月別アーカイブ: 2018年12月

初めてのパリ-4

明けましておめでとう+御座います。

本年も宜しくお願いします。

羽鳥 功二

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-4

 春のうららかな日だったので、トレネの作った「リオの春」を歌うことにした。私はフランス語で歌い、歌詞に出てくる〈ブラジル〉を〈日本〉に、〈リオ〉を〈東京〉に置き換えた。これは二コーラスあったので、二番は「シャルル・トレネはこの国で恋の唄を歌う」に替えて歌つた。
歌い終わると、案の定、トレネは大満足して私に握手を求めてきた。私はすかさず一年前に
オランピアのロビーで撮(うつ)したトレネと私の二人の写真を胸ポケットから出して見せた。例の私が沈んだ表情で写っているトレネとの唯一の写真であったが、彼はやっと思い出してくれて私の名前を初めて覚えてくれた。これが二回目の出会いである。
三回目にトレネと会ったのは、昭和三十五年、パテ・マルコニ社のスタジオで私が「ラ・メール」のレコード吹き込みをしたときである。詳しくは、後述の「フランスで初レコーディング」 の項でふれる。
そして四回目は、平成二年九月、私が労音時代から親交のある丹野稔氏のご紹介で就任した「江戸職人国際交流協会」の会長として、南仏の保養都市アメリ・レ・バンに桜の苗木二〇〇〇本を贈呈するため、その町を訪れたときのことである。案内する人が美しい海岸で車を停め、ここがシャルル・トレネが作った1ラ・メール」の海岸です、と教えてくれたことであった。
歌詞のとおり、入り江に囲まれた海辺には葦が茂り、たまたま小雨が降っていたので、まさにあの歌と同じ光景に出合うことができた。
しかも、この海岸はヴエルメイユ海岸といわれ、奇しくもその前々日にパリ市長であったシラク氏から授けられた勲章の名称が「メダル・ドゥ・ヴュルメイユ」という偶然にも重なった。
入り江の向かい側の岬に赤い屋根の建物が見え、トレネがかつて別荘として使っていたものだと聞いたとき、名曲「ラ・メール」の美しいメロディーのなかにトレネの風貌が浮かんできた。


初めてのパリ-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-3

私が咋日、この同じステージに立って歌った自分の「ラ・メール」と、ああこんなにも違うものだろうかと思うとまったく恥じ入った。そして彼がこの歌を終わって客が席を立っても、私はしばらく立ち上がることができないほどショックを受けた。
ひしひしと迫りくる劣等感、戦って完全に敗れた野良犬みたいに、私は街を歩きはじめた。
もう歌をやめたいとさえ思い、心が重かった。私はただトレネのイミテーションにすぎない、ただ彼の歌を上手にまねしている一人の東洋人にすぎないと思うと、足が重く、このままどこまでも歩いて消えてしまいたい気持ちであった。
ショックの大きさを、同行のカメラマン高田よし美さんはわかってくれた。でも、せっかく来たんだから記念に写真をと彼女に促され、またオランピアの方向に向かって歩きだした。オランピアにはもう客の姿もなく、閉館の準備をしていた。トレネの楽屋で自己紹介したあと、帰り支度を終えて入口のほうへ向かい彼が指定したロビーのポスター前で、私が彼と並んで高田さんがすばやく記念写真を撮らせてもらった。
シャルル・トレネとはそれから何度も会っているし、お話をしたこともあるが、二人でカメラに納まったのはこのときだけである。私は無理に笑っているが、その表情は明るくない。胸の奥にひどい挫折感を抱いている顔である。逆にトレネは、初日を大成功に終わって心からリラックスしているように見える。この日のショックはたいへん大きくて、鬱(うつ)の状態が二、三日續いた。しかし思い直して、トレネを聴くために、その後二回ほどオランピアに通っている。
シャルル・トレネの初来日は昭和三十四年(一九五九)の春で、フランスから大物のシャンソン歌手が来日することはダミア以来の大事件だった。まだ日本には大きなホールなどない時代で、千駄ヶ谷の体育館が初日の会場にあてられた。
その日、私はトレネのリサイタルの前座で歌うように主催者から言われて選曲に迷っていた。


