月別アーカイブ: 2018年4月

 民放各社にもレギュラー番組-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-5

「当学院学生寮にご出演いただき感謝いたします。お陰様で、はからずも、私の故国の情緒にひたる ことができて大変感動いたしました。かくも見事に私の国のシャンソンを解釈しえたあなたの技量には、敬服のほかありません。一フランス人として、このように立派に私たちの祖国の芸術を、日本の聴衆に鑑賞させてくださることに対して私はただただ感謝の念にたえません。……」   ジャン・ルキエ(東京日仏学院長)
しかし、ときにちょっと困ったこと(?)も起きた。毎週水曜日の夜八時半から放送されているラジオ東京の『花椿アワー』と文化放送の『モナ・キューバン・タイム』が同じ時間帯で、準レギュラーの私は裏と表の番組で同時に出演する回数が増えてきたことである。新聞のラジオ欄を見ると同時刻に芦野宏の名前が出ているのである。『花椿アワー』は二年近く続いたと思う。
ラジオ東京、文化放送より少し遅れて昭和二十九年 (一九五四)、日比谷に開局したニッポン放送ではシャンソン化粧品がスポンサーの 『シャンソン・アワー』 が始まっていた。レギュラー出演の話がきて、毎週月曜夜十時半から、私のピアノの弾き語りとナレーションで構成する、二〇分の番組である。なにがなんだかわからないほど忙しくなったが、私は相変わらずフランス語の先生について新曲の練習に余念がなかった。この番組では、弾き語りで、「失われた恋」「ラ・セーヌ」「ドミノ」「ミラポー橋」など、秋満義孝さん(ピアノ)の伴奏で、「ラ・メール」「詩人の魂」「ケベックの街にて」「マ・メゾン」「カナダ旅行」「パリ察」「パリの屋根の下」などなど数えきれないが、ポピュラーな曲はほとんど歌ったと思う。

 


民放各社にもレギュラー番組-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-4

「当学院学生寮にご出演いただき感謝いたします。お陰様で、はからずも、私の故国の情緒にひたる ことができて大変感動いたしました。かくも見事に私の国のシャンソンを解釈しえたあなたの技量には、敬服のほかありません。一フランス人として、このように立派に私たちの祖国の芸術を、日本の聴衆に鑑賞させてくださることに対して私はただただ感謝の念にたえません。……」   ジャン・ルキエ(東京日仏学院長)
しかし、ときにちょっと困ったこと(?)も起きた。毎週水曜日の夜八時半から放送されているラジオ東京の『花椿アワー』と文化放送の『モナ・キューバン・タイム』が同じ時間帯で、準レギュラーの私は裏と表の番組で同時に出演する回数が増えてきたことである。新聞のラジオ欄を見ると同時刻に芦野宏の名前が出ているのである。『花椿アワー』は二年近く続いたと思う。
ラジオ東京、文化放送より少し遅れて昭和二十九年 (一九五四)、日比谷に開局したニッポン放送ではシャンソン化粧品がスポンサーの 『シャンソン・アワー』 が始まっていた。レギュラー出演の話がきて、毎週月曜夜十時半から、私のピアノの弾き語りとナレーションで構成する、二〇分の番組である。なにがなんだかわからないほど忙しくなったが、私は相変わらずフランス語の先生について新曲の練習に余念がなかった。この番組では、弾き語りで、「失われた恋」「ラ・セーヌ」「ドミノ」「ミラポー橋」など、秋満義孝さん(ピアノ)の伴奏で、「ラ・メール」「詩人の魂」「ケベックの街にて」「マ・メゾン」「カナダ旅行」「パリ察」「パリの屋根の下」などなど数えきれないが、ポピュラーな曲はほとんど歌ったと思う。


