月別アーカイブ: 2017年5月

平和な家庭-2


平和な家庭-2

芦野 宏

米不足から考え出された大根めしやすいとん。お腹をすかせながらも勤労奉仕の毎日を、天皇陛下の命令として、だれ一人疑う者もないかのごとく黙々と働いていた。
ところで、ベル先生は私が上級になるころから敵性人物として監視されるようになり、沼津市の精華学園長・秋鹿敏雄氏の庇護を受けていた。今は先生の大好きだった富士山のよく見える沼津の丘に眠っておられる。後年、偶
然かもしれないが、日本・ニュージーランド・フレンドシップ協会からオークランドでの親善コンサート出演の招待を受けたとき、私は沼津のベル先生の墓にお参りしてから旅立った。
そのコンサートは平成元年(一九八九)六月五日の夜、オークランドで最高級のリージエント・ホテル大宴会場で行われた。プログラムの世界歌めぐりは、斎藤英美氏がエレクトーン一つで琴の音による六段の調べ、南米パラグアイのインディアンハープ風、フランスのシャンソ
ンをアコルデオンの音色で、そしてスコットランド民謡を混声合唱のように、それぞれを多彩に華麗に奏でて聴衆を圧倒した。それにヴォーカルはソプラノの木村仁さんがカンツォーネと日本の歌を、私がスペインの歌とフランスの歌を歌った。最後はマオリの歌「ポカレカレア
ナ」を会場全体が一つになって大合唱となり、いやが上にも盛り上がり、翌日の新聞にはその盛況ぶりが報じられた。私はこんなかたちで日本・ニュージーランド親善に尽くすことができ、しきりにベル先生のことを思い出していた。


 平和な家庭-1


平和な家庭-1

芦野 宏

転校して新しい小学校に入ってからは、先に述べたように、私は学芸会で必ず歌わせられて評判になり、NHKやレコード会社から学校の音楽担任を通して出演依頼があった。しかしいずれも、父の反対で実現しなかった。私の音楽に対する憧れはますますつのり、ピアノの音は
いつでも自分の頭の中で弾きながら歌に合わせて鳴り響いていた。
平和で楽しい日々が続き、夏休みには兄弟姉妹だけで千葉県大貫町の海の家で生活していた。
長男と長女が団長となって弟妹を引率し、子供たち七人はそれぞれ自分自身の行動に責任をもたされた。ときどき東京の菓子を持って両親が見まわりに来るときがなによりの楽しみだった。
この計らいは兄弟姉妹を団結させ、社会勉強をさせるという、目に見えないたくさんの恩恵を与えてくれた。八月の末に東京へ帰ると新学期が待っている。兄や姉が勉強するから弟妹たちもそれをまねて、よく勉強したものである。
今でもわれわれは年に二回、五月の母の命日と十一月の父の命日を中心に、必ず集まって昔話に花を咲かせる。
中学校は三人の兄と同じ新宿・成城中学校で、家からは徒歩通学で二〇分くらいであった。
私のいちばん得意な学科は英語で、ニュージーランドのクライストチャーチから来日していたエリック・S・ベル先生が英語の先生であった。これは兄たちが家に帰ってから勉強している英語を聞きながら育ったせいだろうと思うが、いつも満点であった。一度だけ英作文で九九点をとり汚点がついたと悔しがったほど、英語にだけは熱中した。当然のことながら、ベル先生は特別に目をかけて指導してくださったのだろうと思っている。
しかし、当時はしだいに戦時色が濃くなってきたころだったから、中学校は軍人養成所みたいで、軍事教練や勤労奉仕のようなことばかりさせられていた。そのうちに日中戦争が勃発。
音楽や絵の世界は無視されて、一億火の玉になって無駄な戦争に遇進する時代に入った。「警戒警報発令」。そんな叫び声のなかで室内灯には黒いカバーをかぶせ、非常用リュックを背負って、いつ来るかわからない敵機の襲来におびえていた。窓ガラスには縦横十文字に紙を貼り、今にして思えばなんの役にも立たない竹槍訓練やバケツリレーをさせられる。人間はその渦中に置かれると、目前のものしかわからなくなるものである。それにしても、あのころの食生活はひどいものであった。


