アルゼンチンでタンゴの録音-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

アルゼンチンでタンゴの録音-1

稲塚保氏ご夫妻のお取り計らいにより、津田正夫大使主催のレセプションが私のために開かれ、各国の人々の前で私はアルゼンチン・タンゴの名曲「カミニート」を歌った。お返しにブエノスアイレスの女優さんがシャンソンとしても有名な「ウマウアケニョ〈花祭り〉」の詩を朗読してくれたときは、涙が出るほど感動した。稲塚氏は私が会いたかった人、「カミニート」の作曲者フィリベルト氏にも合わせてくださった。アルゼンチン・タンゴ発祥の地ポッカの港町に「カミニート」という街角ができて、そこに住んでおられた高齢のフィリベルト氏は、ピアノに向かって私の「カミニート」に伴奏を付けてくださり、「ムイビエン、ムイビエン(素晴らしい)」を連発した。そして記念に「ラ・カンシオン」という歌の楽譜を下さったイリベルト氏のレッスンを受けたので、私は自信をもってオデオン・レコードのスタジオに入った。ディレクターのロペス氏は、中年の陽気な紳士で、日本のディレクターのようにきめ細かいやり方ではなかった。まず「カミニート」を吹き込むことになり、アレンジ・パートが配られて練習に入った。ヴァイオリンを弾く楽士の一人が私のそばに来て、譜面と違う弾き方をしてみせた。「おれはこう弾きたいが、よいか」と言っている、と通訳が伝える。私はロペス氏に任せる、と答えた。そのうち別の楽士がとんできて「おれはこう弾く」と主張する。
他の方からまた別な意見が出て、スタジオは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
稲塚氏は仕事の都合で吹き込みの現場には来られず、部下の方を代わりによこしてくれたが、まだ若い彼はスペイン語が堪能でなかった。若林氏も、まだ着任して日が浅く、どうしてよいわからぬ様子である。オデオン・レコードのロペス氏は英語がわかる人だったので助かった。