月別アーカイブ: 2017年4月

デビューまで-1

 
さて、これから皆様にお目にかける拙文は、記憶をたどりつつ綴った自分史である。しかし、
記憶というものは怪しいもので、私の思い違いも大分あることに気がついた。
そこで、懇意のシャンソン愛好家に当時の新聞・雑誌等の記事や年表をもとに史実との整合
をしてもらい、(注)として、説明の補充、空白の埋め合わせなどをお願いした。読み進まれ
るときのご参考にしていただければ、幸いである。

デビューまで-1

芦野 宏

1、生いたち

歌の好きな子供

親類縁者にはだれ一人音楽をやる人間がいないのに、私は小学校に入るころから歌うことが好きで、初めて大勢の人の前で歌ったのは、小学校三年生の学芸会の舞台である。「春の小川」を独唱させられたと記憶している。学芸会には、四年生、五年生のときも歌わされたが、曲
目の記憶はさだかでない。

「春の小川」
詞 高野辰之
曲 岡野貞一

春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に
においめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く

たしか四年生のときだったと思うが、音楽の平松たか子先生が家の応接間に現れて、母と話しているのに聞き耳を立てていると、母が丁重に謝っているのが聞こえた。「私は理解しているのですが、主人が許しませんので……」。
それは某レコード会社からの吹き込みの申し出であったが、男子のすることではないという父の一言で中止になった。
あのとき要請を受けておけば、ボーイ・ソプラノの声が残されていたのに、と残念である。
わが家では、姉たちのために週一回、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の牧野守二郎先生が家庭教師としてピアノを教えに来ていた。私は部屋の外で立ち聞きすることしか許されなかったが、先生が帰ったあと、三人の姉たちの前で上手にその日のレッスン曲を弾いてみせるのだった。
それでも父は振り向かず、三人の兄と同じように旧帝国大学に進ませるつもりであった。

--------------

父・芦野太蔵、母・梅(1942頃)

父・芦野太蔵は、明治十九年(一八八六) 山形児村山市でひろく呉服商を営む、芦野民之助の一人息子として生まれた。
しかし、わずか九歳で両親を失った父は、後見人によって育てられながら、相続した山林や財産の大半を失い、孤独な青春を送っていた。母・梅は岐阜県出身の裁判官であった蒲生俊孝の次女として茨城児水戸市で生まれたが、たまたま山形地方裁判所の判事として赴任した祖父 (俊孝) について山形へ来たとき父と出会った。
当時、黒田清輝の弟子の一人として東京美術学校(のちに東京音楽学校と統合して東京芸術大学)の油絵科に籍を置く母の兄・蒲生俊武は、父・芦野太蔵と友人であったことから交際が始まり、二人は恋に落ちた。東京へ出てきた二人は、お茶の水近くに居を構えて、母は千代田区の錦華小学校(平成五年、近隣二校と合併して、お茶の水小学校と改称)で児童を教え、父は明治大学に通っていた。
音楽の好きな母は、当時お茶の水にあった東京音楽学校の分教場でヴァイオリンの授業も受け、はかま姿に編み上げ靴をはき、自転車に乗って通学したほど進んだ女性であった。
それにひきかえ、父は頑固一徹の融通性のない男で、まったくの音痴であった。しかしそれだけに学業に専念したせいか、卒業のときは最優秀で金時計をもらっている。


夢の劇場出演ー6

夢に見た劇場出演ー6

芦野 宏

「幸福を売る男」が大流行したのもこの年で、私は毎日ステージでこの曲を歌い続けた。
この歌は、自分の心にも明るい希望をもたらしてくれるからだ。
薩摩さんが書き下ろしてくれたわかりやすい訳詞のせいか、皆に愛されて大ヒットし、私の結婚式でもお礼の歌として歌った。
当時人気絶境の林家三平師匠が、この歌詞を使ってお笑いのなかに組み込んでくれたりして、ますます人気は高まっていった。

「幸福を売る男」
かるい恋の 風に乗って
私は行く 青い空を
いかがですか 甘いシャンソン
いかがですか 夢と幸は
私どもの商売は 幸せ売る商売
夏も秋もいつの日も 歩きまわる仕事

あなた方が 笑うことを
この私を 涙などは
夢や愛や 忘れたとき
呼びとめれば 消えて笑顔
フフーフ‥‥‥‥フ一フフ‥‥‥‥・

訳 薩摩 忠                14
曲 J-P・カルヴェ

私はこの歌が大好きである。歌いながら皆さんに明るい幸せのメッセージを送る気分がたまらなく好きなのだ。
歌っているうちに自分の心とお客様の心が一つにつながってゆき、勇気が限りなくわいてくる。
歌はほんとうに不思議な生きものだ。私はこれからも歌とともに生きていきたい。


