卒業前後-2

 幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-2

卒業試験の曲目は、柴田睦陸先生と相談の結果、イタリアの古典歌曲「イ・バストリ(羊飼い)」を歌うことになった。静かな美しい曲で、南ヨーロッパの風景が目に浮かんでくるような名曲であったが、そのころはもう半年も歌っていない。私は毎日その曲を練習しながら良い
成績で卒業できることを願っていた。
しかし結果は、なにか十分納得できる出来栄えではなかった。案の定、首席は女性で、四家文子門下の柴玲子さんであった。彼女は翌年、音楽コンクール(毎日新聞社・NHK主催。昭和五十七年、日本音楽コンクールと改称)で優勝された。無理のないことである。在学中、アルバイトに追われて十分な勉強もできなかった身である。今は音声障害を乗り越えることができただけでもありがたいことである。ただ、あれほど親身になって指導してくださった柴田先生に申し訳ないと思っていた。入学のとき、あんなに将来を嘱望されていた私は、負け犬みたいな気持ちでうろうろしていた。
卒業演奏会は由緒ある上野の奏楽堂で行われた。音楽学校に入ってから奏楽堂の舞台に出た経験は、「第九」のコーラスで出演したくらいだから、卒業演奏会で独唱することが決まったときは、それまででいちばん緊張した。まして大勢の聴衆のほぼ中央に皇太子殿下(現・天皇
陛下)をお迎えしてのステージだったから、晴れの舞台で歌ったという充実感があった。私は卒業試験のときと同じ「イ・バストリ」を柴田先生に選んでいただき、力いっぱい歌った。涙がにじんで会場の殿下の表情もわからなかった。
これで、クラシックはもう歌わないことを心に決めていた。それには、発声のことより疑問に思っていた理由もある。クラシックは伝統的な曲想で歌わなければならない。自分が心に思いついた曲想で歌える音楽はポピュラーの世界にしかないのではないか。そう思っていたから
である。
希望と夢をもって四年開通いなれた上野の音楽学校、そしてこの古い奏楽堂ともこの曲で別れることになると思うと、胸が痛み、精いっぱい歌ったつもりでも上手に歌えなかった。発声がまだ安定していないという不安もあったからである。卒業後、研究科に残る者と教職に就く
者とに分かれたが、私はそのどちらにも属さず、納得するまで自分自身の発声を研究するつもりになった。ろくに勉強もせず、アルバイトばかりして卒業したくせに、首席でなかったことはやはり残念だった。