冬の北海道-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-4

これは雪の北海道を巡演しているとき、公演地を確認しながら地図を広げて見ているうちに、ふと思いつき書きとめた詩である。地図を広げると大きなハンカチのように見える図形の北海道は、私に青春のいろいろな思い出をもたらしてくれた。
たあいもない、お粗末なものだが、私はこれを舞台から客席に向かい歌詞の一部を即興で歌った。楽団が適当に伴奏を付けてくれた。地名は帯広になったり釧路になったり小樽になったり、公演する地名を入れ替えるのである。プログラムには載せないでおいたから記録にはないのだが、私の古い日記帳のメモが思い出させてくれた。
なにしろ鈍行の列車を乗り継いで巡演するのだから、たいへんというより退屈なのである。
読書にも飽きてトランプ、花札をやりだすメンバーもいたが、、そのうちマージャンを車中でやることを覚え、四人掛けの椅子の中央にだれかが作ってきた二つ折りの板を置き、ゲームをしながら旅を続けるようになった。
目的地に到着すると中断して、続きは旅館のほうでやる。夜の公演が終わると、またその続きを夜中までやる。こんなふうにして、私の地方公演はマージャンとともに移動する習慣がついてしまった。知らず知らずのうちに、この私自身も見よう見まねでルールを覚え、マージャンの腕を磨くようになった。でも、いまだに点数は数えられないという素人である。
三社競作のSPレコード 芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。