初めてのパリ-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-2

十一月十五日、私が憧れのオランピアに出演した翌日、生まれて初めて聴くシャルル・トレネのリサイタルには圧倒された。長い間、憧れていた歌手のリサイタルに出合えて、期待以上のものがあったからだ。
初日の切符は、自分自身のことに紛れて買っておく余裕がなかったので、当日、早めに出かけて行列に加わった。人いきれと暖房、フランス独特の香水や体臭がむせ返るような超満員の客席であった。第一部は、例によって始めは手品や前座の漫才みたいなものであったが、トリはジェルメーヌ・モンテロの渋いシャンソンで終わった。
いよいよ第二部の開幕は夜の十一時で、トレネがブルーの背広にソフト帽をかぶり、胸に赤い花をつけて舞台に現れると、客席がいっせいに活気づいて彼の再起を祝った。ちょっとした自動車事故にあって入院しているという記事を新開で読んだことがある。客席がブラボー、ブラボーと叫ぶ。あちこちから口笛が鳴る。なにしろ久々のパリ公演であるうえに、退院以来初めてのステージなのだからファンの熱狂ぶりはたいへんなものであった。
甘く、渋い、そして低いささやきが歌になって流れると、客席は水を打ったように静まり返る。二十数曲のうち、その大半が私のレパートリーのなかにあるから、一節なりとも聴き逃すことはできない。「わが若かりし頃」「詩人の魂」「街角」「パリに帰りて」、そして新曲の「君を待ちながら」が私にとっては新鮮で、とくに胸に焼きついた。アンコール、アンコールの声に「ブン」を歌ったが、客席は立とうともしないで彼を引きとめる。何べんも何べんも幕前に出て頗を下げる彼に、客席が「ラ・メール」を要求する。そして彼はついに「ラ・メール」を歌いだすのであった。
彼が作詞作曲して創唱したこの歌は、シャンソンのなかの名曲として世界に君臨している。
もちろん、この私もこの歌に魅せられてシャンソンの世界に入ったといっても過言ではない。


初めてのパリ-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-1

昭和三十一年二九五六)九月には、私の夢であったパリ行きが実現した。九月七日には産経ホールで送別リサイタルが開かれ、希望と夢に胸をふくらませてパリヘ向かった。
機運が上昇しているときはすべてうまくいくもので、知人の紹介から思いもかけないスポンサーがつき、オール・ギャランティ (全面的な身元引受人)の形式をとってもらえたので堂々と外遊することができたのである。そのスボンサーとは映画監督のマルセル・カルネ氏から、パリに到着するとマスコミが私を(『天井桟敷の人々』ほか、フランス映画の巨匠)だった「日本のジルベール・ペコー」として新聞や雑誌に紹介してくれ、パリ・アンテールとユーロップ・ニュメロアンという放送局から私の歌が流れることになった。
なぜペコーなのかといえば、この年カルネ監督は彼を主役に映画『邁かなる国から来た男』を作ったばかりだったのだ。フランスはコネクションの国だとだれかが言っていたが、紹介者が大物だとこんなにうまくいくものかと、狐につままれた気分だった。
まずパリ・アンテールの 『五時のランデヴー』というラジオ番組では自分でピアノを弾きながら「枯葉」「リオの春」をフランス語で、そして 「さくらさくら」を日本語で歌った。そして、ユーロップ・ニュメロアンでは「フランスの日曜日」などを歌った。これらの出演などのあと、十一月十四日には思いもかけぬ幸運が訪れた。ユーロップ・ニ.ユメロアンのラジオ局が主催した公開録音で、あのシャンソンの殿堂オランピア劇場の舞台で歌えることになったからである。ラジオ番組のときのプロデューサーに気に入られたらしく、彼の推薦によるものらしい。そのときは、シャンソン「ビギヤール」の作者で歌手のジョルジュ・エルメールやギター弾き語りのロベール・リパ、自前の楽団でカンツォーネを歌うマリノ・マリーニも出演していた。詳細はプロローグに記したとおりである。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-4

演歌のクラウンとして 「北島三郎さん、水前寺清子さんをかかえている会社が、なぜ私に声をかけたのだろう」と思った。東芝との話し合いはクラウンからしてもらうことにし、伊藤社長の 「声野宏で新たにポピュラー路線を確立したい」とのたっての望みで、私は移籍することにした。
昭和五十三年から一〇年足らずの短い在籍であったが、多数のシングル盤やリサイタルのライヴ録音などを発売していただいた。そして昭和五十八年にはスタンダードなシャンソンをそろえ、タンゴやラテンも加えて、ファンの要望に応える、充実した二枚組LPを出していただいた。このLPは昭和六十三年にCD 『芦野宏の世界-私のシャンソン史-』 になり、今に続
く「ロングセラー」 となっている。
クラウンCD「芦野宏の世界一私のシャンソン史-」(1988)
(注)
CDが従来のアナログ・レコードにかわるべく、ソニーとフィリップスによって開発され、デジタル時代の開幕を告げたのは昭和五十七年 (一九八二)。
ペコー主演映画『遥かなる国から来た男』がパリで上映中だった。