第二章 パリの夜

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1、出発(1)

葵はパリには一度訪れたことがある。

パリの思い出の中にはほろ苦い部分もあるが、それは、学生の頃の余裕のない過密スケジュ-ルでの急ぎ旅だったからであってパリのせいではない。

パリは葵の心を豊かにしてくれる。パリは葵にとっても永遠に憧れの花の都なのだ。

そのパリに出発するとなると、やはり心は浮き立ってくる。その浮き立つ気持ちを伝えようと何人かのメルトモには「GW中は不在です」とメ-ルを送ったが、何の反響もなかった。どうせなら少しはかっこよく、「GW中はパリです」にすべきだったと、今になって悔いているがもう遅い。

たった一人だけ、「同じく」と返信してきた「ジロ-」という男がいる。

この男からは10字以上のメ-ルが来たことがないから問題外だ。何が「同じく」だ。この旅から戻ったら、絶対に「リストから削除しよう」と葵は思った。

だが真相は少々違っている。このジロ-からのメ-ルは葵が出すと返事が来るだけで、ジロ-からは一度も先に来たことがないことに葵は気づいていない。
葵が一方的に出し続けているメ-ルにしても10字以内なのだから、葵は文句を言える立場ではないのだ。

ジロ-と葵との縁は、葵が発行しているメルマガからだった。そのメルマガを見た友人から転送されたジロ-が、葵の出したメルマガクイズに冷やかしで応じたことから始まったメ-ル交流で、まだ親しいメルトモという仲でもない。面識もないから性別や年齢もお互いに知らない。ただ、ジロ-という名からして男性ではないかと推察するだけだが、ペットの名を用いる女性もいるから、全てが謎のままだった。これがメルトモの世界ともいえないこともない。

しかし、さすがに忙しいときは、何にでも興味をもつ葵でもこんな相手にメ-ルするのは「時間のムダ」と思うこともある。それでもなお、こんな無意味なメ-ルでも忙しい生活の息抜き、あるいは一服の清涼剤として役立つとしたら、この「時間のムダ」も無意味ではないのかも知れない。

ともあれ、葵はゴ-ルデンウイ-ク三日目の月曜の朝、上野から京成電鉄の特急スカイライナ-に乗って成田の東京国際空港に向かった。

葵と恵子が搭乗するJAL405便の出発は第2タ-ミナルビルの3Fに続くサテライトからだから、終点まで行かずに、終点より一つ手前の空港第二ビル駅で下車した。

この日の葵は、黒で決めていた。

帽子がまずひさしの長い黒のキャップ、大胆に胸の空いたオレンジ色のカ-ディガンに黒のジャンバ-がよく似合う。足元は歩きやすいスニ-カ-、これも黒だ。

もちろん、万が一を考えてディナー用の衣装もハイヒ-ルも荷物には入れてある。

恵子との約束通りに朝九時には成田空港に到着した葵だったが、大型連休初日の空港は溢れるような人の波で、しかも人々の多くはリュックを背負うかショルダ-バッグを担いだ上にキャリ-付きの旅行用トランク持参だから、動こうにも動けない。

まるで、雪山で新雪に腰まで浸かってピッケルを前にして左右に分けて進むラッセル状態で、葵は大変な苦労を強いられた。しかも、ようやく恵子との待ち合わせ場所であるJ

ALの団体客カウンタ-前にたどり着いたが、そこもまた人の群れで恵子の姿を一目で探すなどは奇跡に近いことだ。旗でも振っている添乗員がいたらと探すが、それも見当たらない。

時計を見ると、すでに9時半を過ぎている。

焦る気持ちを静めながら携帯で恵子を呼び出すと、断続的な呼び出し音が思わせぶりに5回も続いて、恵子が出て先に喚いた。

「葵……ごめん! 特急で終点まで来ちゃたんで今、第1タ-ミナルから連絡バスに乗って第2に向かってるとこなのよ。もうすぐ着くからね」

「終点より一つ手前の駅って、恵子が教えてくれたんじゃない?」

「そうだけどさ。うっかりしちゃたのよ」

「これで間に合うの? 私は今、JALのカウンタ-前にいるけど」

「そこ動かないでね。時間は大丈夫よ、出発は11時45分だから」

「手続きの時間は?」

「先に手続きして搭乗できるようにしておいてね。すぐ行くから」

「でも、どこかにツ添乗員がいるんでしょ? 旗を持って」

「そんな立派なツア-じゃないよ。カウンタ-にチケットを出せばすぐ搭乗券に換えてくれるだけよ」

「添乗員は?」

「うちの会社の特価ツア-で社員二人はムダでしょ? 私が行くことになった段階で、正規の添乗員はほかの仕事にまわされたみたいよ」

「そんな、人ごとみたいに言わないでよ。じゃ、事故があったら誰が責任とる?」

「誰も……この混雑で団体行動なんてとれる? このツア-はそれぞれが自己責任で動いてもらうことで了承がとれているから心配ないの。それより、ユ-ロに換えた?」

「まだだけど?」

「じゃあ、私がユ-ロとセントに換えてあげる。」

「余分にあるの?」

「会社が120円代の安いレ-トの時に換えてあるから、今日の相場の140円より一割も得するみたいよ.足りない時は、円でも使えるからね」

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2、出発(2)

