月別アーカイブ: 2017年8月

上野をめざす

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

上野をめざす

上田市公会堂で独唱会を聴いてから、胸の中でなにかが激しく変化していくような気がした。
もう私の決心はついた。
中山先生に私が声楽科を志望しでいることを桑原さんから話してもらうと、先生は意外と簡単に教えてくださることを約束してくれた。しかし、一年くらいの受験勉強では無理だから、できるだけ早く上京するようにとのご忠告もいただいた。
上田にいても、足が地につかない毎日だった。ここにいたら受験勉強ができないからである。
十一月二十三日、秋の大運動会が行われ、私は学生代表で実行委員にさせられた。一年下級生の上野君は音楽大好き人間で、彼のお姉さんは「からたち合唱団」のメンバーであり、ピアノも弾ける人だった。それで彼にお願いして、お姉さんにピアノを受け持ってもらい、私が作詞作曲した「秋空晴れて」という曲を開会式典のあとで歌うことにした。
′だれにも言わず密かに決心していたこと、それはこの歌を思いきり大声で歌い、これを最後に学校と別れることだった。
運動会は盛大だった。好天に恵まれ、学生たち有志によってこの歌が歌われた。
「常田(ときた)の丘に 秋空晴れて いま若者よ とび立て自由の大空へ」
大して良い歌ではなかったが、これでお別れだと思ったから声の限りに歌った。
翌日、ひっそりと私は上田を去った。退学届は封筒のまま教務課に出してきた。


 中山悌-との出会い

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

中山悌-との出会い

昭和二十一年(1946)十一月の未、中間試験の終わったころだったが、長野県上田市の公会堂で中山悌一独唱会が開かれた。
上田城跡の隣にあるその建物は、古びた木造の二階建てでゴザを敷いた二階が会場である。
聴衆は自分の履き物をそれぞれ持って階段を上っていく。
「走らないで下さい」と大きな紙に書いて貼ってあるのは、建物が揺れると天井が抜けたりして危険だからである。実際、急いで歩くとユサユサ揺れたりする不気味な会場だった。
戦後まもないころ、音楽芸術に飢えていた人々が集まり、私はいちばん前に座って固唾(かたず)をのんで聴き入り、本物の芸術にふれた思いだった。その感動はいまだに忘れることができない。
初めて聴く本格的な声楽、全身に電流が走ったようだった。曲目はシューベルトやブラームスの歌曲で、比較的ポピュラーな曲が多かったが、朗々と歌い上げて聴衆を圧倒した。アンコールにはロシア民謡の「紅いサラファン」を日本語で歌われた。完壁な発声と発音はすべて素晴らしく、ぞくぞくするような感動をおぼえた。高音から低音まで粒がそろっている。しかも歌詞によって、すなわち口のあけ方によって音色が変わらず、淡々として無理のない、ほとばしるような声、これこそ芸術だと思った。これこそ私の探し求めていた世界だった。
中山先生の前座に、上野を卒業したばかりの新人歌手としてオペラのアリアを歌った桑原瑛子さんは、同じ小学校の一年上級で、しかもたいへんな美人。私と同じように学芸会で毎年歌わせられていたが、彼女は学芸会のスターだった。私も四年生のときレコード吹き込みの申し出にあったが、同じころ桑原さんも申し込みを受けたようで、NHKのラジオからは彼女の歌声が流れていたのを思い出す。その桑原さんが立派に上野を卒業され、注目の新人として上田に来る。私は胸をときめかせて、その日を待っていたのだった。
終演後、高嶋る胸をおさえて楽屋を訪ね、桑原さんから中山先生を紹介してもらった。そして上京したら入門させていただくことを約束され、私は小躍り七た。
(注)音楽、美術関係の話で「上野」とは東京音楽学校、東京美術学校のこと、昭和二十四年五月に東京芸術大学音楽学部、美術学部となる。通称「芸大」のこと。


