楽しい生活-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-2
入学式のあと、私はクラス総代を命じられた。
みんな私よりだいぶ年齢が下だったから、その点では適任だった。
クラスは声楽が一二名、ピアノ科が八名、作曲科が八名、弦楽器三名、管楽器三名、邦楽三名、パイプオルガン二名、といった分け方で、学生数は四〇名足らずの少数精鋭主義教育であった。
それぞれ専門の先生には一週二回個人指導を受け、一週一度は副科、つまり声楽科ならピアノの個人指導があり、専門以外の合同授業は、音楽理論、対位法、外国語、美学、西洋史などがあった。
クラスに留学生が二人いた。中国からの陳貞麗(現・徐貞麗)さんと、インドネシアからのムハマド・エスフ君である。二人とも声楽科で、エスフ君は田中伸枝門下のバリトンだった。
彼は日本語があまりうまくなかったので、私が合同授業のとき隣の席に座ることにした。
難解なことは辞書を片手に英語で説明してあげたが、休み時間も昼食も一緒だったから、私としては英会話の勉強になり、卒業してからもたいへん役に立った。
陳貞麗さんは日本語が上手で授業には支障がなかったが、やはり田中伸校門下の伊藤礼子さんと仲良しで、われわれを含めたこの四人はいつも一緒に行動することが多かった。
留学生二人はダンスが好きで、毎月一度わが家で開くダンスパーティーには必ず来てくれた。
田中先生も、当時の教授としては珍しくダンスがお好きで、門下生を五、六人引き連れてわが家のパーティーに参加してくださったものである。お弟子さんたちはみなロングドレスで参加するので、久我山のアトリエは色とりどりの花が咲いたように華やかになり、評判になった