ようやく恵子が到着して荷物も預けて搭乗手続きも終わり、二人は金属探知機のセキュリティェックも済ませて92番ゲ-トに急いだ。

この日の恵子のファッションも葵と似たりよったりだが色彩感覚の好みが違う、恵子は青系のおゃれでまとめていてジ-ンズの色も紺より青に近い。恵子の持つ知的な雰囲気が何となく青系に似合うように出ているから妙なものだ。

搭乗ゲ-ト前で、出発案内を待つ人だかりを見た恵子がカメラを取り出した。

「1回でいいからね」と、すぐ撮れるようにセットしたデジカメを葵に手渡して立ち上がった。そこから信じられないことが起こった。

405便のパリ行きの搭乗手続き開始の合図を待つ3百人を越す乗客に向かって、恵が手に持った棒のない布だけの東京ツ-リストのロゴ入りの旗を両手で大きく広げて叫んだのだ。その瞬間、葵がデジカメのシャタ-を押した。

「東京ツ-リスト・パリツア-に参加の皆さま。楽しいご旅行をどうぞ。
つぎは、パリ時間で5月5日の21時30分にロワシ-空港タ-ミナル2デウ・エフのJALカウンタ-でお会いしましょう」

さっさと旗を丸めた恵子は何くわぬ顔で引き上げてきて、葵の手からデジカメをとって自分の晴れ姿を覗き、「これで証拠写真もあるし、仕事は終わった」と、安堵の表情を見せた。葵はその恵子を呆れて眺めながら、この神経なら心配ないと思った。

この中で東京ツ-リストのツア-客は、わずか16名だと葵は聞いている。
恵子のこのパフォ-マンスは3百人余の多くの乗客には何のことかさっぱり分からない。案の定、搭乗待ちの何人かがゲ-トに待機中のJALの社員の元に駆けつけて説明を聞いている。葵が近くに行って耳を傾けると、「5月5日になぜ集まらなければいけないのか?」とか、

「21時30分はパリ時間か? 日本時間か?」などと心配げな人が続出した。おかげで搭乗が送れ離陸が8分遅れた。その原因は恵子にある。

ともあれ8分遅れで、定員347人乗りのジャンボ747LR機は満員の乗客を載せて4月31日・月曜日正午前に快晴の成田空港を飛び立った。

ツア-客は後部のエコノミ-ゾ-ンにまとまっていたが、葵の席は恵子の計らいで主翼から少し離れた、左側窓際だったので、外の景色を眺めるには絶好の位置にあった。

眼下にディズニ-ランドからベイブリッジ、都会の風景が見えたが、それもたちまち視界から遠ざかり、関東平野から南アルプスを越えて新潟上空で正午となり日本海に出るころには高度も3万フィ-ト(約9千m)を超え、速度も5百マイル(約830km)に上がっていた。

キャビン・アテンダントが制服にエプロン姿でワゴンを押して客席を回り、和食と洋食で選べる昼食が出て、機内の賑わいはますます旅行気分で盛り上がった。

機内のスクリ-ンには地図の上を、刻々と移り行くジャンボの機影があり、高度や速度が刻々と映し出されてゆく。時間の経過とともにアルコ-ルも出回って機内は雑談や人々の動きで機内が賑やかになってきた。恵子がどうでもいい雑談で退屈を紛らわせる。

「ところで、葵は国内各空港の搭乗者利用率の順位なんて知ってる?」

「それは、成田、羽田、関西空港の順に決まってるでしょ?」

「大外れ。成田は約6割でダントツの1位だけど、2位が関空で約2割……」

「羽田は3位ってこと?」

「3位は中部空港で約1割、後の1割を4位の福岡、羽田は5位で6位が千歳空港、その他がもろもろの地方空港ってとこかな。でも、年々飛行機の利用客は増えてるのよ」

「そうか。そうなると空の過密は解消されそうもないのね?」

「大丈夫、これからは550人以上を乗せて飛ぶ総2階建てのエアバス「A380」の時代だから……もっとも、全長72メ-トル、幅もジャンボより15メ-トルも長い79メ-トル、離着陸にも距離をとるから、国際空港じゃないと無理だけどね」

そのとき、さらに葵を驚かす出来事が起こった。

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3、機内にて(1)

