卒業前後-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-1

歌えない日が続いてスランプに落ち込んでいたころのこと、私は渋谷道玄坂上にできた「日本ジャズ学校」に通った。先生はティーブ釜苑
さん(歌手かまやつひろしの父親)、ナンシー梅木さん、そしてジャズの好きな少女であったペギ一葉山さんもよく遊びに来ていた。学校といっても、ポピュラー音楽の場合は遊びに来てその雰囲気を身につけるといったほうが妥当で、ワイワイガヤガヤ話したり歌ったりしているだけだった。こんな学校もあるものだとわかっただけで私は十分だったから、まもなくやめた。

学校生括の前半は久我山の兄の家でダンス教室をしながら学校に通ったから、物質的苦労はまったくなかったが、後半、三年生からは市ヶ谷の小さな家に移り、母と二人の生活になった。
兄嫁と母との折り合いは神戸時代からよくなかったが、久我山の生活で爆発した。兄夫婦の世話になり、十分な小遣い銭を稼いで学生生活をエンジョイしていた私も、年老いた母一人を市ヶ谷の小さな家で生活させるのを見るに忍びず、久我山の広い家を出た。
もともと覚悟のうえでとび込んだこの道だったから、貧乏もこわくなかった。小さな家は、市ヶ谷の高台にあったわが家の焼け跡に建った。見晴らしは昔よりもさらによくなり、すぐ近くに焼け残った靖国神社の大屋根が見えた。100坪あった土地の半分を二〇万円で売却し、
それで小さな家を建てた。昔わが家に住み込んでいた大工の西村正之助氏(渋谷の西村建設会長、創業者)が母のために精魂こめて造ってくれたものだが、六畳と三畳の二間だけ。玄関ホールの三畳くらいのところにレンタルのピアノを置いて生徒をとっていた。
母が久我山を出る覚悟をしたのは、市ヶ谷に土地があったからで、久我山で世話にならなくてもやっていけるという意地を見せたのだ。母はもう七十歳を過ぎていた。私も自分の意志で久我山を出たので、ダンスの収入もなくなり、音楽を教えることだけに専念したが、をかなか
たいへんであった。土曜、日曜は自宅で声楽志望の生徒をとり、また、ハイツと呼ばれるアメリカ人住宅では小学生にピアノを教え、母の知り合いのお宅では生徒を集めていただき出張教授をした。そんな忙しさのなかで、私は音声障害というものを経験したのだから、やはり体力
的な無理もたたっていたにちがいない。音声障害をかかえ、生活苦と闘いながら、私は卒業期を迎え、やがて卒業試験に臨んだ。