月別アーカイブ: 2017年10月

歌えない日々-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-2 つづき
世の中が少しづつ変わってきて豊かになりはじめていたが、それでもまだまだダンス教室は珍しい時代で夜の七時から九時までは初心者が釆て賑わった。
若かりしころの小玉光雄画伯(二科会〉も私の生徒だったし、ファッション・デザインの伊東茂平教室の先生方もたくさんみえた。
私は小遣い銭にも困らず、いつも仕立ておろしの上等な服を着て学校に通った。今でも毎年六月に同窓のクラス会があり十数人は必ず集まるのだが、「あのころの芦野さんは一人だけおじさんみたいで、同級生の感じがしなかった」と言われている。
歌えない日々-1
学校は楽しかった。しかし、なにもかもうまくいっているわけではなかった。
入学してまもなく、中山悌一先生がドイツへ留学されることになったからだ。
しかも夫人同伴で何年になるかわからないという。門下生たちは額を集めて悩んだが、どうしようもなかった。
大賀典雄さん(現・ソニー会長)は中山先生から折り紙つきの有望なバリトンで、将来を嘱望されていたから、ほんとうに失望した表情で「中山先生以外にはつきたくないんだ」と私にこぼした。私だって受験勉強でお世話になり、心から尊敬していただけに思いは同じだったが、せっかく入学できた学校をやめるわけにはいかない。私は中山先生から同じ二期会創立メンバーの柴田睦陸(むつむ)先生を紹介されて、学校で個人指導を受けることになった。
今まではバリトンの中山先生の声を模倣することから始めた勉強だったから、とつぜん声域の違うテノールの柴田先生に代わったとき、初めはなかなか馴染めずに困惑し苦しんだ。
柴田先生は発声法の大家といわれている方であり、じつに懇切ていねいに指導してくださる。学校のレッスン日に先生が都合で休まれるときは、成城のご自宅まで出かけて、まず呼吸法から教わった。下腹部に手を当てて歌わせることはまだ初歩の段階で、床の上の絨毯(じゅうたん)に仰向けに寝かされ腹の上に分厚い重たい本をのせて、その動きを見ながら歌わせる。
そのような腹式呼吸法を指導してくださったり、発声についてはもっと厳しく、咽喉の奥を開くこと、そのためには割り箸で舌の根を押さえて腹の底から声を出す訓練に特別に長い時間をかけてくださる。
声を頭蓋骨に響かせて前に響かせる歌い方、いわゆる頭声の出し方、あるいは胸に響かせる胸声の出し方。先生ご自身が体験されたことを忠実に、ちょうど親鳥が雛に餌を与えるように教えてくださるのである。まったくの初心者であった私にとっては、珍しくてびっくりするこ
とばかりであった。奥様はソプラノの久保田喜代子さんで、そのころはまだ研究科に籍を置く有望な新人であった。
「おい、喜代子、芦野君の歌、一緒に聴いてくれよ」と言っていつも一緒に指導してくださるような仲の良いご夫婦だったが、先生は学生の一人ひとりに、まるでわが子のような愛情を注いでおられた。


楽しい生活-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-2
入学式のあと、私はクラス総代を命じられた。
みんな私よりだいぶ年齢が下だったから、その点では適任だった。
クラスは声楽が一二名、ピアノ科が八名、作曲科が八名、弦楽器三名、管楽器三名、邦楽三名、パイプオルガン二名、といった分け方で、学生数は四〇名足らずの少数精鋭主義教育であった。
それぞれ専門の先生には一週二回個人指導を受け、一週一度は副科、つまり声楽科ならピアノの個人指導があり、専門以外の合同授業は、音楽理論、対位法、外国語、美学、西洋史などがあった。
クラスに留学生が二人いた。中国からの陳貞麗(現・徐貞麗)さんと、インドネシアからのムハマド・エスフ君である。二人とも声楽科で、エスフ君は田中伸枝門下のバリトンだった。
彼は日本語があまりうまくなかったので、私が合同授業のとき隣の席に座ることにした。
難解なことは辞書を片手に英語で説明してあげたが、休み時間も昼食も一緒だったから、私としては英会話の勉強になり、卒業してからもたいへん役に立った。
陳貞麗さんは日本語が上手で授業には支障がなかったが、やはり田中伸校門下の伊藤礼子さんと仲良しで、われわれを含めたこの四人はいつも一緒に行動することが多かった。
留学生二人はダンスが好きで、毎月一度わが家で開くダンスパーティーには必ず来てくれた。
田中先生も、当時の教授としては珍しくダンスがお好きで、門下生を五、六人引き連れてわが家のパーティーに参加してくださったものである。お弟子さんたちはみなロングドレスで参加するので、久我山のアトリエは色とりどりの花が咲いたように華やかになり、評判になった