なんと、恵子に男性が挨拶に来たのだ。これは驚かずにはいられない。

「佐川さん。お久しぶりです」

「あら、宇野さん!」

キャビンチ-フの制服着用の素敵な男性が、恵子に隙のない笑顔を見せている。

「佐川さんは、いつもお美しくてお変わりありませんね」

「宇野さんもお元気で何よりです」

「今回もツア-のお客さんと?」

「ええ、添乗員が不足なもので……ただし、同行はこちらの友人一名だけですけど」

「今日は、ファストクラスもビジネスも満席ですので、こちらでご勘弁ください」

「いえ結構ですよ。今回のフライトは12時間20分でした?」

「気流の関係で前後するかも知れませんが、今のところ問題ないようです」

美しい、と言われて気をよくした恵子が、得意気に葵を紹介した。

「こちらは、親友でイラストレ-タ-の山田葵……宇野さんです」

「よろしく、JALの宇野勝男です」

「はじめまして、山田葵です」

葵の名を聞いて、長身でハンサムな宇野が首を傾げてから遠慮がちに問いかけた。

「山田……アオイさん? まさか、メルマガ・アルアル通信の山田さんじゃ?」

「その山田ですが?」

「やっぱり、私がハンドルネ-ム『ソラ』ですよ。ほら、メルトモの……」

「あなたが、ソラさん?」

葵が驚くと、宇野が腰をかがめて恵子の顔越しに手をさし伸べてきた。

「奇遇ですね。メルアドがアオイさんでしたから、私はてっきり青井さんは男性だとばかりに思ってましたよ。文面が中性っぽくて淡白でしたからね」

仕方なく握手に応じた葵がすぐ手を離すと、歯の浮くような世辞を宇野が言う。

「でも、こうしてお会いしたら、すごい女性っぽいベッピンさんで驚きました」

「わたしは、もともと女っぽいつもりでしたが?」

「でも、アオイさんのメ-ルはぶっきらぼうですからね。数日前にきた最新のメ-ルは確か『GWは不在です』だけでしたか? あれじゃあ返事する気にもなれませんよ。これでも返信する人がいたら、よほどの変わり者ですな」

「そうでしょうか? 変わり者は一人だけでした」

「やはり、そんな変人がいるんですか?」

フフッと鼻の先で笑ってから宇野が真顔になった。

「いつぞやのメルマガで、山田さんは紅葉伝説というのを書いておられましたが、妖術を使う紅葉という女が鬼になって滅ぼされるという話が載っていましたが、女性の思慕と憎悪が怨念となって燃え盛るさまが見えて……あれから女性が怖くなりました」

恵子が言葉をはさんだ。宇野が自分より葵と親しげに話すのが気になるらしい。

「宇野さんは、そう言いながらもコマメに女性に近づいてるじゃないですか?」

「近づいてなどいません。吸い寄せられているのです。現に今だって、美女二人に吸い寄せられたじゃないですか。ところで、山田さん」

恵子がムッとした表情で宇野を睨み、葵が無表情に応える。

「なんですか?」

「あのメルマガに占いが載っていますが、あれ面白いですね」

また恵子が引き取った。

「葵は占いも得意なんですよ」

ちょうど機内が静かになった時だったから、かなりな距離の座席にまで恵子の声が届いたらしく、乗客や近くにいたキャビン・アテンダントの視線がいっせいに3人を見た。

明らかに「占い」の2文字に反応したのだ。

その視線は、客室乗務員のヘッドである宇野が乗客の若い女性二人にチョッカイを出しているのを非難しているようにも見えたから、宇野があわててその場を去った。

葵も何となく、「あの占いは母が……」の一言が言えなかった。

問題はこれからだった。

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4、機内にて(2)

しばらくして、葵の前の席の女性二人連れの50代と思われる品のいいご婦人が立ち上がり、座席越しに振り向いて頭を下げ、手に持った紙片を葵に手渡した。

「済みませんが、相性をみて頂けませんか? 女性は私で男性は夫、この旅行から帰ったら離婚しようと思っているのですが、決心がつきませんので」

内容が深刻だから葵も真剣になる。看護師で占い師でもある母親から聞いた耳学問だから精一杯考えても自信がない。それでも椅子越しにカンを交えて小声で答えた。

「昭和29年1月23日生まれですと、節分までは前年で見ますので、生まれ年は九星でいえば二黒土星、12支でいえば巳年ですね。二黒土星は我慢強く控えめで、人を育て人に奉仕して尽くすタイプで、巳年は粘り強さと執念深さがありますので、今までの我慢を長い間耐えてきて、今になって我慢が出来なくなったのかも知れません。生まれ月は九紫火星の丑ですから華やかな理想を描き粘り強くチャンスを待っているのも特徴といえますね。

一方、ご主人の昭和25年6月10日は、五黄土星の寅年で、七赤金星の午月生まれですから、正義感が強くてよく働きますが多趣味で派手好みの遊び好き、生月の九星から生年九星をみる星は新しいもの好みの震宮(しんきゅう)傾斜といい、若い女性に興味があるように思えます。これがご夫婦関係の問題のような気もしますがいかがですか?」

「驚きました! その通りです。じつは主人が浮気をしまして……で、相性は?」

「生まれ年の二黒土星と五黄土星は同じ土の気質で吉、巳と寅は破の関係で凶、生まれ月は九紫火星と七赤金星は火が金を溶かして凶、丑と午は過不足ありません。これで考えますと、相性は確かによくありません。でも、家庭は相性だけでは説明がつかないこともあるようです。ご主人の浮気も過去の過ちとみて許してあげたらいかがですか?」

ご婦人が葵の顔をじっと見つめ、額にしわを寄せて言った。

「あなたなら、夫が浮気しても許しますか?」

「いえ、許しません。すぐ叩き出します!」

その言い方があまりにも真剣だったので周囲がし-んと静まり返った。その異様な雰囲気に呑まれて葵はあわてて訂正した。その声が少々大き過ぎたのが悔やまれる。

「叩き出す前に、私も浮気します!」

葵自身は顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いをしたが、ここで周囲の緊張がほぐれ、次から次ぎに手相を見てくれの子供の進学だのと、乗客だけでなく客室乗務員も交代で来るから葵はもう仮眠する暇もない。

仕方ないから口から出まかせで言うのだが、それが当たっていると言われて、いつの間にか周囲からは、山田先生と呼ばれ、にわかマネ-ジャ-の恵子がお金は断るが、お菓子は頂くからたちまち食品が山のように集まった。そのお菓子をクル-の皆さんで分けて、と気前よく乗務員に上げたからまたモテる。

