なかにし礼との出会い-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅲ 新たな旅立ち

2、お茶の間にシャンソンを

なかにし礼との出会い-1

(注)
テレビの普及(受信契約数)
 昭和三十二年(一九五七)
昭和三十三年五月
昭和二十四年四月
昭和三十五年カラー放送開始
昭和三十七年三月
昭和三十九年十月
とカラー放送について
五〇万台突破
一〇〇万台
二〇〇万台(四月一〇日、皇太子殿下(現・天皇陛下)ご成婚〉
NHK(∵日平均三七分)日本テレビ(一目平均一時間四五分)
一〇〇〇万台突破(普及率四八・五%)『くらしの窓』始まる
(東京オリンピック開催でテレビ普及率さらに急伸)

なかにし礼との出会い-1

『くらしの窓』では、各テーマ・コーナーは歌のコーナーをはさんで転換するしくみになっていた。毎回自分の歌いたい曲を二ないし三曲歌うのである。歌うとき私は一瞬、自分を取り戻した。料理のコツとか美容の秘訣、スカーフの巻き方、そんなコーナーで専門家に質問したあと、一曲歌うと救われる気分になったものである。
幸い私は、前にも述べたように、ラジオ番組で新しいシャンソンをたくさん勉強させてもらつていた。だから週三回、一回に三曲を歌っていくのに不足はなかった。イれでも新たにレパートリーを増やしていき、あのころの私の勉強は旅の車中から飛行機の中まで、いつも楽譜を持ち歩いて新曲に挑んでいた。こうした苦労はいま思い返してもさわやかで、ちっとも苦労とは思わなかったし、好きなことなので逆に積極的になるから健康状態もよく、病気などしたこともなかった。
訳詞のほうも薩摩さんに続いて、当時まだ立教大学仏文科の学生であった、なかにし礼さんと出会ったのはこのころのことであり、ジルベール・ペコーの曲を中心に新曲がどんどん増えていった。なかにし礼さんは学生時代からシャンソンが好きで、銀巴里に出入りしているうちにシャンソンの訳詞がしてみたくなり、歌い手たちのためにアルバイトで詞を書いたことが始まりだと聞いている。市ヶ谷の私の家に釆てもらい、フランスから取り寄せた原譜を渡して次々と訳詞をお願いした。
銀巴里からの帰り道ですといって市ヶ谷に立ち寄ってくれたこともたびたびであるが、私がピアノを弾きながら歌ってみて、少しでも歌いにくいところがあると、すぐに持ち帰り、翌日は二通り、三通りの訳詞を持って現れる。若き日のなかにし礼さんには脱帽した。この人は天才だ。きっと将来大物になる人だと、いつも心に思いながら付き合っていた。なかにし礼さんの書いてくれたペコーの曲は次々と『くらしの窓』のなかで歌われていった。「白い舟」「いない人」「もしもお金があったら」「ぼくの仲間たち」……。私は夢中で新曲と取り組み、彼も頑張ってくれた。