「高天原」であると考えれば、高天原式(鹿島神宮式)の建築方法で出雲大社を造った。鹿島神宮と出雲大社の形式が全く同じであり、「神座の向き」も共通しているということが理解できます。

神座の形と「国譲り神話」を結びつけることで田中教授は「鹿島神宮の周辺こそが高天原である」と断言しています。

∴ 高天原は”地上”のことであり、それは鹿島神宮を中心にした「関東」にあたる場所だった。

更に

「天孫降臨」とは高天原の神々が地上(九州)に舞い降りてくる・・・と常識では理解できない現実離れし
た話であるため、ただのフィクションとされてきましたが、関東から人々が船で海を渡って九州に移動したと考えれば、現実を帯びてきます。最初の方で記された御船祭の記事を再度ご覧になり、壮大な日本の歴史の真実を紐解いてみるのも日本人として冥利に尽きることになるでしょう。

 

次は「天孫降臨について」お楽しみに。


国譲りの舞台 出雲大社

出雲の神話は、本当に存在していた!?

出雲大社にやってきました。正式には「いずもおおやしろ」、通称「いずもたいしゃ」と言います。記紀(『古事記』と『日本書紀』)の神代においてはっきりと神殿造営が記されている唯一の神社です。

主祭神は七福神の大黒様で知られる大国主命(オオクニヌシノミコト)

大国主命は天照大神の弟にあたる、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子孫であり、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)によって始まった日本の国造りを、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)と共に完成させました。

完成の後は、「国譲り」により、国を天照大神に譲り、出雲大社に住み、その歴史は今日に至ります・・。

日本神話に登場する八頭八尾(やまたのおろち)の大蛇。高天原を追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲の国、斐伊川の上流で、八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)に悩まされ、国津神を救うため、八俣遠呂知と戦い退治します。

その時、尾から神々しい剣が現れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は天照大御神に献上します。今日まで伝わる三種の神器の一つで、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、天叢雲剣(あめのくらくものつるぎ)とも言います。

そして、一時追放されていた素戔嗚尊(すさのおのみこと)ですが、このことで天照大御神に認められます。

八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)を倒し、櫛名田比売(クシナダヒメ)を娶った素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、そのまま出雲に住みます。

素鵞社(そがのやしろ

素鵞の社は、出雲大社本殿の奥にある摂社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られています。

大国主命の最初の先祖と言っても好いと思います。素戔嗚が斐伊川でヤマタノオロチを退治した後、出雲が栄え、大国主命が後継者となります。

素戔嗚は天照の弟であり、異質の神様であると同時に、出雲は倭(やまと)の奥之院という立場を貫かれていることも日本の皇室の床しさも感じさせられますとの田中教授の感想です。

大国主命は縁結びの神でもあり、決して欲張ったりせず、また稲葉の白兎を助けたりして非常に人柄も好く、国を治めるにも立派な人格者ということです。

しかし、後になって、やはりこの出雲の国も高天原の国にしたいと天照が考え、国譲りを要請します。

この国譲りの神話も非常に重要で、いずれ稲佐の浜に行って、武御雷の神(タケミカズチノカミ)と建御名方神(タケミナカタノカミ)「大国主の御子神」との対決があります。

出雲の名所:稲佐の浜       

出雲大社とセットで行きたい神々の決闘の地

さらに、この戦いは鉄と銅の戦いでもあったということです。

つまり、関東の武御雷神(タケミカズチノカミ)は鉄、建御名方神(タケミナカタノカミ)は銅、鉄と銅の戦いとなると、戦わずして鉄が勝つわけですから、実際は戦わなかったのではないかとも考えられます。 鉄の文化圏と銅の文化圏として大きな違いがあったのではないかと推測します。 鉄が作られたのは高天原系の関東東北で、砂鉄が結構多かったようです。決して朝鮮から持ってきたのではないと。そういう意味で日高見国が優勢であったと考えられます。と田中教授の解説です。