こうして、葵はパリの北にあるロワシ-空港到着までの間、休む暇もなくこき使われ、休暇気分など吹っ飛んではなはだ面白くない。それでもロワシ-のシャルル・ド・ゴ-ル空港到着寸前には占いから開放され、ホッとして気持ちが安らいだ。

ロワシ-空港到着は現地時間で14時50分だった。機内で時差を調整した時計を眺めて逆算すると、到着までのフライト時間は成田を出て約12時間余の遠い旅だった。

この世界有数の巨大空港は国際的にはシャルル・ド・ゴ-ルだが、フランスではロワシ-の呼称が一般的で、タクシ-にもそう言えばいい。そこまでは葵も知っている。

ただ、ここに一人で放り出されたら……そう思うとゾッとする。

JALとも関係が深い旅行会社に勤める恵子は、もともとキャビンクル-の何人かとは旧知の仲だったが、葵までもが占いを通じてクル-とすっかり打ち解けていた。

葵と恵子が泊まる宿は、自由の女神像のあるグルネル橋際の以前はオテル・ニッコ-だったノボテル・トウ-ル・エッフェルという全階で764部屋もある大型ホテルで、キャビンクル-とは同宿だった。恵子の勤める観光会社が、日本語の通じるホテルということで、よくここを使っていた。

それを知った宇野の勧めでクル-のバスに便乗することになり、おかげで空港から26キロの道のりを高速道路を利用しながらもエッフェル塔周辺のパリ観光を楽しむことができた。快晴の午後のパリの市街はまぶしいほど明るかった。

マホガニ色の明るい外装の目立つホテルに着くと、クル-を集めた宇野キャプテンが、慣習になっているミ-ティングで、解散後の心得を規則通りに喋っている。それを聞いてクル-のこの日の勤務は終わるのだ。

それを横目に見て、チェックインした葵と恵子は25階の部屋に入り、運ばれた荷物を開いてから交代でシャワ-を浴び、ラフな服装に着替えると気分も楽になる。

部屋は壁もカ-テンも明るいベ-ジュ系と木肌を生かした薄い茶系で統一されていて、ツインベッドにデスクも冷蔵庫もテレビもインタ-ネット接続のブロ-ドバンド完備で何の問題もない。

広い窓にかかったベ-ジュ色の縞模様のカ-テンを開くと眼下にセ-ヌが流れ、グルネル橋のたもとに自由の女神の像が小さく見えていて、対岸の放送局の建物がカッコいい。恵子が葵に言った。

「今日はオペラだけど、明日か明後日はセ-ヌ川クル-ズだからね」

「そんなに、あちこちに行けるの?」

「帰りの便に乗るまでは目いっぱい遊ぶのよ」

パリの初日の夜はオペラだった。19世紀からの文化の殿堂としての歴史を誇るオペラ・ガルニエは、新たにオ-プンしたオペラ・バスティ-ユにオペラの主役を譲り、バレエを主としていたが、今回は特別公演でシェ-クスピアのロミオとジュリエットをオペラで演じることになっていた。なんと、そのチケットを旅行をキャンセルした客がゲットしていて、無用になったからと寄付してくれたのだから感謝の言葉もない。どうせ、フランス語のオペラでは二人には通じないが、演目がロミオとジュリエットならジェスチアと雰囲気だけでも充分に理解できる。ここは絶対に見逃せない。

シャワ-で旅の疲れをほぐすと、時差ボケも何となく飛び去ったような気がしてスッキリした。二人はすぐ外出の支度をした。

「さあ、出掛けよう!」

気合を入れて二人は身支度を整えて部屋を出た。

ジ-ンズからスカ-トに、スニ-カ-からハイヒ-ルへと、ほんの少しだけドレスアップしただけで、葵も恵子もガラリと雰囲気が変わって優雅になる。

フロント前のソフア-で英字新聞を読んでいた宇野がびっくりした表情で目を見開いて二人を見た。その視線に応えて笑顔で手を振ってホテルを出た二人は、玄関前で客待ち待機中のタクシ-に勢いよく乗りこんだ。だが、葵も恵子も英語は多少話せるが、フランス語となるとまるで自信がない。

葵がとっさに、「ジャコブ スィル ブ プレ」と言ったところ、運転手が「ウイ」と返事をして車は走り出した。これで葵が自信を取り戻したのだから単純なものだ。

オペラ座に行く前に早めの夕飯と、時間に余裕があれば葵の希望した骨董品の店めぐりを、と考えて、まず骨董品の店が並ぶジャコブ通りを目指すことにしたのだ。

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5、パリの事件(1)

5月初旬のパリは日足が長く、午後5時を過ぎてもまだ街灯もネオンも点いていない。

街路樹のマロニエの梢が揺れて緑さわやかな季節を知らせていた。

タクシ-の中で恵子が、午後7時からの観劇を前に「軽く腹ごしえを」と言い始めたが食事となると葵も反対はしない。ただ、時間が気になった。恵子が軽く言う。

「いいのよ。どうせタダ券なんだから、2幕目からでいいのよ」

その時はまさか、それが現実になるとは思っていなかったのだが……。

車は、陸軍士官学校とユネスコからサンルイ教会を横目に見てパリ市南東部のサン・ジェルマン大通りからセ-ヌ通りを抜け、ジャコブ通りに向かっていた。

恵子が地図と照合しながら左手の大きな建物を指さして運転手に聞いた。

「ユニバ-ス サンク パリ?」

運転手が頷いたので、これがパリ第五大学であることだけは分かった。

「じゃあ、そこでストップ!」

車を止めた恵子が料金をユ-ロで支払うと、運転手が手振りを交えながら、すぐ先がジャコブ通りであることを教えてくれた。

「メルシ ボ-ク-」

とか言っていってタクシ-を降りた二人の目の先に、「ロ-ズ・デ・プレ」というしゃれたレストランがあった。先に食事をしてからオペラ座に行くというのが二人の合意だったから迷わず足がその店に向いたのは仕方がない。

