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謹賀新年 「谷間の灯」-米軍キャンプで歌うー1

  明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
日本シャンソン館は、1月2日(火)より営業します。
皆様のご来館を心よりお待ちします。
平成30年元旦
日本シャンソン館 館長・羽鳥功二

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

「谷間の灯」ー米軍キャンプで歌う

昭和二十七年(一九五二)三月、私が芸大を出て、短期間に私はいろいろなことに挑戦した。
中学時代、音楽好きの親友だった中野雅夫君(昭和五十五年投) の弟が、ウエスタン・ランプ ラーズという楽団でギターを弾いていることを知り、私は厚木のアメリカ軍キャンプに彼を訪 ねた。当時キャンプで仕事ができることは豊かな生活を保障されるようなものだから、興味が あったのである。
中野喜夫君(雅夫の弟)がバンドマスターに私を紹介してくれた。口髭をたくわえた、一見 こわそうな小父さんだったが、優しい人だった。私は英語で歌える曲はたくさん持っていたが、ウエスタン風にアレンジできそうなのは「谷間の灯」ぐらいのものであったから、一曲やらせ てくれるならこの曲にしようと思っていた。酒を飲みながらガヤガヤ騒いでいるアメリカ兵の 前で歌うのに、それでもなかなかバンマス (バンドマスター)は歌わせてくれなかった。
だが、楽屋で私のオーソドックスな歌い方をもっと崩すようにいろいろと指導してくれたあ と、三日目ぐらいにやっとバンドの前で一曲だけ歌わせてくれた。口笛が鳴ったり、柏手がき たりしたが、柄の悪い兵隊たちの反応は気にしなかった。歌い終わって楽屋でコーラを飲んで いるとき、将校が入ってきて話しかけてきた。バンマスは英語の達者な人だったから、間に立 って私に説明してくれた。「君がキャンプで歌いたいなら、審査を受けるように」とのことで、そのやり方、手続きを教わり、私は言われるとおり、二日ほどたってから再びキャンプを訪れ た。


卒業前後-4

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-4

卒業演奏会でのクラシックへの密かな決別の決心以来、1さあ、これで今までの発声法をくつがえし、もう一度ゼロからやり直すんだ」と決意していた。
卒業してからも私は前より頻繁に以前から馴染みの銀座のピアノ店にある吹き込み所に通って自分の歌を吹き込み、家に持ち
帰って聴いて、自分流の発声を研究した。それは自分の欠点を正直に教えるので、何度も絶望の淵に立たされたが、希望を捨てずに挑戦し続けた。四年間、芸大で勉強した発声法を根本からやり直し、自分の理想である喋り声を基本にした唱法に変えることは並大抵のことではなか
った。
自費録音による勉強は費用も相当かかり、新たに始めた週一度の高橋忠雄先生のレッスン代もばかにならなかったが、私は弱音を吐かなかった。その分しっかり働けばよいと思ったからだ。当時、吹き込んだSPレコードは今も手元にあり、「アヴエ・マリア」1花に寄せて」1ジ
ーラ.ジーラ」「三日月娘」など、音質はともかく機械さえあれば今でも聴くことができる。
いま思うと、あの歌えない六か月の試練の日々があったからこそ、シャンソン歌手・芦野宏が生まれたといっても間違いではなかろう。


卒業前後ー3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-3

四年前の春とは違って、その年は桜の美しさも目に入らないくらい、自分の身辺が逼迫していた。友人たちはそれぞれの道を歩みはじめ、故郷に錦を飾って音楽教師になったり、芸大に
残って研究科に進む者もいたが、私はただ一人自分だけの道を探し求めて歩きはじめた。自ら志願して茨の道を選び、危険な戦場に向かって行くような悲壮な気持ちであった。苦労は覚悟のうえだったが、母と二人で生きていくためには収入のことも考えなければならない。これか
ら先の不安が大きく目の前に広がってきたが、やむにやまれぬ思いは制止することもできず、明日になれば必ずよくなると、明るい希望を捨てずに毎日を頑張るよりほかに道はなかった。
幼いころ、母がよく話してくれた。「みんな同じように勉強していても、毎日わずかでもより多く努力をすれば違いが出てくる。だからちょっとした時間でも利用して勉強しなさい」。
母は小学校の教師をしながら、父を大学にやり子供を育てた人である。母の言葉には真実の重みがあり、私はしっかりと胸に刻み込んでいた。それに私は上田蚕糸専門学校を勝手に退学し、好きな道を選んで音楽を志し、念願どおり卒業できた身である。ここで挫折したらどうなるか、自分でいちばんよく知っていたから、だれにもこぼさずに頑張った。
あれからあっという間に暗が過ぎて、平成二年二九九〇)秋の叙勲で紫綬褒立号をいただくことになり、宮中に参内して天皇陛下からお言葉をいただいたとき、私は芸大の奏楽堂で私の歌を聴いてくださった若き日の陛下の面影をありありと思い出し、四○年の歳月が走馬灯のよ
うに脳裏をかけめぐるのであった。


