三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。