「ここで食事しょう」

食後に時間の余裕があれば、葵の希望通りに、骨董品店などが軒を連ねるジャコブ通りを散策することになっていた。これは、古美術品に興味のない恵子は反対を押し切った葵の強情さによる予定外行動なのだ。

「西洋の骨董品はガラクタでも味があるからね」

「そんなものかしら」

葵の呟きに面白くない顔で生返事をした恵子が、先にレストラン内に入った。

葵は店に入ってすぐ後悔した。そこはベトナム・レストランだったのだ。

「パリまで来てベトナム料理?」

「この辺りにはフランス・レストランはないからね」

エスニック料理が苦手の葵が文句を言うと、恵子が開き直った。

「ベトナム料理だってパリで食べればパリの料理でしょ。それにここは美味しいのよ」

仕方なくレストランの窓際のテ-ブルに座って店内を見回すと、あちこちに東南アジアらしい観葉植物が置かれた自然型インテリアの店作りで、なかなか雰囲気がいい。問題は料理だ。

ベトナムの民俗衣装を着たウエイトレスが笑顔で寄ってきて、言葉の通じない客用なのか写真入りのメニュ-を持って何やら挨拶をする。「ボンジュ-ル」までは分かるが後は

「・・・?」で意味不明……日本的に笑顔で応じるだけだ。

ウエイトレスが置いていったメニュ-を眺めて恵子が言った。

「面倒だからコ-スにしようか? 葵が選んでよ」

その提案に葵がしぶしぶ頷いた。そんな雑な注文の仕方は好きじゃないが、まったく未知の料理だから文句も言えず妥協するしかない。

葵も恵子も英語なら何とかなるが、ベトナム語とフランス語にはお手上げで、いくつかのコ-スの中から美味しそうな写真を選んで、葵が「これ!」と、指さして頼んだのが吉と出るか凶と出るか?

手を挙げてウエイトレスを呼び、注文したコ-スを指で示すと彼女が英語で言った。

「これ、当店のおすすめです」

ウエイトレスが去ると恵子が言った。

「最初から英語で言えばいいのにね」

「あれこれ迷われると迷惑だからでしょ。決まれば何でもお勧めなんだから」

注文した食事を待っていると、同じ窓際ながら葵達とは少し離れた奥のテ-ブル席から激しい口調の会話が聞こえてきた。

二人が驚いて振り向くと、40代と見えるメガネの日本人でチョビ髭の男と、50代のイタリ-系らしい小太りの男がフランス語で激しくののしり合っていた。イタリ-系らしい男の横には30代後半と見える金髪の女性がいて、無関心な表情で外を眺めている。

「多分、あの男は日本人よ。商談にしては険悪な雰囲気ね?」

横目で覗き見した葵は、口から泡を飛ばさんばかりに激しい言葉を投げかけているイタリア系の男の右頬に大きな傷痕があるのを見た。そのうち、無関心そうに見えていた金髪の女性が間に入って双方をなだめ、その場は収まった。イタリア男も連れの金髪女性の説得で気を取り直したらしく、チョビ髭の男につくり笑いを見せてポケットからタバコを取り出し、「店内は禁煙だから……」と言うように口の前で手を横に振ってからチョビ髭男に手渡し、握手を交わしている。どうやら、タバコ1個で和解したらしい。

その後のことは葵も恵子も記憶にない。ほどなくして次々に料理が出てきたので、他人のことなど気にしていられなくなったのだ。

頼んだ料理は吉と出た。

生野菜の野菜巻き、春巻風の揚げ物、肉と野菜の炒めもの、パパイヤ入りのサラダ、蒸し餃子、アヒルの肉入りス-プ、豚肉チャ-ハン、それにマンゴ・アイスクリ-ムのデザ-ト……葵もパパイヤだけは苦手だったが、それでも「美味しい」と喚きながら夢中で食べて恵子同様に大満足の顔になっていた。ともあれ葵も食事には弱いのだ。

「あら、あの人たち、いつの間にか帰ったのね?」

葵も恵子も、テ-ブルに食事が並んだ瞬間から自分達の食事に夢中で、彼らがいつ姿を消したのかも記憶にない。二人は満腹感を抱えて店を出た。しかも、日本円に換算すると一人約3千円だから料金面でもまあまあの感がする。

「さあ。オペラだよ」

「だめよ。この先がジャコブ通りなんだから」

6、パリの事件(2)

レストランを出てしばらく歩いてすぐ左折すると目指すジャコブ通りだった。さすがにアンティックなしゃれた店がずらりと軒を並べていてマニアを招く街だった。葵は骨董屋の店内に入ったりショウウインドウから眺めたりで興味深く食器や工芸品を眺めたり触れたりして真剣なのだが恵子にとっては何の興味もないらしく、ただ葵に付いてぶらぶらと歩いているだけだった。この時点ではまだ、オペラの幕開けにはぎりぎりで間に合うはずだったのだが。