楽しい生活-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-1

重たい衣服をぬぎ捨てて軽やかな足どりで街を歩くと、みんなが自分にほほえみかけてくれる。
世の中が一変してバラ色に輝き、私の新しい人生が始まった。
昭和二十三年(一九四八)四月、憧れの音楽学校に入学できて、春欄漫の上野の杜(もり)を歩きながらの実感は、今でも鮮明によみがえってくるのだ。春の桜がこんなに美しいものと思ったことはない。上野は公園にも学校にも桜があり、そこは別天地であった。
戦前・戦中の抑圧された暗い毎日から解放されて、やっと自由を勝ち得たといっても、食糧や資源不足のため決して明るい毎日ではなかった。戟後三年たったこの年でも、一月に配給物資の横領事件が起こり、帝銀事件や美唄炭坑の爆発事件などがあった。
しかし、音楽だけはだれからも邪魔されない自由があったのである。
学校の食堂はうす汚れた古い校舎の一部だったが、キャッスルと呼ばれ、そこには学生たちに交じって有名な演奏家や教授の顔がすぐ近くにあり、長い間憧れていた音楽の世界にやっと入れたという喜びは、たとえようもないものであった。
この年私は生まれ変わった。そういっても過言ではない。
上野の学生であるということだけで、世間では信用してくれたし、なによりも今や疎開先の映画館で「波浮の港」や「谷間の灯」を歌ったとき大反対した親戚たちも、これからは文句のつけようがない。
陶を張って堂々と音楽の勉強ができると思うと、天にも昇る気分であった。だれにも気兼ねしないで、音楽の世界にどっぶり浸ることができるようになったからだ。


東京音楽学校受験-5

幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-5

しかし、この夜の出来事は兄と義姉にショックを与えた。
雨の中を先生が自ら知らせに釆てくれたことで、私に対する信用はいっペんに高まり、親戚中ただ一人の「ならず者」というレッテルがはがされるきっかけとなったのだ。
三日目の専門は「ヴュルジン・トウツト・アモール(聖処女)」を歌った。
その日は審査員のお顔をゆっくり見ながら歌えた。
城多又兵衛、矢田部勁吉、酒井弘、H・ウーハーペーニヒ、四家文子、田中伸枝、浅野千鶴子、ネトケ・レーベ、柴田睦陸、平原寿恵子、それに恩師である中山悌一の諸先生方であった。
そのほかに、顔を見ても知らない先生方が五人ほどおられて、全部で一五人くらいだと思った。
四日目の学科はらくらくであった。英語と国語、それに当時流行していた知能指数のペーパーテストである。
五日目の面接も、はっきり覚えていないが、簡単なものであった。
もう必ず合格すると思っていたから、気持ちにも余裕ができていた。
合格発表は見に行かなかった。
研究科を最優秀で卒業された石田栞先生が、電話で知らせてくれたからである。


東京音楽学校受験-4

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-4
こんな夜中にどうして、と思うのは当然である。心配して奥から出てきた兄と義姉が、ずぶ濡れの先生を見てとりあえず招じ入れたが、先生は固辞して用件だけを伝えた。「明日の試験は必ず出るように。昨日の声楽の点が最高点だったから、自信をもって途中で放棄しないように」 ということであった。
じつはあとでわかったことだが、ピアノの試験の途中で「カーン」と鐘をたたかれたのは、それまででよいという合図で、ハイこれで落第という意味ではなかったそうである。
私がすっかり悲観して今年の入学を諦めている様子を、近所に住む石田先生から聞き、同級の石津先生が心配して審査に当たった田中伸枝先生に開きに行ったところ、第一日日の成績がトップであることを知り、あわててとんできたというわけである。
石津先生は石田莱先生と同じく田中伸枝先生の門下生で、バリトンのホープとして母校に残されている注目の新人であった。私も石田先生の紹介で二、三度レッスンを受けたが、当時二十三歳くらいで、私にとっては一〇年も二〇年も先輩のように感じられた。それに六尺豊かな
大男である。ずぶ濡れだったのは、自転車で鷺宮から久我山までを突っ走ったからだという。
それにしてもなぜ、あんなにまでして釆てくださったのか。電話でも十分に間に合うことなのこ‥‥‥