民放各社にもレギュラー番組-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-3

文化放送で毎週水曜日の夜八時半から『モナ・キューバン・タイム』という番組があり、私はラテン・バンド、東京キューバン・ボーイズのリーダー見砂直照(みさこただあき)さんに気に入られて、こちらも準レギュラーのかたちで歌うことになった。アルゼンチン・タンゴではなく、〝中南米のボレロやルンバなどの曲で、私がスペイン語で勉強していた「マリア・ラオ」「タブー」「カント・カラバリ」「アマポーラ」などの曲が次々と電波に乗った。芸大を出てから高橋忠雄先生のところでいただいた珍しい曲ばかりである。これらはすでに勉強ずみの曲だったから一度のリハーサルでほとんど本番の録音がとれた。
ところが、同じころの別な番組で歌うシャンソンのほうはフランス語の勉強を始めたばかりだし、R(エ-ル)の発音や鼻音を上手に使うことに慣れていなかったから、一回でも多く練習
するよう心がけ、苦労は並大抵のものではなかった。こんなふうにして、私はだんだんシャンソン歌手として認められていったのである。
(注)
昭和三十三年(一九五八)春のリサイタルのプログラムには、次のようなメッセージが寄せられた。
「芦野さんはフランス語の発音がなかなかうまい。大阪でフランス人と叫緒に芦野さんのシャンソンを聴いたとき、その彼が『あの人のRの発音はいいですね』といっていた。フランス語では、いろいろ 難しい発音があるなかで、Rは難物中の難物なのである。
芦野さんは、いい発音をするために、人知れぬ苦心をし勉強している。そこがえらいと私は思う。私がやっているフランス語講座の放送でも何度か歌ってもらったが、いつもとはちがい、これは語学放送だからというので、芦野さんはその準備のため、フランス人二人について発音の稽古をした。一人の先 生だと、その人の癖があっていけないから二人にしたのだという。私はその誠実さにつよく打たれた。
芦野さんのみごとなパリの歌のかげに、そんな心づかいの流れていることを書きとめておきたい」
伊吹武彦(仏文学者)


民放各社にもレギュラー番組-2

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような

1、ポピュラーの世民放各社にもレギュラー番組-2

ディレクターの稲田植樹氏はインテリであり好男子であり、いかにも育ちがよく感じのいい人だったが、新人の私には厳しい注文をされた。新曲の楽譜を渡されて、それを来週歌ってほしいと言われたこともあり、私は池袋にお住まいの橋本正窮先生を訪ねてフランス語の発音と歌詞の正しい訳をお願いした。
橋本先生は、有名な日本画家・橋本開雪のご令息で、パリで育った方である。そのころ週に二回は池袋のアトリエまでレッスンに通った。たとえば1ル・ガレリアン(漕役刑囚の唄)」の譜面をいただくと、まずイヴ・モンタン(一九九一年嘩「枯葉」で有名な大歌手)のレコードを聴きながらカタカナで歌詞にしるしをつけてまねをしてみる。それから自分でピアノをたたきながら納得がいくまで歌い、再び意味を考えながら先生のお宅に伺って歌い、発音を直していただくのだ。

新曲をいただいたら発表するまでに少なくとも一〇〇回は歌ってみる。ちょっとでも疑問があれば池袋までタクシーをとばして、夜中でも先生の前で歌って直してもらう。
このころ、NHKの石川洋之ディレクターは月に一回はデビューした番組『虹のしらべ』に引き続き出演させてくださったが、ほとんどいつも新曲を望まれた。世間に認められている、立派に歌わなければという決意と、あの嫌いな戦争中、好きでもやれなかった勉強ができるという喜びが一つとなり、私は信じられないほどの努力をした。これまでのなかで、この時期ほ ど寝る間も食事する時間も惜しんで勉強したことはない。
まるでなにかにとり憑かれたように、次々と原詩を訳して発音を直してもらいにフランス人の先生を訪ねたりした。福沢諭吉のご子息の嫁にあたる福沢アタロヴィさんには、正しいフランス語で歌うレッスンをたびたび受けに行った。それまでフランス語で歌える曲は一〇曲ほどしかなかったが、またたくうちにレパートリーは増えていった。「君いつの日か」「フランスの日曜日」「わが若かりし頃」「待ちましょう」……。数えたら数百曲に達したが、一部を日本語でという要望も多かったから、訳詞のほうも忙しかった。夜中に薩摩思さんに釆てもらい、二人で考、え、二人で苦しみながら夜を明かしたこともたびたびあった。
ラジオ東京の 『花椿アワー』 では私の熱心さが認められて、準レギュラーのような待遇を受 け、私も仕事と勉強が一段と忙しくなった。