「映画のロケかしら?」
詮索好きな恵子が、目ざとく何かの異変を嗅ぎつけた。

恵子の視線を追って葵も遠くを見ると、確かに人だかりの先で赤色灯を点滅させたままのパトカ-が数台、救急車も停まっているようにも見える。

「行ってみようか?」
これで葵の頭から骨董品が消えた。

二人が人込みに近づくと、長身の警官が群衆を整理していてる。見回すと人込みの中に日本人らしい男女がいた。

「葵、見て。あのサングラスの男、落ち目タレントの柳沢敬三じゃない?」

「女性の方は?」

恵子の目線を追うと、長身の日本人が女連れで人込みから立ち去るのが見えた。

「そういえば柳沢みたい。あら、あの女もタレントの赤森サヤカ……かな?」

その男女の姿は、たちまち人込みに消えた。

「ちょっとだけ覗いてく?」

好奇心旺盛なのは恵子も同じだから行動は早い。野次馬をかき分け、立ち入り禁止のテ-プの手前にたどり着いて中をのぞいたとき、フラッシュが光った。

ロケどころか、鑑識班に囲まれてシ-トに包まれた男の死体が横たわっていて血が舗道に流れている。検視官の指示で死体の顔の部分の位置が動かされ、再び写真班のフラッシュが光った。男の顔のメガネとチョビ髭に見覚えがある葵と恵子が、驚いた様子で顔を見合わせた。

「さっき、レストランにいた人よ!」

恵子が思わず口走ると、葵が「シイッ」と唇に指を立てた。厄介な事件に巻き込まれたくないからだ。しかし、二人の声と動作は、日本語の分からない周囲の目を一瞬にして引きつけたようで、群衆の整理にやっきとなっていた警官も振り返った。大輪の花のように華やかな葵と恵子に、野次馬の視線が無遠慮に向けられる。スタイルもいいし、観劇目的でほんの少しだけドレスアップしているからなお目立つ。

警官が二人を見てなにか言い合っていたが、死体を囲んでいた制服の警官と背広姿の刑事二人が、葵と恵子に近づいて来て、交互に早口のフランス語で話しかけ、同じことを繰り返して聞く。

話が長引いたのは「顔見知りか?」という意味で葵に聞いた警官に、葵がとっさに「ついさっき見かけました」という意味を答えられずに、知っているフランス語で「ジュセ」と応えたのが食い違いの元らしい。「ジュセ」はイエスという意味だから、警官は被害者と葵が知り合いだと誤解したらしい。

フランス語では通じないのを知った警官が、少しだけ英語の話せる刑事を呼んで来たことで、ようやく英会話になった。それを訳すとこうなる。

「この人を知ってるんですね?」

これが誤解の元で、英語になってお互いの意思が通じた。

「つい先刻、そこのベトナム・レストランで見かけた人です」

葵と恵子は確かに、レストランでこの男を見てはいるが、テ-ブルに食事が並んだ瞬間からは自分達の食事に夢中で、彼らがいつ姿を消したのかも記憶にない。ただ、この死体がその男であるのは間違いない。これを警官に告げた。

ようやく言葉が理解され、二人の証言を確かめに数人の警官がレストランに走った。

刑事が葵と恵子を呼んで背広の裏を示し、と英語で「この人は日本人ですか?」という内容の質問をする。見ると、漢字の刺しゅうで「迫丸」とあった。

「サコマル……多分、日本人だと思います」

一瞬、緊張した顔の刑事が、直ちに本部に連絡を入れている。多分、身元確認に日本大使館職員の立ち会いを要請したのだろう。身元が判明した場合は、大使館から遺族を 呼び寄せねばならないからだ。

本部と連絡を終えた刑事が、葵と恵子に「シ-クレット……」とクギを刺し、ある日本のVIPと随員の秘書2名が誘拐され、その一人がサコマルとだと言った。死因は東洋系の男に拳銃で心臓を射抜かれたのが直接の死因だが、検視の結果、サコマルが手にしたタバコから薬物が出たことで急性薬物中毒で倒れかけたところを至近距離から撃たれたとも考えられる、と言う。

その刑事は、貴重な証言に立ち会ってくれた二人への礼心としてなのか、蛇衣に付いた火薬と煤煙の残留量からみて40センチという至近距離からの必殺激射で、心臓を射抜いた9ミリ弾は背中を貫通し、近くの舗道に落ちていたという。

葵が沢口課長から依頼された事件は、すでにこの時点で大スク-プなのだが、葵の気持ちはすでに新オペラ座に向いていて、すでに事件への好奇心も高揚感も薄れている。

それでも、ごく自然にバッグからデジカメを出して何枚かの写真を撮ったのは、日頃のポジティブな生き方と職業意識が自然に出るから妙なものだ。

刑事の話だと、死体からは身元を証明するものはパスポ-トをはじめ何も発見されていないし、皮カバンも奪われたとか。それだけに、二人の証言は貴重だったようだ。

さらに、その刑事は、誘拐された秘書がなぜここに現れたか? その疑問も犯人を追えばすぐ解けるし、誘拐された日本のVIPの所在も掴めるかもしれない、と、興奮気味に二人に話したのも軽薄だったが、これも東洋の美女二人を目の前にしたのだから無理もない……と葵は思った。だが、この思いは恵子には話せない。すぐ図に乗るからだ。