戦いの場所の「稲佐の浜」。夕日がきれいな海岸の光景です。こういう場所があるということは実際に歴史的にも戦いの場所があったと思われます。名所としても是非来ていただきたい所です。と・・

この出雲大社と高天原は、天津神と国津神という地上と天上の争いというのが出てきます。田中教授によりますと、これは東国と西国の争いということで、この後、天孫降臨があり、その前触れとして高天原がいかにして西方と結びつくかという意味でも、出雲大社が大変重要なのですと言われます。

「出雲大社」の大社というのは神宮より少し格が落ちますが、鹿島神宮、香取神宮が高天原系の代表的な神宮であり、西方の出雲大社が代表的な神社になるわけです。

珠を授かる大国主命

大国主命(オオクニヌシノミコト)は国を治めることで、天照から珠(タマ)を授かります。

この珠は、魂という意味でもありますが、田中教授は大元は「太陽」であると言います。太陽こそが日本の伝統であり基本であると・・。

大国主命はその珠を与えられたために、国を統治することができたわけですが、

やはり、日本の基本は「玉」。 勾玉(まがたま)は、縄文・弥生時代から日本に伝わる装身具で、皇室の三種の神器にも八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があります。

これは太陽と月(三日月)で、このような玉は 1万年前から日本にはあり、国を統一するためにも重要な存在としてここでも垣間見られ、興味深く感じさせられますと仰っておられます

 

出雲大社の拝殿             

出雲大社には素晴らしい「しめ縄」がかけられています。

しめ縄は「縄文の縄」のことで、神様が降りた神聖な場所を示すものです。

出雲大社のしめ縄は、長さ13.6m、重さ5.2tという日本最大級の大きさとのこと。飾り方も一般的な神社とは異なるようです。

皆さんはお相撲取りのしめ縄を思い浮かべることでしょう。これは実を言うと同じなのです。

すべてを紐で周りを囲む(結ぶ)ことで、横綱も神様なのです。それに値しない横綱もいるかもしれませんが、あの強さが、この中に神様が居られるとみたのですね。

縄文時代からきた「結ぶ」ということは

高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)
『古事記』の天地開闢において、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に続いて最初に成る三柱の神(造化三神ともいいます)。

その三柱の神々から始まり、「結ぶ」ということが日本にとっていかに大事であったかが分かります。

なお結び方は、高天原とこの出雲とでは異なるようです。

大倭日高見国の存在については祝詞(のりと)の中にはっきりと記されています。
現在も使われる大祓詞(おおはらえのことば)という中臣氏以来の祝詞には日本は「大倭日高見国」(おおやまとひだかみこく)であると記されています。

日高見国が、天照がおられる東であり、出雲が西の中心であったのです。そういう歴史がここに来ると現実的に解ってきます。

さらに注目すると、ここには菊の御紋がありません。

それは高天原の神武天皇の系統ではない系統であること。これも非常に重要で、出雲大社と鹿島神宮、出雲大社と伊勢神宮の二つの系統が日本をずっと守ってきたということがよく分かります。天照の伊勢神宮も統一されるわけですが、大国主命の存在が歴史的に重要な存在であり、神々が現実の士族、人間であったということを強調したいわけです。それとまた倭に戻ると大国主が大物主命ということで三輪山の神でもあります。

大国主命と皇命(すめらのみこと)の系統が常に協力しているということが分かるのです。

天照と素戔嗚(スサノオ)の二人の兄弟(神)が日本を統治されるという形となり、それが邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨によって神武天皇が統一されるということに繋がっていきます。

大倭日高見国とはどういうことかという謎が解明すれば出雲大社の重要性がより理解することができるのですと田中教授は仰います。

ここへきて一番クライマックスと言ってもいい大神殿、これこそが日本のおおきなシンボルの一つと言えるでしょう。

次は大国主命が要求した大神殿の謎について記します。お楽しみに。

田中英道氏について

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                       中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                         日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。

 

 


