音楽を教わること、教えること-2

 幸福を売る男
     芦野 宏

 Ⅲ 新たな旅立ち

5、パリ・コンサートをめぐつて
 
 エピローグ 「日本シャンソン館」 に託す夢

 音楽を教わること、教えること-2

 この市ヶ谷の高台に建った新しい家からは九段の靖国神社がよく見え、両国の花火も部屋から見ることができた。
 父は実業家らしく堅実で、都内に何軒かの貸家を建てていた。わが家の隣に建てられた渋い和洋折衷の家は、有名な希音家(きねや)六治(本名・山田抄太郎)さんに貸していた。だから、隣ではいつも三味線の音色が聞こえていた。大勢のお弟子さんが出入りしていて、歌舞伎の世界では有名な方も来られたという。
 山田抄太郎さんは奥様との間にお子さんがなかったので、当時小学生だった私をヒロちゃん、ヒロちゃんと呼んでかわいがってくださった。三味線は教えていただけなかったが、私はいつの間にか「松の緑」と「元禄花見踊り」の一節を自己流で弾くことを覚えて、占星の前で弾いてしまった。「ヒロちゃん、うちの弟子になってください」と冗談だろうが、抄太郎先生はたいへん喜んでくださった。
 華やかな和服姿の女性が出入りしていても、洋楽と違って官憲のほうからの注意はなかったらしい。それにひきかえ、永田町の現在の首相官邸の裏にあった小さな貸家を借りていたヴァイオリニストとピアニストのご夫婦は、気の毒なことに三か月で家を追われた。ご主人は日本人、奥様は外国人であったが、ドイツ人と名乗っておられた奥様のほうになんらかの嫌疑がかかったらしい。日本を離れるとき、奥様が小さなヴァイオリンを片手にご挨拶に見えたとき、
とても悲しそうな表情であった。「日本ではもう音楽を演奏できないから、ドイツに帰ります」と言われた。私は小学生だったが、とても悲しい思いで玄関から二人を見送った。記念に二人のステージ写真をいただいたが、戦災で失ってしまった。

 中学生のとき、第二次世界大戦が勃発し、ますます非常時態勢は加速して、山田抄太郎さんのお宅も、家に防音の壁を作ったりして、華やいだ姿のお弟子さんたちはだんだん少なくなっていった。やがてこの市ヶ谷の家も強制疎開という名目のもとに取り壊され、永田町の貸家も戦災にあって跡形もなくなった。あのころはまったく無我夢中でその日その日を牛き抜くことだけしか考えられなかったし、写真も残っていないから、記憶の糸をたどっていくより什方がない。

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 日本シャンソン館・ライブスケジュール
しばらく中止させていただきます。
再開が決定しましたらご案内いたします。
日本シャンソン館 館長・羽鳥功二

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