インフレのなかで-4

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-4

義姉が一軒ずつ電話をかけてくれた。
「モシモシ、じつは主人の弟が信州から帰ってまいりまして、ハムを持って釆ましたの。アルバイトですので助けてやってくださいませ」といった調子である。兄によく似た私が学生服を着て運ぶのだから、信用しないわけはない。おもしろいようによく売れた。こんどは単価が高いから儲けのほうも大きかった。
二か月近い夏休みも、そろそろ終わりに近づいていたが、義姉はさらにもう一つの計画を心に描いていた。それは自宅を開放して、社交ダンスの教室にすることであった。私が帰る前にということで、八月の半ばから先生を招いて私も生徒になり、兄も義姉も、そして近所の人や知り合いの人も遠方から釆た。そういうことに飢えていた人たちが大勢釆たので大繁盛だったが、まさか兄や義姉が受付に座るわけにはいかないから、客から集金するのは私の役目だった。
私は自分の夏休みを延ばす決心をして学校に届けを出し、十一月の試験までに間に合うよう帰ることにした。
神戸の家はドイツ人が建てただけあって、・フローリングがしっかりしていたが、間仕切りに段差があり、ドアを開けてもダンス教室には不都合だった。それでも週末にダンスパーティーと称して一般公開すると、五〇人以上の人が集まり、一人わずかな金をとっても一晩で相当な金額になり、ばかにできない。
汗水流してかつぎ屋をすうりずっと割がよかったのである。
なぜこんなことまでして、私は働いたのか、普通の生活をしでいれば平凡に生きていけたものを‥‥‥。
じつは白状すると、私の心の中にはいつもモヤモヤした不満が渦巻いていた。ぬるま湯につかったような生活はもうまっぴらだった。信州に帰ったらだれもが優しく迎えてくれ、黙っていても卒業でき、平凡なサラリーマン生活が待っている。
叔父は、そんなに好きなら音楽を趣味にしてやりなさいと言ってくれた。
松尾町の兎束春子先生の主宰する「からたち合唱団」にも紹介してくれた。
若い女性たちと一緒で楽しかったが、それでもまだモヤモヤした不満は解消しなかった。


 インフレのなかで-3

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-3
懐中電灯の細い明かりでは、私が体いっぱいに飴を隠していることがわからず、汽車はやっと走りだした。
もう釆ないだろうという同乗のかつぎ屋の言葉を信じ、私はまた元のようにリュックに飴を納めると、ぐつすり眠ってしまった。
朝早く神戸に着いて、私はすすだらけの顔で悪臭のしみついた衣服のまま、わが家の裏口から入っていった。
高い石垣の上に立つハイカラな洋風の邸宅に入るところを人に見られたくはなかった。しかしあれ以来私は、いわゆる問屋、かつぎ屋といって非難する気取った人種よりも、恥を恐れず体当たりで生きようとする人たちのほうに共感をおぼえるようになった。ほんとうにあのころは、みんな一生懸命に生きていた。食べるために働き、傷つきながら生きてきたのだ。
ダンス教室の手伝い′銚子からすすまみれになって神戸に帰ったとき、胴巻きの中に残った大金と大量の芋飴はすべて義姉に渡した。義姉から教わったことを実行しただけで、自分一人でこんなことができるわけはない。身近な周りから、こんなにまでしなくてもという非難の声も聞こえたが、私は尊い経験をさせてくれた義姉に心から感謝している。自分だけではどうしても思いつかないこと、まして声野家のどの一人をとってみても、こんな大胆な発想はわいてこない。さすが大里庄治郎の長女だけはあると思った。
芋飴がすっかり売れたので、義姉はさらに別のことを考えた。知人からハムを仕入れて売ることである。賛沢に慣れている神戸のお金持ちの人たちが、それをほしがっているのを知ったからである。
今度はボロ服を着たかつぎ屋の役ではなく、私は学生服を着ていればよかった。