東国三社を歴訪する(6)息栖神社と東国三社巡り

東国三社の最後の神社「息栖神社」にやってきました。

この息栖神社は鹿島神宮や香取神宮のようには知られておりません。

ではなぜこの神社が重要なのかと言いますと、「天の鳥船」という神が祀られております。「天」、「鳥船」の由来が示されております。

鹿島神宮が「タケミカズチノカミ」、香取神宮が「タケフツノカミ」、この二柱が日本のお天道様であり、この東の海から太陽が昇るという意味なのです。

この地にたくさんの神社があるということは、太陽を守るという意味があるということです。

日本の神というのは天照という女性であり、あまり強い神ではありません。それを、

両神社を守る剣豪二人が、国譲りの時もお出になられ、高天原を守るという役割を演じたのです。

この息栖神社の場所が天孫降臨の時に鹿島から鹿児島へという動きをする場所であり、息栖神社の別名「天の鳥船」は「鳥のように早い船」という意味でありました。

確かに歩くよりは遙かに早く、また沢山の武器や物資を持って行けます。

日本が海の国であるということを示しているのがこの関東の三社であるのです。

 

それでは、これから港に行き船が鳥のように飛んでいくという実感を味わってみましょう。

九州には隼人(はやと)という地名があります。

隼人・・・熊襲(くまそ)と同じく、古代の九州に居住した豪族。

隼人は火照命(ほでりのみこと、海幸彦)の子孫です。

それは正に、鳥のように早く飛んできたという意味で付けられています。

従ってこの地は「海に開いた関東」ということで重要な意味があるのです。

息栖神社の御神木

息栖神社は、応神天皇の時代に出来たと言われていますが、神社として成立したのは八世紀ごろで、この御神木はその時からあったろうと思われます。

ご覧になられて分かる通り、木のことを柱と読みます。

柱(はしら)とは神を数える時に使います。

一柱(ひとはしら)、二柱(ふたはしら)・・・十二柱(とおあまりふたはしら)と数えます。

日本人の神のイメージは、樹木を想定したのだろうと思います。御神木がこのようにしめ縄に捲かれているのは、これが神であるから・・自然信仰の形であるのです。これこそが日本の原型なのです。

このような神社を造るというのは、実は後からなのです。それは仏教がきてからなのです。

 

応神天皇の頃には秦氏が来ている

応神天皇十四年の春、百済を経由して中国よりも西方の弓月国から1万8000人もの渡来人が来日し、応神天皇は快く迎えています。

 

西の方から来る人達は、神殿を造るのが宗教だと思っていますから、その後は社殿が出来ていくわけです。それまでは、樹そのもの、太陽そのものを拝んでいればよかったのですが、彼らが来ることによって社殿を造るようになっていったのです。

しかし、それが記憶をしっかりと定着させるためには好かったことだろうと思います。

 

利根川あたりは殆ど縄文海進といって、縄文時代は海でありました。そこに東国三社があるわけですが、昔は伊勢参りのあとに必ずこの東国三社をまわるという習慣がありました。

それは伊勢神宮が、天照大御神を祭ってはいますが、こちらは、天照る神、つまりお天道様そのものを参拝するという、つまり太陽そのものを拝むわけです。

鹿島神宮で説明しましたが、そこには本殿がありませんでした。

太陽が昇る真っすぐの道に本堂がありました。

従って、江戸から来た人たちが、ここに船でやってきて、そして二つの神社をお参りする習わしになっておりました。

また、ここには井戸があります。その井戸から大事な水を飲むということも、自然信仰の一つとして大事な習わしであったのです。

要するに関東全体が海と共にありましたので、倭が山に囲まれた場所であったことと対照的です。それが日本を造る大倭日高見国という二つの国があったといういことを証明しているのです。

伊勢参りの後、東北三社巡り、あるいは三社巡り詣でといって、江戸参りの人たちが必ずここの大きな鳥居に着いたのです。 伊勢参りと東国という繋がりを認識する・・。それは江戸までは神宮が三つありました。そのあとに、この神社に来るということが大事でありました。

