月別アーカイブ: 2018年2月

NHKラジオ・デビュー 2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー 2

音楽学校で教わったクラシックはほとんどイタリア語が多く、ドイツ語と英語も少しわかっていたので、スペイン語の歌は比較的楽に覚えられ、とても楽しかった。卒業後、高校で音楽の教師をしながら個人レッスンでも音楽の基礎やピアノを教えていたが、その合間をぬって週に一度、代々木の高橋邸でレッスンを受けることは待ち遠しかった。
昭和二十七年の秋も深まったころ、先生が推薦してくださり、今でもNHK出演の開門として厳しい審査を経たあと、レパートリーでいちばん合いそうな歌を選んでくださった。それがタンゴの名曲「ひとしずくの涙」と、本邦初演となる新曲「カント・インディオ」 であった。
このラテン・ナンバーは美しいボレロの曲で、ティノ・ロッシ(魅惑的な歌声のシャンソン歌手)が歌ったらぴったりと思われるほど甘いメロディーである。
この二曲をはじめ、ラテン、タンゴはデビュー後しばらくは歌いなれた原語だけで通していたが、あるときスペイン語だけでは外国人が歌っているのと変わらないので、一部日本語を入れてほしいという要望があった。すでに訳詞のある曲がけっこうあったので、のちにはスペイン語と半々でも歌うようになった次第。だが日本語だと、どこかしっくりこないものがある。
たとえば自分で訳を書いて歌ってみた 「ひとしずくの涙」の一節はこうである。「夢さめやらぬわが胸 今もなお燃えつつ。ゆめ忘れずひとしずくの涙 心に残して」。何度も自宅でピアノを弾きながら歌ってみたが、どうもアルゼンチン・タンゴのあの歯切れのよさが表現できず、よその国の歌になってしまう。どうしても気に入らない。のちにアルゼンチンでも活躍された藤沢嵐子さん(芸大先輩、歌謡曲、シャンソンからタンゴ歌手)とお話しする機会があったとき、彼女もほとんどスペイン語で歌っているのは、私と同じ理由からだということがわかった。しかし、あれ以来、訳詞と半々のこともあり、また原語だけで通すこともある。

 


NHKラジオ・デビュー 1

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

芦野 宏

1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー

東京芸術大学声楽科を卒業して間もなく一年目という昭和二十八年(一九五三)二月一日、NHKラジオ『虻のしらべ』への出演が実現した。私の歌声が電波に乗り全回に流れて、新しい人生の船出となったのである。
その番組では、甘いボレロの「カント・インディオ(インディオの歌)」と、アルゼンチン・タンゴの名曲「ひとしずくの涙」をともにスペイン語で歌った。この二曲はいわば全国の皆さんに聞いていただいた記念すべき最初の曲である。
私がスペイン語で歌われるカンシオン(歌)に惹かれたのは、前にもふれたように、ちょうど芸大の卒業試験が近づいたころで、進駐軍放送で歌われていた歯切れのいいアルゼンチン・タンゴに出合ったからである。卒業はしたけれど、自分の進むべき道が見えなくて試行錯誤を繰り返しているとき、高橋忠雄先生と出会った。
高橋先生は初代三越社長の御曹司で、戦前、欧州・南米を旅行し、アルゼンチンには長く滞在されて、スペイン語が堪能、タンゴに精通され、ご自分でもピアノを弾いたり、バンドネオンを演奏しておられた。代々木の庸酒なお宅で、生徒に教えておられるという噂を聞いて門をたたいた。きれいな奥様はダンスがお得意で、三歳くらいのかわ.いらしいお嬢さんがおられたが、のちにお嬢さんはモデルとして活躍され、若くして結婚された。  。
先生はラテンとタンゴとダンスを研究され、NHK『夕べの音楽』『リズム・アワー』などの放送の番組や舞台の構成・演出、解説、それに編曲・指揮など中南米音楽の紹介と普及に八面六腎の活躍をされた。「原孝太郎と東京六重奏団」と双壁をなすオルケスタ・ティピカ東京(早川真平指揮)の基礎も作っておられる方でもあった。
私は週一回、先生のお宅でたくさんの歌を教えていただいた。「カミニート」「ジーラ・ジーラ」「グラナダ」「ポジエーラ (牧人)」「うそつき女」「サンフアン娘」「神の心」「マリア・ラオ」など。先生は惜しげもなくアルゼンチンの原語を私にくださり、レパートリーはたちまち一〇〇曲を超えるほどになっていた。


