月別アーカイブ: 2018年11月

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

今になって、体がこんなに固くなってしまってから後悔しても仕方ないが、いくら歌の仕事が忙しくても、あのころからコーちゃんの忠告を守っていればよかったかなと思っている。コーちゃんは相手役というものに恵まれなかったが、それは彼女自身があまりにもずばぬけた個性をもちすぎていたからで、対等に相手役がつとまる日本人はついに現れなかった。

私が育った家庭は、親類縁者に一人も芸能人がいなかったせいか、私が好きな音楽の勉強をしても、それは芸大の教授になるのが目的だと思われていた。母は自らヴァイオリンやピアノを弾く女性だったから理解はあったものの、歌ったり踊ったりされるのは好まなかっただろうと思う。自分の心の中にも、そんな母の気持ちが住んでいたにちがいない。だからクラシックを捨てても、「あくまで歌ひとすじにゆかなければ」という思いがあったのは確かだ。
東芝レコードで、自分のやりたい曲を歌わせてもらえる立場にあったとき、私は昔の懐かしい歌を歌わせてもらうことにした。『懐かしの唱歌集』がそれである。第一集は長洲忠彦編曲・指揮の東芝レコーディング・オーケストラの伴奏で、第二集はA面を中村八大モダン・トリオ、B面を平岡精二クインテットの伴奏で、それぞれアレンジも彼らの若い感性に任せて私は歌った。幼いころ、母がピアノを弾きながら歌ってくれた「埴生の宿」や「庭の千草」などをレコードにしたかった気持ちがどこかにあったのだろう。これらの古い懐かしい曲の数々は、その後改めて東芝レコードでLP『ふるさとの歌』として録音され、売り出された。
菊池推城氏のマネージメントにより、私は東芝レコード時代、シャンソンだけでなく愛唱歌集など、ほんとうに良い仕事をさせていただき、今でもありがたく思っている。昭和五十二年には会社(東芝EMI、昭和四十八年改称)から長年のレコーディング活動に対してゴールデンディスク賞をいただいた。
たいへんお世話になった東芝EMIから離れて、クラウン・レコード(現・日本クラウン)に移籍するようになったのは、私の初代マネージャーとして活躍してくれた菊池維城氏と、大恩人である石坂範一郎氏が相次いで他界され、しだいにご緑が薄くなっていったからである。
ある日、伊藤さんという方から電話があった。「私は昔コロムビア・レコードにいて、芦野さんのお宅に伺ったことがあります。覚えていますか」というのである。若いころコロムビアで、私と越路吹雪さんのデュエット盤の制作などに携わっておられた方である。その方は今、クラウン・レコードの実力派社長として有名な伊藤正憲氏だったのである。


 本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-2

続いて出したシャンソンのLP『シャンソン・ヒット集』ぁたりからしだいに売れるようになり、やはり芦野宏にはシャンソンが似合うといわれるようになった。なかでも、すぎやまこういち氏が編曲して、担当ディレクターの渋谷森久氏が制作してくださった『パリの休日』には度肝をぬかれた。スタジオに入ると、なんと楽団が入りきれなくて廊下まであふれている。
通常のスタジオでは間に合わないくらいメンバーを集め、予算をふんだんに使って、素晴らしい音を作ってくださった。「パリ野郎」などは、パリのざわめきを取り入れたりしてじつに凝った演出である。また、『シャンソンのこころ』と題したLPも、小谷充氏の編曲がすてきで、しっとりとしたアットホームな味わいがファンからも大好評だった。
越路吹雪さんのレコードが売れはじめたのもこのころで、それまでは越路さんはステージの人で、レコード向きではないなどと東芝の内部でもささやかれていたものである。越路さんとは、私がデビューしてまもなく日劇の舞台でご一緒してから、昭和三十年か三十一年に日本コロムビアで 「モア・モア」をデュエットで吹き込みさせていただいた仲であった。彼女のように、語りの味を出せる歌手がほかにいないからということで、私が相手役に抜擢されたのであった。
越路さんも、ともに東芝レコード専属の第一号になったが、毎年レコード会社の出すカレンダーでは十二月のページで私と彼女は顔を合わせた。七夕さまみたいに、一年に一度しかお会いしませんねと、お互いに昔(~)を懐かしがったが、越路さんも私も仕事が忙しくて、前のように二人でデュエットすることがなく、東芝では一曲も吹き込まなかった。そのころ、コーち
ゃん (越路さん) は、私と会うたびに 「ねえ、ステージ・ダンスやりなさいよ」と言ってすすめてくださった。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-1