井戸にまで鳥居がついています。つまり井戸も神でありました。それが水という神聖なものを祀る意味があるわけです。従って人々は自然そのものを敬愛していたということがわかります。

田中教授の説明でした。

 

次回は、国譲りの出雲大社に行ってみましょう。お楽しみに。


東国三社を歴訪する(5)香取神宮

鹿島神宮の祭神が「武御雷神」(タケミカズチノカミ)でしたね。

次は建布都神(タケフツノカミ){経津主神(フツヌシノカミ)のこと}というもう一人の剣豪が祭神である香取神宮にやってきました。

{㊟香取神宮の祭神は、フツヌシ大神として広く知られていますが、『日本書紀』の一書=斎主神(いわいぬし神)という説もあります}

さて

神宮の格式が、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮と三つあるなかで、何故二つの大きな神宮が関東の、この場所にあるのでしょうか。                                                                                                              

写真提供:香取神宮 / 鹿島神宮

それは、伊勢神宮が天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祭るということで、この三つの大神宮というのは、日本が天照や天御中主(アメノミナカヌシ)など、神話で貫かれるひとつの太陽神、あるいは日本(ひのもと)である関東という場所が、日が昇る所であり、ここに、古の日本の人々の、心の在処を彷彿とさせるからにほかなりませんと、田中英道氏は語ります。

また、海の近い香取という名称ですが、今は「香取」という不思議な漢字が作られていますが、「鹿鳥」のような読み方もできるわけです。            日本は農耕民族と思っていますが、実はそうではなく、農耕も含め、狩猟、漁猟など様々な職種で仕事をしていたと言えます。                              関東東北は自然が豊かで、そして同時に太陽に近い場所ということで、世界から日本にやってきた人々は、太陽を求めに、あるいは太陽が昇るところをみたいと・・日高見国という名称はそのような意味があるのです。

香取神宮は一番海に近く、また鳥という意味は、船が鳥のように飛んでいくという、船に対する強い交通機関が、今日でいう飛行機や新幹線のような交流の場として、日本でも重要であったということが分かります。

更に、関東地方では大河の川が江戸時代に整ってきましたが、入り組んでいましたので、船が湾や運河などで結ばれていました。ですから人々は海に近い所、あるいは海の中で、生活をしていたことがわかります。

鹿島・香取はそれに結びついて日高見国あるいは高天原という倭国(やまとこく)以前にあった日高見国の先祖たちを高天原と言って、その中心地に鹿島神宮と香取神宮があるということです。

そういう意味で、この二つの神宮はそれぞれの役割があるように思います。

そのひとつは、香取神宮には物部氏(もののべし)になる、この中心的役割を演じてきた神宮そのものでありました。そして太陽を中心に祀るという形をとっているのです。

~「香取」という地名についての別の解釈~

『日本書記』に、「此の神(=祝い主)、今、東国の楫取(かじとり)の地に在り」と記されています。これを根拠に、カトリは舟の楫取の意である、という説が有力です。当初、香取神宮を奉斎していた有力氏族は、強力な水軍を保有して香取の海を制圧していました。この海の周辺には、多くの水夫(=楫取)たちが居住していたようです。という説もあります。

物部氏(もののべし)

神大から氏族で、鉄器や兵器の製造など軍事を司っていました。始祖は、神武天皇に先立って天降り、葦原中国(西日本)を治めていた饒速日の命(ニギハヤノミコト)。蘇我馬子らと仏教の導入を巡って争った物部守屋(?-587、画)が有名です。

中臣氏(なかおみし)

中臣氏の祖先は天孫降臨で邇邇芸命(ニニギノミコト)に伴って降った天児屋命(アメノコヤネノミコト)。氏神は鹿島神宮(茨木県鹿嶋市)の武御雷神(タケミカズチノカミ)。

