NHK『紅白歌合戦』連続出場-1

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-1

めまぐるしく過ぎた昭和三十年(一九五五)も余すところわずかとなった十二月下旬のある日、前日に決まったらしいNHK 『紅白歌合戦』出演の話がとつぜん舞い込んできた。このころ年末に定着していた、恒例の行事も六回目を迎えており、徐々に人気が出はじめて、視聴率もウナギのぼりになっていた。
紅組・江利チエミさんの白組・対戦者として予定されていた、アメリカ人歌手が急にあちらでの仕事が延びたので日本に戻れなくなり、急きょ私に代わりに出てほしいという話だった。
そのころ人気絶頂だったチエミさんに対抗するのはちょっと気がひけたが、NHKからは丁重なご挨拶をいただいて、曲目は何でもいいからということなので出演することにした。まだシャンソンはレパートリーも少なかったし、紅白で歌うには地味だとも思ったので、進駐軍のキャンプでよく歌っていて、デビュー以前から歌いなれていたラテンの名曲「タブー」を選んだ。
しかし、この曲の強烈なラテンの色は出せず、むしろ静かな哀愁を感じさせるメキシコ民謡になってし、まった。
NHKでは年に一度のお祭り騒ぎということで、クラシックからは 「われらのテナー」藤原義江のほか、長門美保、柴田睦陸、大谷刺子(きよこ)、ジャズ畑から笈田敏夫、ぺギ一葉山、歌謡曲の東海林太郎、小唄勝太郎など、そして江利チエミに対抗して芦野宏が初めて選ばれたわけだから、デビューして日の浅い者にとってはたいへん名誉なことであった。司会は看板アナウンサー宮田輝、高橋圭三のお二人で、トリを取ったのは藤山一郎、二葉あき子であった。
クラシックからのおひと方、柴田睦陸先生は卒業以来ご無沙汰していた芸大の恩師である。
先生は「ラ・タンパルシータ」を完壁なスペイン語で、非の打ちどころのない発声で、タンゴのリズムに来って歌い上げられた。ごった返す楽屋の中で、私は先生にご無沙汰のお詫びを申し上げ、フランスのシャンソンをいま勉強していることを報告した。先生は「芦野君、よかったね。頑張りなさい」と励ましてくださった。
柴田先生は昭和六十三年(一九八八)、私が声楽のレッスンに通った成城のお宅で亡くなられた。私が学生のころ、絨毯の上に仰向けに寝かされ、重い本を腹の上にのせて腹式呼吸のやり方を教わった、そのあたりに先生の棺が置かれていた。私はだれとも話さなかった。胸がつまって声が出なかった。