民放各社にもレギュラー番組-2

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような

1、ポピュラーの世民放各社にもレギュラー番組-2

ディレクターの稲田植樹氏はインテリであり好男子であり、いかにも育ちがよく感じのいい人だったが、新人の私には厳しい注文をされた。新曲の楽譜を渡されて、それを来週歌ってほしいと言われたこともあり、私は池袋にお住まいの橋本正窮先生を訪ねてフランス語の発音と歌詞の正しい訳をお願いした。
橋本先生は、有名な日本画家・橋本開雪のご令息で、パリで育った方である。そのころ週に二回は池袋のアトリエまでレッスンに通った。たとえば1ル・ガレリアン(漕役刑囚の唄)」の譜面をいただくと、まずイヴ・モンタン(一九九一年嘩「枯葉」で有名な大歌手)のレコードを聴きながらカタカナで歌詞にしるしをつけてまねをしてみる。それから自分でピアノをたたきながら納得がいくまで歌い、再び意味を考えながら先生のお宅に伺って歌い、発音を直していただくのだ。

新曲をいただいたら発表するまでに少なくとも一〇〇回は歌ってみる。ちょっとでも疑問があれば池袋までタクシーをとばして、夜中でも先生の前で歌って直してもらう。
このころ、NHKの石川洋之ディレクターは月に一回はデビューした番組『虹のしらべ』に引き続き出演させてくださったが、ほとんどいつも新曲を望まれた。世間に認められている、立派に歌わなければという決意と、あの嫌いな戦争中、好きでもやれなかった勉強ができるという喜びが一つとなり、私は信じられないほどの努力をした。これまでのなかで、この時期ほ ど寝る間も食事する時間も惜しんで勉強したことはない。
まるでなにかにとり憑かれたように、次々と原詩を訳して発音を直してもらいにフランス人の先生を訪ねたりした。福沢諭吉のご子息の嫁にあたる福沢アタロヴィさんには、正しいフランス語で歌うレッスンをたびたび受けに行った。それまでフランス語で歌える曲は一〇曲ほどしかなかったが、またたくうちにレパートリーは増えていった。「君いつの日か」「フランスの日曜日」「わが若かりし頃」「待ちましょう」……。数えたら数百曲に達したが、一部を日本語でという要望も多かったから、訳詞のほうも忙しかった。夜中に薩摩思さんに釆てもらい、二人で考、え、二人で苦しみながら夜を明かしたこともたびたびあった。
ラジオ東京の 『花椿アワー』 では私の熱心さが認められて、準レギュラーのような待遇を受 け、私も仕事と勉強が一段と忙しくなった。