このことから、中臣氏は東国を中心に栄えた縄文の出自であることがわかります。

中臣鎌足(614-669)は、大化の改新の中心人物として知られ、鎌足以後は藤原氏を名乗り大いに繁栄しました。

両神宮の関係は、一時論争にもなりましたが、香取神宮の方は、武御雷神が国譲りで中心人物になるので、建布都神(タケフツノカミ)はそれを助ける役割と見られています。

二つの神社で、どちらが偉いかという論争ではなく、役割があったということです。ひとつは祈りであり、ひとつはそれを支える様々な物(物部氏の物)、つまり二つが一つとなって高天原を支えていた。あるいは日高見国に居られた士族たちが後になって、後代倭国に皆移り、日本を新しい倭国として作っていった。これがまた大倭日高見国(オオヤマトヒダカミコク)という重要な二つの神だと言えるのです。

千葉県提供: 香取神宮 本殿

香取神宮の建物は、鹿島神宮とは対照的です。これは1700年ごろ江戸時代に再建されたということで、江戸時代(中期)は加羅風が流行って神社そのものも赤く装飾的になっています。                                               江戸の初期に造られた日光の東照宮のように建築が非常に凝っています。これがかつての日高見国の中心的な神社であり、それを江戸時代になって復活しました。 つまり江戸は関東の中心地が首都になるわけで、徳川政府は鹿島・香取を非常に重視したわけです。ここにも勅使がこられて天皇家もここを重視されておられたということです。                                                  明治以降も海の防衛ということで、二つの神社が大きな役割を演じ、戦艦鹿嶋・戦艦香取という海軍にとっても重要な役割を演じたわけです。従って、この地が海と通じているということが非常に重要なのです。

神話も現代に続く海の神として、非常に重要な域を締めているのです。こういう意味で皆さんも見ていただきたいと思います。以上田中英道教授の解説を記させていただきました。

香取神宮 楼門

1700年(元禄13年)に徳川幕府によって造営されました。三間一戸の純和様建築。丹塗りが施されています。屋根は入母屋造銅板銅板葺(当初はとち葺)。南側、楼上の額は東郷平八郎の筆によるもの.

香取神宮の楼門は、元禄文化の時代の建築を現し、また当時の装飾的な唐風の建築をも現わしています。

また、江戸時代に、鹿島・香取の復活の意味があり、長い間、京都や関西の文化が続いていましたが、江戸時代になって、やはり東の文化を再興しようという、これが水戸の国学にも表れています。要するに関東、東国の倭省あるいは、京都・奈良が日本の古い時代の文化より更に古い文化があったということを少し気付き始めたのです。

田中英道教授の書籍「東京の歴史」にも記してありますが、江戸というものが、更に古い日高見国という国があり、そこに太陽を中心とした祭祀国家があるのだろうということを予想したわけです。

それが今の縄文文化と重なり合って、見ごとに一つの文化の長い歴史があったということが分かってきたのです。そしてそのことが、江戸が首都になり、国府文化が水戸に花が咲き、水戸光圀公がそれを奨励されたわけです。それこそが日本の東国の日高見国といったかつての高天原の強いイメージの復活というか、縄文弥生という言葉は江戸時代には使われておりませんが、しかしそういう時代があったという記憶が、この神宮にも結び付いていると田中教授は見ています。

それは単なる7,8世紀以降の大和時代は、確かに素晴らしい文化を生み出したわけですが、更に奥の、さらに古い時代・・ちょうど元禄文化の頃に芭蕉という俳人が1690年代に「奥の細道」を書かれた。これこそが江戸と東北全体を包む俳諧の見事な文章であったわけです。そこでこの「奥」というのは何であったか? いろいろ言われますが、ある意味では時代の「奥」、つまり縄文・弥生の時代の奥、東国を感じさせられるわけです。これはまたひとつの解釈ですが、そういうことを思わせるこの香取神宮なのです。と、語っておられます。