夢の劇場出演ー5

夢の劇場出演ー5

芦野 宏
ほんとうに歌は現実には見えない不思議な世界へ私を連れていってくれる。
アルゼンチン・タンゴ、カンツォーネ、シャンソン、ロシア民謡、ドイツの歌、英国の歌、スペインの歌、アメリカの歌。私は知らないうちに世界各国の歌を、思いもかけぬほどたくさん歌うようになっていた。私のレパートリーとして保存してある楽譜だけでも、1〇〇〇曲を
超えているから自分でも驚いている。
このたび、自分史のようなものを書いてみようと思い立って書きはじめてみると、思い出のなかに必ず歌が出てくる。口ずさみながら書いていると、次々にあの時代のことがよみがえってくるのだ。歌というものは、ほんとうに不思議な生きものである。書きつづりながら、改め
て歌の偉大さを思い、私の人生が歌に支えられてきたことを実感し、歌に感謝する気持ちでいっぱいである。

昭和三十五年(一九六〇) のNHK『紅白歌合戦』で歌った「幸福を売る男」は、あれ以来、私の大切なレパートリーとなり、私を勇気づけてくれる。
昭和二十八年(一九五三)、シャンソン歌手としてデビューし、「ラ・メール」「詩人の魂」をはじめスタンダード・ナンバーのあらゆる曲と取り組んできた私だったが、薩摩思さんとの出会いにより、明るく家庭的なシャンソンが自分の個性によく似合うと思うようになっていた。
だから昭和三十五年に世界一周の音楽旅行をした際に、進んで「フルーツ・サラダのうた」や「パパはママが好き」などの新曲を携えて帰国したのである。子供にも歌えるわかりやすいシャンソン「トム・ビリビ」「蜜蜂と蝶々」「夢の国はどこに」「青空にスケッチ」など、いずれも前向きの明るいものばかりを集めて帰ってきた。
一方、日本の情勢は、逆に安保改定問題で騒然としていた。六月十日、私が世界旅行から帰国する寸前から始まっていた学生デモは項点に達し、十五日ついに国会に突入した際、その騒動のなかで女子東大生が犠牲になるという痛ましい事態も起きた。揺れ動く世相、ましてその
ころ、労音の主催するリサイタルに連続出演するかたわら、大都市の華やかな大劇場で、帰国コンサートを続けなければならない私の心は動揺した。


夢の劇場出演ー4

夢の劇場出演ー4

芦野 宏

私がシャンソンを歌いはじめて以来、長いお付き合いを続けてきた薩摩忠さんから「歌から歌へ」の詩をいただいたのは、昭和五十一年(一九七六)のことであった。地方で芦の会(芦野宏後援会)を主催する方から、ぜひこの歌をという推薦をいただき、マシアスの原曲を聴いているうちに歌いたくなり、薩摩さんに訳詞をお願いしたら、こんな素晴らしい詩を書いてくださったのである。
「歌から歌へ」
訳 薩摩 忠
曲エンりコ・マシアス

明るい歌がまねく世界の国へと

歌の翼に乗ればどこへも行けるよ

あのゴンドラ漕ぎの歌は恋のヴェニスよ

ボサノバのリズムにのせて

リオの町カーニバル

(ルフラン)

歌は太陽だ 声のアーチ

歌は生きている 空を翔(かけ)る

みんなの住んでいる緑の地球

歌のリボンをかけて さあ飾ろう

楽しく歌いながら 世界をまわろう

カスタネットの音と ギターのセビリヤ

あのバラライカのひびきは 春のモスコー

この粋なシャンソンきけば 目に浮かぶシャンゼリゼ

 


夢の劇場出演ー3


柏手はなかなか鳴りやまず、自分もどうしてよいか戸惑っているとき、司会者が現れて次の曲を紹介してくれた。
今度は「ラ・メール」である。
日本では自分として最も自信のある歌だったから、落ち着いて歌えたつもりである。
しかし、間奏のときには、一曲目のときのような柏手は起こらなかった。
ちょっと物足りない思いだったが、後半を大きく盛り上げて歌い終わると、また激しいアプローズの嵐がわき起こり、アンコールの声がやまず、二度も三度もお辞儀をして舞台の中央に呼び戻された。
やっと舞台の袖に入ると、付き添ってくれて待ちかまえていた俳優のローラン・ルザッフルに抱き.かかえられるように促されてやっと楽屋に戻った。
「グラン・スエクセ、大成功でした。あれほど受けるとは思わなかった。あなたは東洋人として初めての成功者です」
と、ローラン・ルザッフル、谷洋子夫妻が祝福し暫くれた。
今までの迷いや不安が嘘のように消えて、ホッとしたとたんにどっと疲れ外出てきた。
それでも、終演後ジョルジュ・エルメール氏と一緒に写真を撮ったり談笑したりする余裕はまだ残っていた。
楽屋を出て小さな鍵を係の女性に返したとき、ほんとうに今日、自分はオランピアで歌うことができたんだと実感する余裕が出てきた。
昭和三十一年(一九五六) 十一月十四日、私にとって記念すべき日がやっと終わったのである。