月別アーカイブ: 2017年7月

インフレのなかで-2

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-2

天井はあっても窓のない貨車は、暑さと息苦しさで失神しそうになったが、夜行列車だったから比較的すいている。
さらに銚子まで乗り継ぐとちょうど昼ごろになる。
私はすすだらけの汚れた顔で大里家の裏口に立った。
顔馴染みのお手伝いさんが気をきかせて、さっそく風呂をわかして入れてくれた。
座敷に通されて刺身と味噌汁で白いごはんを腹いっぱい食べさせてもらい、とても嬉しかった。
さらに嬉しかったのは、大里庄治郎氏が長靴を全部買い取ってくれたうえ、学資の足しにしなさいと、金一封をくださったことだ。ばくは胴巻きの中に、持ったこともない大金をしまい込んで厚く礼を述べ、帰ろうとすると、「どうだ、銚子の芋飴を持って行くなら手配しょう」と言ってくれたので、私は二つ返事でお願いした。
片道だけの商売でなく、往復で商売ができるからだ。
帰りの列車は来るときより混んでいてたいへんだった。
窓から乗り込むこともできたが、私は比較的すいている貨物列車を選んだ。
帰りの貨車は動物を運んだものらしく、尿やふんの臭いが充満していた。だから空いていたのかもしれない。
電灯もなにもない真っ暗な箱の中で、それでも私は自分の座る場所ぐらいのスペースを見つけ、芋飴のいっばい入った大きなリユツクサックによりかかってウトウ卜していた。
横浜あたりで列車がばかに長く停まっていると思ったら、だれかが手入れが始まったと知らせてくれた。
大きな荷物を持っている者は、みな調べられるのだ。とくに闇米の運搬が、この夜行列車ではいちばん多いからである。
私はドキッとして自分の大きなリュックを見た。
これは調べられると思ったので、暗闇の中でリュックの中から長さが半メートルほどの大きさの飴を一本ずつ抜き取り、自分のズボンに入れた。ダブダブの兵隊ズボンはゲートルを巻かなければ足元まで使える。
両足に一〇本ぐらい入れて腰の回りにも入れた。
貨車の壁ぎわに立って二、三本しか入れていないペチャンコのリュックを出して見せた。

 


インフレのなかで-1

幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-1

戦争中に亡くなった父は、私の学費として二〇〇〇円残してくれたそうだが、封鎖預金にされていた。
そして戦後のひどいインフレで経済的には窮迫状態であり、たちまちわれわれの日常生活を脅かしはじめた。
義姉(咲子)は千葉の銚子で何代も続いた商家の長女で、兄とは見合い結婚である。
実家の父親・大里庄治郎は婿養子であったが、新たに事業をおこし、電鉄、運送、ホテルと次々に成功させて、千葉県の名士となっていた。その娘である義姉は父親似で、戦後のインフレを乗り切るすべを心得ているような、才覚のある女性であった。
当時、神戸元町のガード下は有名な闇市で、金さえ出せばなんでも手に入るところであった。
神戸にはゴム長靴を作る工場があり、商才にたけた義姉は神戸の長靴を銚子の魚市場に持っていって商売してみないかと、私にすすめた。昔の私なら、やれなかったかもしれない。しかし、10ケ月の兵役で泥まみれの生活をさせられてから、私はなんでもできる人間になっていた。
復員のとき着て帰ったダブダブの兵服に大きなリュックを背負い、貨物列車に乗って長靴を運んだ。
東海道線は京都を過ぎると長いトンネルがあり、息ができないくらい煙が入ってくる。


歌手「岬道夫-3

歌手「岬道夫-3

芦野 宏

信州の空は美しく、山も木立も生き生きとし、川の水は清例だった。
学校では叔父の一番弟子である関助教授が特別に目をかけてくださり、ありがたかった。                  しかし、私の中に住みついている一匹の虫「音楽好き」は、どうしても退治できるものではなかった。
心の中にはいつもピアノが住んでいて、想像で音を探したり弾いたりしていた。
また、このころは、ピアノをたたくと音の出ない夢をよく見た。
庭の真ん中の草むらの中にピアノがあって、雨ざらしになっている。
あわてて鍵盤をたたくとまったく音が出ない。
そんな夢を何度見たことだろう。
夏休みがきて、私は母のところへ帰ろうと思ったが、母はもう山形にはいなかった。
神戸に住んでいる長兄のもとに移っていたからである。
ひどいインフレのなかで、働かないで生きてゆくことはとても難しい時代だったから、仕方ないとは思ったが、私は母の転居はなんとなく気が進まなかった。
父が亡くなったあの部屋に、母が一人住まうわけだが、まったく馴染みのない土地に移りたくない母の気持ちがよくわかっていたからでもある。
しかし、兄の気持ちもよくわかっていた。
父がわざわざ私を連れ神戸まで釆て長男の家で他界したということが妙に因縁めいてけて、まだ未成年であった私と母のこれからを兄に頼んだぞというふうに受け取っていたからである。
兄夫婦は洋館に住んでいたが、兄は母を日本館に迎えて、生活を保障したのだ。
学校の夏休みは長かったが、私は懐かしい東京は素通りして母のいる神戸の家で過ごすことにした。
母はご隠居様扱いぎれるのをとても嫌うほど、たいへん元気であった。
神戸の家は戦火にあわなかったから外観は昔のままだったが、内情は火の車であった。
戦後の食糧難は兄の給料では賄いきれるものではなかった。
育ち盛りの二人の子供(玲子、威彦)、母の世話、それに広い屋敷も雑草が茂っていた。