警官に伴われて、レストラン「ロ-ズ・デ・プレ」のベトナム人店長が現れた。

死体の傍に店長を近づけて、刑事が「レストランに来ていた客に間違いないか?」と、確認を求めると店長が頷いた。それに続いて、被害者が死亡した時の目撃者も出た。

目撃者は、この付近を縄張りにして、引ったくりや置き引きを目的に獲物を求めてたむろしているジプシ-の少年たちだった。

ジャコブ通りの街路樹の下で、皮カバンを抱えた男が立ち止まってタバコに火を点けて一服していたが、突然、身体を苦しそうによじりながら街路樹に寄り掛かった。その直後に男の手から皮カバンが音を立てて舗道に落ちた。

その音に気付いたジプシ-の少年たちが、男が手放した皮カバンを狙って駆け寄ろうとしたとき、横合いから走り寄ったアジア系の男が、コ-ト裏から拳銃をとり出して少年たちを脅して遠ざけてから木にもたれている男に近寄り、至近距離から拳銃を突きつけて一発発射し、崩れ落ちる男の足元から皮カバンを拾って素早く逃げたという。

獲物を横取りされた悔しさを顔に出した少年らは、「あいつこそ悪党だ!」と、刑事に向かって目を剥き口を尖らせて繰り返しわめいていた。

これで葵と恵子は開放され、貴重なオペラ座のチケットをムダにしないで済んだ。

7、オペラ座(1)

「いよいよ、待望のオペラだね」

だが、今から急いでも開演には間に合わない。幕開けから観られないのは残念だが、それでも、キャンセル客がプレゼントしてくれた貴重なチケットだから無駄になどにはしたくない。

二人はようやく捕まえたタクシ-に乗りこみ、「オペラ・ガルニエ」と行く先を告げたが、すでに開幕時間には間に合わない。車内で恵子がクレ-ムをつける。

「もう、骨董屋とかアンティック趣味なんて止めなよ」

「どうして?」

「おかげでイヤな事件に出あったでしょ?」

「そんなの私の趣味と関係ないわよ」

「大ありよ。葵は恋愛でも何でも保守的なんだから」

「余計なお世話よ。恵子こそ、くされ縁はまだ続いてるの?」

「やめて、きっぱり切ったんだから。これでも悩んでるのよ」

つい数週間前のことだが、玉の輿(こし)とはやされて交際していた恵子は、その恋人が複数の女性と交際していたのを知って、いいわけ無用で別れたばかりだったのだ。

「今度は甘い話には乗らないし、絶対にいい男をキャッチするからね」

恵子の絶対は、耳にタコが出来るほど聞き飽きている。

「そうだ、恵子。この旅を幸せを求める旅にしよう!」

「幸せを求める旅か……それなら大賛成よ」

国立美術学校の横からカル-ゼル橋を渡ってセ-ヌの流れを眺めてアンドレ・マルロ-広場に出れば後は、日本の有名デパ-トや銀行も名を連ねているオペラ大通りを一直線に走ってオペラ・ガルニエに着いた。

演し物も筋書きも分かっているからといっても、幕開け前の観客の興奮から観てこその観劇なのだ。なのに開演には間に合わなかった。

次の幕間まで待たされて大歓声と拍手の後で3階右サイドの指定席にたどりつくと、1階の正面桟敷から6階の立ち見席までの場内はすでに華やかな観客で超満員の盛況で、すでに場内の雰囲気は最高に盛り上がっていた。赤と金の色彩を意外なほどシックに感じさせる場内と2千2百の客席、大理石の壮大な列柱……二人共、ここで観劇するのは初めてだから感激も大きい。二人の席は舞台からは横になる位置だったが3階から見下ろす舞台の光景は悪くはない。これで、バレエの2倍もするというオペラの料金がもっと安ければ申し分ないのだが……

これは、タダ券で観劇する葵の言うべきことでもない。

パリで人気急上昇中という新進の俳優たちによって上演された芝居は圧巻だった。

カン違いからの薬物で絶命したオフェリアを抱きしめたハムレットが、悲しみの心を歌い上げると客席からすすり泣きが波立ち、幕が降りてからもカ-テンコ-ルの喝采が鳴りやまず、それから何度か幕が開いたり閉じたりして主演の男女と主だった俳優が舞台に立ち拍手の嵐を浴び、客も立ち上がってさらに盛大な拍手を送った。こうしてオペラ座の夜は終わった。

8、オペラ座(2)

恵子が余韻に酔いしれて目を閉じ、葵がうっとりと呟く。

「あたしも、ああやって抱かれて死にたいな」

「バカね。愛の流刑地じゃあるまいし、死んだら何もできないでしょ」

「どこかで30分ぐらい、お茶してく?」

「いいわね」

「分かった。じゃあ、スナックかサパ-クラブと思ったけど、ディスコにする?」

「そんなのあるの?」

「ここだと、クラブ・ナインかな?」

葵にも異論はない。このままホテルに帰る手はない。恵子がタクシ-を止めて、「カフェ・ド-ヴィル、OK?」と聞くと運転手が頷いたので車に乗り込んだ。

「その店に行くの?」

「いまのは有名な店で目標よ。そこで降りてからクラブ・ナインって店を探すの」

夜のシャンゼリゼ通りは不夜城そのもので、車も人も溢れていた。短い時間のドライブを楽しんで二人はカフェ・ド-ヴィルとネオンのある店の前で車を降りた

「この辺りには、旅行関係者やクル-の行きつけの店が何軒もあるのね」

恵子の話だと、この辺りにはクル-や日本からの観光課の行きつけの店が何軒もあり、予約が要る店でも観光業界関係者はフリ-パスの上にバックマ-ジンがある。恵子の会社も当然、それに該当するからバックマ-ジンの代わりに割引になる。