卒業前後-2

 幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-2

卒業試験の曲目は、柴田睦陸先生と相談の結果、イタリアの古典歌曲「イ・バストリ(羊飼い)」を歌うことになった。静かな美しい曲で、南ヨーロッパの風景が目に浮かんでくるような名曲であったが、そのころはもう半年も歌っていない。私は毎日その曲を練習しながら良い
成績で卒業できることを願っていた。
しかし結果は、なにか十分納得できる出来栄えではなかった。案の定、首席は女性で、四家文子門下の柴玲子さんであった。彼女は翌年、音楽コンクール(毎日新聞社・NHK主催。昭和五十七年、日本音楽コンクールと改称)で優勝された。無理のないことである。在学中、アルバイトに追われて十分な勉強もできなかった身である。今は音声障害を乗り越えることができただけでもありがたいことである。ただ、あれほど親身になって指導してくださった柴田先生に申し訳ないと思っていた。入学のとき、あんなに将来を嘱望されていた私は、負け犬みたいな気持ちでうろうろしていた。
卒業演奏会は由緒ある上野の奏楽堂で行われた。音楽学校に入ってから奏楽堂の舞台に出た経験は、「第九」のコーラスで出演したくらいだから、卒業演奏会で独唱することが決まったときは、それまででいちばん緊張した。まして大勢の聴衆のほぼ中央に皇太子殿下(現・天皇
陛下)をお迎えしてのステージだったから、晴れの舞台で歌ったという充実感があった。私は卒業試験のときと同じ「イ・バストリ」を柴田先生に選んでいただき、力いっぱい歌った。涙がにじんで会場の殿下の表情もわからなかった。
これで、クラシックはもう歌わないことを心に決めていた。それには、発声のことより疑問に思っていた理由もある。クラシックは伝統的な曲想で歌わなければならない。自分が心に思いついた曲想で歌える音楽はポピュラーの世界にしかないのではないか。そう思っていたから
である。
希望と夢をもって四年開通いなれた上野の音楽学校、そしてこの古い奏楽堂ともこの曲で別れることになると思うと、胸が痛み、精いっぱい歌ったつもりでも上手に歌えなかった。発声がまだ安定していないという不安もあったからである。卒業後、研究科に残る者と教職に就く
者とに分かれたが、私はそのどちらにも属さず、納得するまで自分自身の発声を研究するつもりになった。ろくに勉強もせず、アルバイトばかりして卒業したくせに、首席でなかったことはやはり残念だった。


卒業前後-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-1

歌えない日が続いてスランプに落ち込んでいたころのこと、私は渋谷道玄坂上にできた「日本ジャズ学校」に通った。先生はティーブ釜苑
さん(歌手かまやつひろしの父親)、ナンシー梅木さん、そしてジャズの好きな少女であったペギ一葉山さんもよく遊びに来ていた。学校といっても、ポピュラー音楽の場合は遊びに来てその雰囲気を身につけるといったほうが妥当で、ワイワイガヤガヤ話したり歌ったりしているだけだった。こんな学校もあるものだとわかっただけで私は十分だったから、まもなくやめた。

学校生括の前半は久我山の兄の家でダンス教室をしながら学校に通ったから、物質的苦労はまったくなかったが、後半、三年生からは市ヶ谷の小さな家に移り、母と二人の生活になった。
兄嫁と母との折り合いは神戸時代からよくなかったが、久我山の生活で爆発した。兄夫婦の世話になり、十分な小遣い銭を稼いで学生生活をエンジョイしていた私も、年老いた母一人を市ヶ谷の小さな家で生活させるのを見るに忍びず、久我山の広い家を出た。
もともと覚悟のうえでとび込んだこの道だったから、貧乏もこわくなかった。小さな家は、市ヶ谷の高台にあったわが家の焼け跡に建った。見晴らしは昔よりもさらによくなり、すぐ近くに焼け残った靖国神社の大屋根が見えた。100坪あった土地の半分を二〇万円で売却し、
それで小さな家を建てた。昔わが家に住み込んでいた大工の西村正之助氏(渋谷の西村建設会長、創業者)が母のために精魂こめて造ってくれたものだが、六畳と三畳の二間だけ。玄関ホールの三畳くらいのところにレンタルのピアノを置いて生徒をとっていた。
母が久我山を出る覚悟をしたのは、市ヶ谷に土地があったからで、久我山で世話にならなくてもやっていけるという意地を見せたのだ。母はもう七十歳を過ぎていた。私も自分の意志で久我山を出たので、ダンスの収入もなくなり、音楽を教えることだけに専念したが、をかなか
たいへんであった。土曜、日曜は自宅で声楽志望の生徒をとり、また、ハイツと呼ばれるアメリカ人住宅では小学生にピアノを教え、母の知り合いのお宅では生徒を集めていただき出張教授をした。そんな忙しさのなかで、私は音声障害というものを経験したのだから、やはり体力
的な無理もたたっていたにちがいない。音声障害をかかえ、生活苦と闘いながら、私は卒業期を迎え、やがて卒業試験に臨んだ。