私の初めてのLPレコードは、それから二年ほどたって昭和三十二、三十三年に吹き込まれて発売された。ウエストミンスターという会社で、それまでLPはクラシックだけを扱っていたのだが、わが国としても初めてポピュラー(シャンソン)をLPとして出すことになったのである。
菊池維城氏はもともとクラシック音楽のマネージメントを専門にしていた人だったから、そのへんからこのLP吹き込みの話が持ち込まれたのではないかと思っている。編曲・指揮は片山光侵さん、ピアノは浜中外代治さんで、「メケ・メケ」「風船売り」「ラ・メール」「パリ祭」などを入れた。じつは、これが日本人のポピュラー歌手としては最初のLPレコードだったことはあとから聞いたことで、このあとも「初めて」の記録がい1っかあるが、とても光栄に思っている。

束芝のレコード事業部が束芝音楽工業〈昭和三↑五年設主として発足する前に、専属タレントを選考し、第一に候補に挙がったのが芦野宏だったと、あとで菊池推城氏から聞いた。東芝は以前からエンジェル・レコードのレーベルで、フランスのシャンソン歌手を紹介していたので、邦人では越路吹雪と芦野宏がほしかったのだということである。専属契紆は昭和三十四年に結んだ。
当時、石坂泰三氏完・東芝社長、経団連会長〉の甥にあたる石坂範一郎氏(元・東芝音工専務)が洋楽部門を担当しておられたが、石坂氏は外国語に堪能で、何度も海外旅行をされて直接欧米のレコード会社と交渉されていた方であった。私は石坂氏と会って、束芝レコードでの最初の一枚のLPをなににするかを相談した。
石坂氏は、すでにウエストミンスターからシャンソンのLPが二枚出ていることを考慮して、私の東芝での第一弾はカンツォーネのLPにしようと提案された。曲目は「ゴンドリエ」「コメ・プリマ」「ルナ・ロッサ」「ヴォラーレ」などで、タイトルはいろいろ二人で考えたすえ、『唄はゴンドラとともに』と決まり、まもなく期待をもって発売された。しかし、放送やコンサートなどで好評だったシャンソンを入れなかったので、思ったほどは売れなかった。


三社競作のSPレコード-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-2

それで松井先生はわかってはくれたが、レコード吹き込みのほうは頑として譲歩しなかった。
結局、菊池氏が仲に立って、いずれもSP盤でマーキュリーから「小雨降る径」「ドミノ」、ビクターから「マドロスの唄」「パリの空の下」、コロムビアから「プンプンポルカ」「ばらのエレジー」と各社それぞれ二曲を昭和二十九年に録音、翌三十年二月に同時発売し、芦野宏はいずれの会社とも専属契約を結ばないということを宣言した。こうしたかたちで発売されたレコードは、どの会社もあまり力を入れなかったので、大して売れなかった。ただし、サトウハチロー作詞・高木東六作曲の1プンプンポルカ」だけは相当売れたらしく、漫才や落語のネタにまでなり、やがてNHK『みんなのうた』にも選定されて現在も歌われている。
ほかにコロムビアからは服部良一先生の作品などが発売された。
その「プンプンポルカ」は、こんなふうにして生まれた。私が学校を出てしばらくして、シャンソンを歌うようになってからまもなく、初めて地方の演奏旅行に行ったときのことである。
新聞社主催の『フランス文化とシャンソン』と題する催し物で、仏文学者・辰野隆先生の講演のあと、私がいくつかのシャンソンを歌うことになっていた。伴奏は高木東六先生で、まだ駆け出しの私としては、辰野、高木両先生の間に交じって出演できる喜びよりも、むしろ恐ろしさと緊張でブルブル震えていたような記憶しか残っていない。
帰りの車中で、高木先生と差し向かいの席をとった私は、思いがけない発言を先生からいただいて、旅の疲れなんかいっペんに吹き飛んでしまうほど興奮した。辰野先生が昨夜初めてシャンソンを聴いて、たいへんほめてくださったこと。そして高木先生も私のシャンソンから、なにか率直な呼びかけを感じられて、急に私のために新しい曲を作曲してくださるということだったのである。高木先生の待った鉛筆の太い芯が、五線紙に楽しい模様を描いていき、やがてこれが私の初めての日本の歌「プンプンポルカ」になったのである。