歌手「岬道夫-2


歌手「岬道夫-2

・ところで、ステージに立って聴衆の前で歌ったのは、小学校の・学芸会以来の出来事だった。
人気が出てきて大衆に支持される∴とは嬉しかったが、映画館のアトラクションで歌ったことが知れると、父は亡くなっていても、親戚一同が黙っていない。なにしろ声野家も簡生家も誇上田蚕糸専門学校「学園祭」でフォスターなどを歌う(柑46.9.2)
り高き一族なのだ。娘の縁談に差し障りがあると言いだす人も出てくる始末だった。母は、私に対してただ一人の理解者で、上野の音楽学校へ入学することをすすめた。そんなに好きならぜひ勉強して学校に入りなさいと言ってくれたのだ。卒業したら外国に留学して、将来は母校の教授として残るつもりになれば、だれも非難はしないだろうからと言ってくれた。
私はちょうど潮時だと思って、一か月ほどで映画館の仕事をやめた。
四月から蚕糸専門学校で学ぶことを理由にとにかくもう一度上田に戻ることにした。
父は 「やあ、おめでとう。無事で帰ってきてよかった。君は学校のホープだから、敢張ってやってくれ」と手放しの喜びようであった。


歌手「岬道夫」-1


2 青春くもりのち晴れ

焼け跡に立って-2

世の中は一変して、東京にGHQ(連合国軍最高司令部)が置かれ、地方都市にもジープを走らせる進駐軍の姿がちらほら見えはじめ、ラジオや巷にジャズや流行歌が復興してきた。
私上田に帰るとしても四月の新学期からだと思い、約半年の聞ここで生活することにした。
初めて過ごした山形の冬は長くて、鈴川は道もわからぬほどの雪に埋もれた。
年が明けてから、新聞広告で楽団員募集、仕事は映画館のアトラクションという記事が目にとまり、どうせ暇だから応募してみようと思った。
こちらはまったくの新人、それが順番を待って、一曲歌ってみたら合格してしまった。
その場で主催者から要請され、私は無理やり審査員の席に座らされていた。
歌手「岬道夫」-1

山形でいちばんといわれる映画館・霞城館で、さっそく私は歌うことになった。伴奏はギターの工藤源一さん、ヴァイオリンの木村晃治さん、アコーディオンの結城貞一さん、それにドラムとピアノが入ってクインテットの編成だったが、名前はフリーアンサンブルと名づけられた。
私は「コロラドの月」「谷間の灯」などを英語で歌い、日本の歌は「波浮の港」などを歌った。
応募してきた若い女性歌手も歌ったが、私の歌には進駐軍の兵隊がヤンヤの喝采を送った。
英語の発音は成城中学時代エリック・ベル先生から直伝のものだし、挨拶や歌の解説も得意の英語でやったから、大受けに受けた。出演料は安かったが、私のストレスは一気に解消して人生がバラ色に輝いた。
また戦没道家族慰安会では、私の歌に山形随一の人気芸者・金太郎が賛助出演で「波浮の港」に創作舞踊をつけて踊ったこともあった。
こんなことになろうとはうすうす予感していたので、私は自分で流行歌手らしい「岬道夫」という名をつけて世間を欺いた。
ところが、わずか三か月ほどで、この仕事をやめなければならないことになった。
偽名を使っていたにもかかわらず、昔わが家で働いていた人が、声野さんのバッチ子(末っ子)が映画館で歌っていると親戚にふれ回ったからである。
ほんとうは生まれも育ちも東京の私だが、父の出生地、母の疎開先という緑で山形児出身ということになっている。
(注)芦野宏はのちに喜劇俳優・伴淳三郎の跡を継いで、芸能人山形県人会の二代目会長を務める。伴淳さんは「あゆみの箱」を創設し、のちに森繁久弥会長にバトンタッチされた。芦野は理事就任と、チャリティ活動により二十周年表彰を受けた(昭和五十七年)。