世相の変化と母の心-2

世相の変化と母の心-2

芦野 宏

幸い入試の成績が上位だったらしく、叔父は学校中にふれ回って甥の自慢をして大喜びしていた。しかし私の心は、少しも嬉しくなかった。徴用で働かされるよりはましだと思ったくらいで、自分の希望する学科もないので、ただ成り行きに任せていた。
それでも信州の風土は美しく、人情は優しくて、私もだんだんこの町が好きになっていった。
だが、平和でのどかな信州の学園生活も長くは続かなかった。恐れていた徴兵令が釆たからである。いわゆる赤紙というやつである。これ一枚で日本人はみな奴隷にされるのだ。個人の都合や家庭の事情などは無視され、定められた日に決められた場所へ行き、身体と心をすべて国に捧げるのである。
東京から母が釆て叔父の家に一泊し、翌朝十時発の上野行き急行で二人は上京した。叔父の体面を考えて青いラインの入った二等車に乗ったが、母から「海行かば」だけは歌わないでほしいと見送りの友人や先生方に申し入れてあったので、ただ万歳三嶋だけで汽車は足りだした。
母はこの歌が大嫌いであった。
「海行かば水漬く屍 山行かば革むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
とんでもない歌である。まるで死を美化して国民の心を麻酔にかけるような歌だ。母は断固として拒否した。

九月の暑い日、神戸から出てきた長兄と母に付き添われて千葉のほうへ行き、私は高い塀の中に入れられた。三人の兄たちはいずれも軍関係の技術者であったから、だれも応召していない。なぜ、この私だけが……と思ったが、運命と思って諦めた。兵営の中の生活はちょうど一年続いたが、すべて上官の命令に盲従しなければならない世界であり、自我というものは抹殺された。子供のころから甘やかされ、わがままに育ってきた私にとって、想像を絶する苦い経
験となった。
後年、芸能界にデビューしてから、良いことばかりではなく厳しい現実にもたびたび出合ったが、自分の中にあのころのつらい体験があったからこそ乗り越えることができたと思うこともしばしばである。