楽しかった教師時代-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しかった教師時代-2

国府台女子学院の高等部では、教科書を使った授業を前半にやり、残った時間には自分の弾き語りで世界各国の曲を歌って聴かせた。これは自分自身の勉強にもなるから歌っていたのだが、生徒たちは大喜びだった。
「音楽はもともと自然に発生したものです。快い音をつづり、人々の心を和ませ、励まし、高揚させ、しだいに素晴らしい芸術にまで昇華しました。だから皆さんは改まって難しい音楽に取り組むという考えを捨ててください。いきなり難しいピアノ曲を弾きなさいとは、だれも言いません。音楽っていいなあと思う心が音楽を勉強する第一歩なのです。だから皆さんも先生の歌、聴いて好きになってください」
なんだか自分でも訳のわかったような、わからないようなことを言って、自分が授業中に歌うことを正当化しょうとした。また、一人ひとり歌わせるテストの時間には、教科書の楽譜を中心として、自分のいちばん歌いやすい音域に下げて歌わせることにしていた。これが私の提案する自然の発声、無理のない声をつくる第一歩だった。生徒たちはみんな音楽の時間を楽し
みにしてくれるようになり、しかつめらしい授業からは程遠いユニークなやり方に従ってくれた。
奉職してから新しい春を迎えて、卒業生を送る食事会のとき、私の隣のテーブルについた品のよい英語講師の松原先生が、「私、松原緑の母なんです」と名乗られた。芸大ピアノ科で私より一年下の緑さんは評判の美人で、学生たちの憧れの才女だったが、私の友人である大賀典推さんと結ばれ、現在はソニーの会長夫人であり、お母様同様、主婦であってもピアノの演奏活動を続けておられる、若々しい奥様である。
学期末の試験が終わったころ、この学期をもって学校を退職することを発表した。多感な高校生たちのなかには泣きだす生徒もいて、別れがつらかった。この一年間、高校教師は初めての経験だったが、生徒たちに自分流の発声法を教えた。試験の採点は全般的に甘かったが、音楽が好きでない生徒にもやる気を起こさせる効用があったと思う。逆に音楽が得意な生徒には、慢心を抑えるため少し厳しい点をつけた。
神田神保町の一橋中の生徒たちは、それほど別れを惜しんでくれるふうでもなかったので気が楽だった。こうして学校教師の仕事をやめた私は、今や歌による収入だけで生活しなければならなくなってきた。ちょうど一年間奉職した国府台女子学院には、私のいろいろな思い出がいっぱい詰まっていて、今でも昔の生徒が訪ねてくると嬉しくて仕方がない。

 


楽しかった教師時代-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しかった教師時代-1

昭和二十七年、卒業して今後の方向を模索し、生活のためにあたふたと過ごしているうち声の調子も戻ってきたころ、芸大教務課の金子さんから電話がかかってきた。
「城多教授からのお願いなんですが、市川の国府台女子学院中・高等部で講師の先生を探しているので……」ということであった。吹き込み所通いばかりしていたので、経済的にも因ってきたころであった。
素直に教務課の指示に従った。ここで一年間、教師としての経験を積むが、甘い青春の思い出がいっぱい詰まっている、この教員生活は忘れ得ぬ青春の一ページである。
しかし、定職とはいっても講師なので月給は六〇〇〇円ほどであり、学生時代から教えていた個人レッスンもやめるわけにはいかない。日曜日に十数人教えて一万円になったが、自分のピアノがなかったので、借り代として三〇〇〇円を支払っていた。
そんなわけで、月曜から水曜までを国府台女子学院で、木曜から土曜までをもう一校、神田神保町の一橋中学校で教えなければならず、文字どおり一日の休みもなく働いたが、わずかな隙間をぬって自分の勉強をする時間を探すことも忘れなかった。
なにかにとり憑(つ)かれたようになっていた私は、学校への通勤の往復も自分の楽譜を離さなかったし、夜は十二時過ぎまでレコードを聴いて研究した。どんなに忙しくても、仕事と仕事の間のちょっとした短い時間でも、いつも頭の中に発声と発音のことがいっぱいに詰まっていて、食事中にも心の中で歌っていた。
卒業してからずっと、私は自分自身の声を求めて四六時中、模索し続けてきた。ところが在学中から家で敢えていた自分の弟子たちが、思いもかけず、芸大や私大の声楽科に次々とパスして、個人教授としての評価が高まり、入門志願者はあとを絶たないほどになってきたので、このままでは教師としての時間に押し流されるのではないかと危ぶまれた。