更に、楼門の中にある見事な狛犬ですが、これは獅子・・ライオンです。決して日本の動物ではありません。                        ライオンのモチーフが使われたのはアフリカ、中東の奥の国々で獅子が描かれるのです。それが遠くの日本までやってきた。        それをもたらした人々は中東の人に違いないのですが、中国と中東、古代ローマまでを結ぶ、長い道のりのシルクロード、その間にはペルシャや様々な中東の大国があり、そこで大建築に使われる一番の動物は獅子でありました。それが日本までやってきたというわけです。

 

従って日本は孤立した東洋の国ではなく、正に中東、西欧から来た人たちが、この日本で定着したと言えます。その中に勿論秦氏、ユダヤ人たちもいました。この香取神社は古くからあり、江戸に入ってまた見事に再建され、素晴らしい建築が造られているわけですが、この獅子だけは古い木造です。しかし見事な彫で遺されているのです。

 

私たちは、日本という国の世界性を、寺院や仏閣の中で観ることができるので、そういう歴史的な眼が、文化をより注目する視点となっているわけで、単なる江戸時代に造られた建築と見ないで、歴史をあるいは空間を、世界を観るという・・建布都神(タケフツノカミ)も実を言うと剣の神でもあるし、同時に物部氏という有力な日本を形成する貴族たちが、いかに日本に貢献したか、その中にこのような古く海外のものまでもたらしていたということも注目すべきであろうと思います。

いずれにしても、東京に近い場所に、これだけ立派な神社があり、その歴史を語っているということを、我々はもう一度見直す必要があるだろうと思います。と田中教授は語っておられました。

香取神宮の建築、東照宮と重なる魅力

      画像:千葉県

香取神宮 拝殿・本殿

拝殿は1940年(昭和15年)、国費により造営された。黒の漆塗りを基調とし、極採食を取り入れている。本殿は1700年(元禄13年)、徳川幕府の手により造営された。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、屋根は桧皮葺(もとは柿葺)。

香取神宮は江戸時代に復興した見事な建築を観ることができます。

徳川家康を祭る日光東照宮の建築の流れを汲んでいますが、更にご覧になって判ると思います。

均整の取れた見事なプロポーション、そして黒と金の様々な装飾を入れ、江戸の代表的な名建築となっていると言えます。これは建布都神(タケフツノカミ)、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の忠実な護りてとしての関東の二大神宮の重要性をより宝占めていると言ってもいいと思います。

香取神宮の重要性は、関東だけではなく、茨木は今、残念ながら文化圏としてあまり宣伝されていませんが、江戸時代に建てられたこの神社が古い時代の東国からの推移を現してきた日本書紀の時代からずっと続く関東という日高見国の記憶から、ここで開花していくと言ってもいい、もう一つの新しい歴史を我々は見直すべきと思います。と・・。

香取神宮の要石

鹿島神宮の要石がナマズの頭を、そして香取神宮の要石は尾を、それぞれ押さえつけているのだそうです。

地震や災害に対するこの荒唐無稽な考え方は、今日でも予知さえ出来ず、自然の動きに従うしかない状況は同じ、祈りと信仰が心を救うということで、バカにすることはできないと思います。

祖先の人たちが、地震で苦労していたことがよく分かります。

今日では科学と称して自然を研究していますが、これを見るとこれが発祥と感じます。

またこの要石は関東だけではなく日本全体を治める意味もあったと思われます。

香取神宮 奥宮

奥宮は広い樹蒼の中に建てられています。神様はこの高台から国を見渡しておられたと言います。

奥宮が存在する意味について田中教授はこのように言っておられます。

奥宮とは、奥で何かを成らしめているという存在。つまり自然が神であり、その自然を拝む場所として神社が造られた。そして更にその奥に奥宮として建てられた。従って神社は山の中にあるのが普通です。やはり、神社というのは自然信仰を基にしており、そこには神がお隠れになっている。我々は遠くから拝むのがまた自然信仰なのです。この香取神宮の奥宮はなかなか素晴らしい奥宮です。との感想を述べておられました。

次回は鹿島立ちの出発点「息栖神社」をご紹介します。お楽しみに。

文中の紹介本

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。