「いい男がいたら、一夜限りの彼氏にしちゃうからね」

「恵子が、そんなふしだらなら絶交だから」

「ウソに決まってるじゃない。わたしは意外に固いのよ」

「どうだか……」

左折してリンクルン通りに入ると、すぐクラブ・ナインの看板が目に入った。

扉の中に入ると、アップテンポなサウンドが耳を突き、それだけでもハイになる。

二人に気づいた酔ったパリ男や、種々雑多な国籍の男たちが歓迎の拍手で迎える。その男たちと飲んでいた日本人男女のグル-プが声を上げて笑顔で手を振った。

イタリア男がその日本人女性に、連れの男など無視してリキュ-ルをサ-ビスして盛んにモ-ションを掛けているのが見えたが、それぞれが、にこやかに切り返していて動じる風もないのは旅慣れている証拠でもあった。

さすがに機内で海千山千の乗客を巧みにさばいているだけに手慣れたものだ。真理と美貴もドリンクを注文して仲間入りした。会計はその場での現金払いだから、誰にも気を使わなくて済む。

「なんだか、いい男と踊りたい雰囲気なんだけどな」

「恵子って、男に懲りたばかりなのに」

「あら、女は灰になるまで恋をしていたいのよ。いいディスコがあるから行こう、週末だけはオ-ルナイトだけど、明日はまた観光だけだから、いい男と踊るのよ」

「いい加減にしなさいよ。どうせ観光ならアルプスの山なんてどう? セ-ヌ・クル-ズは後にして」

「山か、それもいいね。でも日帰りは無理よ」

「そうか。じゃあ、山はあきらめるかな」

少し歩いてリンクルン通りに入ると、すぐ「クラブ・ナイン」の看板が目に入る。

扉の中に入ると、アップテンポなサウンドが耳を突き、それだけでもハイになる。

二人に気づいた店員が歓迎して声をかけると、それに気づいたパリ男や種々雑多な国籍の酔った男たちが、いっせいに歓迎の拍手で迎えた。

先客の中に機内で一緒だったJALの宇野が部下のクル-の女性3人と飲んでいて、恵子と葵に気がついて手を振った。目的地到着後のクル-の規約はどうなっているのかは知らないが、搭乗乗務員のストレス解消にはこれが一番なのかも知れない。

宇野がいるにも係わらず、クル-の女性3人には数人のイタリア男性がまつわりついて言い寄っている。キャビン・アテンダントの3人は、にこやかにイタリア男達を手玉にとっていて動じる風もない。さすがに機内で海千山千の乗客を巧みにさばいているだけに慣れたものだ。

葵と恵子もドリンクを注文して宇野達と合流した。会計はその場での現金払いだから誰にも気を使わなくて済む。

酔って踊って暫くしてから、恵子が葵の腕を突ついた。

「いたわよ。またあの男と女……」

見ると、生演奏の楽団の舞台下のフロア-で、頬に傷のある男がレストランでも一緒だった金髪女と見事なステップで踊っている。葵と恵子の視線に宇野が気づいた。

「佐川さんは、あの人達を知ってるんですか?」

「偶然だけど、さっき食事したとこで会ってるんです」

「あれはイタリア系ドイツ人実業家のパゾリ-ニ……このパリの夜では有名人です。JALの他の航空会社には親しい女性が何人もいるそうです。

うちのクル-には声を掛けられても絶対に付き合っちゃダメだ、と教えてあるんですがね。多分、 あの女もナンパされたんでしょう。イタ公、パリ野郎には要注意ですよ」

「気をつけます」

「明日の予定は?」

「まだ決まってはないけど、わたしはセ-ヌ川下りを考えてるのに、葵はアルプスを見たいなんて言うんです」

宇野が首を振った。

「アルプス観光は止めたほうがいいですよ。よくは知らんが、今朝早くから警察がアルプス方面への観光客をチェックしてるそうですから」

恵子と葵は顔を見合わせた。(山に何かがある!)、同時にそれを感じたのだ。

「もし、行くとしたら超特急で? 日帰りできますか?」

「いや、列車じゃ日帰りは無理です。チュ-リッヒまで飛んで、そこから列車で行き、山を眺めてくるぐらいなら日帰りできますよ。でも危険だから止めた方がいいですよ」

二人はそこで席を立ち、店を出た。ちょうど30分ほどの道草だった。

「警察が動いてるってことは?」

「誘拐犯グル-プが逃げ込んだかな?」

「行ってみようか!」

これで意見が決まった。葵がタクシ-の窓から空を見上げた。

「いい月ね。ひょっとすると、八十八夜の月じゃない?」

恵子の視線に誘われて葵も窓を開けて空を眺めると、ライトアップされたエッフェル塔の真上に青白んだ満月が、星のきらめく夜空に輝き、ほろ酔いの頬にパリの夜風が快い。

さらに視線をセ-ヌ川に向けると、対岸のラジオ局のイルミネ-ションもまたあざやかに夜空を彩っていた。