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焼け跡に立って-1


2 青春くもりのち晴れ

焼け跡に立って-1

昭和二十年(1945)八月に敗戦を迎えたとき、戦時中よりさらにひどい食糧難と物価高が押し寄せてきた。
東京はとくにひどい状態であった。大きな荷物をかついで歩く人や、大八車(二、三人で引く荷物運搬用の車)にがらくた荷物を載せて運んでいる人たちが目についた。
ところどころに焼け残った家や緑が悲しそうな表情をして泣いていたが、人々はもうだれも泣いてはいなかった。
気がついたら、自分自身も重い荷物を‥背負って歩いていた。兵営から解放されて塀の外へ出るとき、自分の使っていた毛布や衣類を持って帰ったからである。そんなものが貴重品だったのだ。
焼け残った北浦和(埼玉県)に長姉がいたので、私はその荷物をかついでたどり着き、一晩泊めてもらい、翌朝母が疎開していた山形へ出かけて行った。かついできた荷物は庭の防空壕にあずけて身体一つで汽車に乗ったのだが、各駅停車のひどい車両で窓から出入りしなければならないほどの混みようだった。
それでもなんとか、山形市外で間借り生活をしていた母のとろまでたどり着き、一年ぶりでゆっくり風呂に入ることができた。
母の疎開先は山形市郊外にある鈴川村の双月というところで、夜空に映える月と、家の前を流れる馬見ケ崎川の川面に映る月影とに由来する地名だということである。朝夕には紫色の靄(もや)が出る美しい田園風景であった。
退役陸軍将校夫妻の邸宅の奥座敷を二間借りていたが、ここは北山形の駅も近く、山形市内へも徒歩で行ける便利な場所で、なによりも周囲の環境が抜群だった。


世相の変化と母の心-2

世相の変化と母の心-2

芦野 宏

幸い入試の成績が上位だったらしく、叔父は学校中にふれ回って甥の自慢をして大喜びしていた。しかし私の心は、少しも嬉しくなかった。徴用で働かされるよりはましだと思ったくらいで、自分の希望する学科もないので、ただ成り行きに任せていた。
それでも信州の風土は美しく、人情は優しくて、私もだんだんこの町が好きになっていった。
だが、平和でのどかな信州の学園生活も長くは続かなかった。恐れていた徴兵令が釆たからである。いわゆる赤紙というやつである。これ一枚で日本人はみな奴隷にされるのだ。個人の都合や家庭の事情などは無視され、定められた日に決められた場所へ行き、身体と心をすべて国に捧げるのである。
東京から母が釆て叔父の家に一泊し、翌朝十時発の上野行き急行で二人は上京した。叔父の体面を考えて青いラインの入った二等車に乗ったが、母から「海行かば」だけは歌わないでほしいと見送りの友人や先生方に申し入れてあったので、ただ万歳三嶋だけで汽車は足りだした。
母はこの歌が大嫌いであった。
「海行かば水漬く屍 山行かば革むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
とんでもない歌である。まるで死を美化して国民の心を麻酔にかけるような歌だ。母は断固として拒否した。

九月の暑い日、神戸から出てきた長兄と母に付き添われて千葉のほうへ行き、私は高い塀の中に入れられた。三人の兄たちはいずれも軍関係の技術者であったから、だれも応召していない。なぜ、この私だけが……と思ったが、運命と思って諦めた。兵営の中の生活はちょうど一年続いたが、すべて上官の命令に盲従しなければならない世界であり、自我というものは抹殺された。子供のころから甘やかされ、わがままに育ってきた私にとって、想像を絶する苦い経
験となった。
後年、芸能界にデビューしてから、良いことばかりではなく厳しい現実にもたびたび出合ったが、自分の中にあのころのつらい体験があったからこそ乗り越えることができたと思うこともしばしばである。


世相の変化と母の心-1

幸福(しあわせ)を売る男

芦野 宏

世相の変化と母の心-1

世の中は平和を願う庶民の心を無視して、どんどん思わぬ方向へ進んでいった。
どうしようもない時の流れに身を任せるよりほかにないのである。
私がのちにシャンソン歌手となり、フランスの歴史を知るようになってから、パリ市民のレジスタンス精神にふれ考えさせられることがたくさんある。それにしても、あの昭和十八、十九年ごろのヒステリックな、今にして思えば滑稽なまでの国民全体の行動はなんだったのだろう。
そのころ、受験に失敗して浪人生活を送っていた私は予備校に通っていたが、見たちと違って理科系の不得手な私は、受験が苦手でとうとう二年目の浪人生括に入っていた。そんな時とつぜん徴用令が舞い込んだのである。
浪人は働けという国の命令である。私は国民服を着せられて工場に泊まり込みを命じられ、勉強などする余裕は奪い取られた。
そのころはすでに三人の姉も嫁ぎ、三人の兄もそれぞれ結婚していたから、母の心は私だけに集中していた。学業半ばにして不本意に働かなければならぬわが子のため、つてを頼りの嘆願書が効を奏し、私は三日間の徴用で釈放された。
母の弟つまり私の叔父・蒲生俊興が、長野県上田市にある上田蚕糸専門学校(現・信州大学繊維学部)の教授をしていたことから、「物騒な東京を離れ、疎開の意味も含めてあずかってほしい」と手紙を書いた母の希望どおり、昭和十九年(一九四四)四月から私は上田で勉強することになった。

 


平和な家庭-3

平和な家庭-3

芦野 宏

昭和十六年(1941) には、大東亜戦争 (アジア太平洋戦争)という名のもとに日本軍が米国ハワイの真珠湾を一方的に爆撃した。しかし、その後数か月のうちに小笠原島が米軍によって爆撃されていることを日本人はほとんど知らなかった。
父は重役をしていた村井銀行が倒産してからは、いくつかの会社で顧問をしていたが、東京湾汽船と小笠原電気では責任ある立場にあったらしい。小笠原の爆撃により工場が壊滅したことを知ったとき、大きなショックを受けていたことは記憶している。気分転換に旅に出ようと
言いだして、大学受験に失敗して浪人生活をしていた私を伴い、かつては父が貿易商として出張の多かったところで、今は長男の住む神戸へ出かけた。神戸市垂水区には、その長兄の義父・大里庄治郎の援助を受けて買った広大な屋敷があり、本館はドイツ人の建てた古い建物だったが、部内に純日本風の離れを新築して別荘のように使っていた。
十一月の初めだったが、その年は寒さが早く訪れて寒い日曜日であった。兄はわれわれ二人を船に乗せて親孝行をした。しかし、その晩から父は風邪で発熱し、私は中耳炎で高熱を出し、二人とも寝込んでしまった。私が耳の切開手術をしたとき、父はまだ元気だったのに、その後急性肺炎から尿毒症を併発して三日後に帰らぬ人となった。母が東京から駆けつけて臨終には間に合ったものの、あっけない最期であった。結局、父の死に目にあえたのは、兄弟のなかでは長兄と私だけであった。