デビューまでー3

デビューまでー3

芦野 宏

小学校二年生まで、桜の木のある懐かしい薬王寺町の家にいたが、三年生からは市ヶ谷駅に近い左内坂上に引っ越した。ここで子供たちは
一人ずつの個室を与えられ、独立心をもつように教育された。
高台にあったから空気もよく、夏の夜は両国の花火が部屋の中からよく見えた。
ただ広いだけでとりとめのない前の家と違って、今度の家は二階に子供たちの個室がずらりと並んでおり、二階にも洗面所があって、なかなか便利な間取りだった。一階は両親の部屋と 一家団欒(だんらん)の間で、当時はテレビもない時代だったのに、退屈をしない楽しい思い出ばかりである。
玄関と内玄関の間にこぢんまりした応接間があったが、そこには必ずあるべきものがなかった。
いずれ運んでくるだろうと思っていたのに、ついにピアノは来なかったのである。姉たち三人はピアノに未練はなかったが、母と私だけは反対した。しかし結局、父の命令に従うことになった。
父は私がピアノに熱中して勉強しなくなることを恐れていたのだという。
「埴生の宿」
埴生の宿も わが宿
玉の装い うらやまじ
のどかなりや 春の空
花はあるじ 鳥は友
おお わがやどよ
たのしとも たのもしや
詞 里見 義
曲 R・ビショップ

ピアノのない家に住んでみると、母がよく歌ってくれた歌を思い出して、一人で歌ってみる
ことが多かった。「埴生の宿」という意味がよくわからないまま、私はこの歌ばかりが心のど
のど
こかに生き続けている。母はちょっと咽喉を締めた昔風の発声で、ピアノをたたきながら、よ
くこの歌を歌ってくれた。ヴァイオリンを習っていたから、歌のほうは専門に勉強したわけで
はないと思うが、このほかに母の歌で覚えているのは「庭の千草」と怪しげな発音で歌う英国
の歌であった。音楽が好きな人であったと同時に、ハイカラな人であったにちがいない。
むなだか
セピア色になった古い娘時代の写真を見ると、はかまを胸高にはいてヴァイオリン片手に振
られているものがあり、当時流行の編み上げ靴をはいている。結婚してからしばらくは、先に
もふれたように、東京音楽学校のお茶の水分教場に通っていたが、子供ができてからはやめた
と開いている。

 


デビューまでー2

デビューまでー2

芦野 宏

父・芦野太蔵は、明治十九年(一八八六) 山形児村山市でひろく呉服商を営む、芦野民之助の一人息子として生まれた。
しかし、わずか九歳で両親を失った父は、後見人によって育てられながら、相続した山林や財産の大半を失い、孤独な青春を送っていた。母・梅は岐阜県出身の裁判官であった蒲生俊孝の次女として茨城児水戸市で生まれたが、たまたま山形地方裁判所の判事として赴任した祖父 (俊孝) について山形へ来たとき父と出会った。
当時、黒田清輝の弟子の一人として東京美術学校(のちに東京音楽学校と統合して東京芸術大学)の油絵科に籍を置く母の兄・蒲生俊武は、父・芦野太蔵と友人であったことから交際が始まり、二人は恋に落ちた。東京へ出てきた二人は、お茶の水近くに居を構えて、母は千代田区の錦華小学校(平成五年、近隣二校と合併して、お茶の水小学校と改称)で児童を教え、父は明治大学に通っていた。
音楽の好きな母は、当時お茶の水にあった東京音楽学校の分教場でヴァイオリンの授業も受け、はかま姿に編み上げ靴をはき、自転車に乗って通学したほど進んだ女性であった。
それにひきかえ、父は頑固一徹の融通性のない男で、まったくの音痴であった。しかしそれだけに学業に専念したせいか、卒業のときは最優秀で金時計をもらっている。