月別アーカイブ: 2018年7月

NHK『紅白歌合戦』連続出場-3

 

幸福を売る男

       芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

 

マネージャーや付き人は用事のないかぎり廊下に出ていて、声がかからなければ部屋に入ってこない。なにしろ今をときめく日本の大スターが一堂に集まるのだから、たいへんなのである。いつもテレビでしか見たことのないスターたちを目の当たりにすると、意外なことが発見される。もっと大きな方かと思っていたのに、三橋美智也さん、橋幸夫さん、三波春夫さんた
ちは意外と小柄なのでびっくりした。和田アキ子さんや小林幸子さんはテレビで見ても背が高いことがわかるが、美空ひばりさんは小柄である。ひばりさんは黙っているときは、お高く止まっているようで取っつきにくいが、一度喋りだすと、まったく気さくな、気のおけないお人柄が見えてくる。
紅白のとき、ほかのショーと違うことは、本番を終わった歌手たちが動員されて応援団にまわされることである。これはその時によって違うが、必ずなにかさせられるから覚悟していなければならない。私がシャンソン界から一〇年連続で出演していたころを思い出しながら、今の紅白をお茶の間で見ていると、根本的にはその意図するところは変わっていないようである。
年に一度のお祭り騒ぎということであろう。紅白が終わって帰りの車の中で除夜の鐘を聴き、家に帰って温かいお風呂に入り、ホッとしたあの気持ちを今でも昨日のことのように思い出すのである。
昭和三十八年(一九六三) に出演したときの映像がNHKに保存されていて、再放映もされ
たが、当時お若かったクレージーキャッツの谷啓さんが子供役となり、私の歌う「パパと踊ろ
うよ」 のなかでおもしろおかしくお相手をしてくださっている。これは日本シャンソン館のビ
デオルームで上映されている『声野宏・シャンソンと共に歩む』のなかにも収録され、どなたにも見ていただけるようになっている。                      、


NHK『紅白歌合戦』連続出場-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-2

ところで、NHK『紅白歌合戦』に出場するということは、一流の歌手と認められたことを意味して、たいへん光栄に思うとともに、知名度がさらに高まることであり、翌年の正月番組からは前年以上におびただしい出演依頼が殺到して悲鳴をあげた。この年(昭和三十一年)の暮れ、続いて紅白の出演が決まったことを、私は外遊先のインドで知った。初めてのパリ訪問の帰途、カルカッタでコンサートをして、それが終わって楽屋へ戻ったとき、兄から一過の電報を受け取った。菊池維城さん(マネージャ⊥からで†紅白出演、決まりました。相手は越路吹雪さん、オメデトウ」とあった。
この二回目の紅白出演で、私は憧れの大先輩・越路吹雪さんと対抗出演することになったのだ。歌ったのは二人ともシャンソンで、越路さんは「哀れなジャン」、私は「ドミノた である。
この年のトリ(最後を飾る出演者)は笠置シズ子さんの 「ヘイ・ヘイ・ブギ」 であった。笠置さんはこのあと紅白には出ていない。
(注)
昭和三十二年(一九五七)、第八回NHK『紅白歌合戟』芦野宏は三度日の出演、再び江利チエミと対 抗、ジルベール・ペコーの「メケ・メケ」を歌った。二回目出演の美空ひばりはトリで「長崎の蝶々さん」を歌っている。男性側のトリは三橋美智也。
昭和三十三年、帰国した石井好子の対抗者として、ペコーの 「風船売り」を歌う。
昭和三十四年、出場五回目の芦野は四回目の中原美紗緒を相手に、世界のヒット・カンツォーネ「チャオ・チャオ・バンビーナ」を歌ったD美空ひばりは相変わらず紅白のトリを取っていた。司会は紅組が中村メイコにかわり、白組は続投中の高橋圭三。
紅白歌合戦の舞台裏はいつもたいへんな混雑であった。紅組の楽屋は衣装などが大きいから、もっとたいへんだろうと想像しているが、白組のほうもマネージャーと付き人が一人ずついるから部屋はごった返している。化粧前(鏡台のこと)は年功序列で奥のほうから詰めてくるわけで、入口にいちばん近いところは若手になる。先輩に対する挨拶はとくに厳しくて、お茶一杯でも、まず先輩が先に手をつけてからである。だれがこうしろと教えるわけでもないし、注意するわけでもないのに、みな心得ていてルール、マナーは暗黙のうちに守られているのだった。


NHK『紅白歌合戦』連続出場-1

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-1

めまぐるしく過ぎた昭和三十年(一九五五)も余すところわずかとなった十二月下旬のある日、前日に決まったらしいNHK 『紅白歌合戦』出演の話がとつぜん舞い込んできた。このころ年末に定着していた、恒例の行事も六回目を迎えており、徐々に人気が出はじめて、視聴率もウナギのぼりになっていた。
紅組・江利チエミさんの白組・対戦者として予定されていた、アメリカ人歌手が急にあちらでの仕事が延びたので日本に戻れなくなり、急きょ私に代わりに出てほしいという話だった。
そのころ人気絶頂だったチエミさんに対抗するのはちょっと気がひけたが、NHKからは丁重なご挨拶をいただいて、曲目は何でもいいからということなので出演することにした。まだシャンソンはレパートリーも少なかったし、紅白で歌うには地味だとも思ったので、進駐軍のキャンプでよく歌っていて、デビュー以前から歌いなれていたラテンの名曲「タブー」を選んだ。
しかし、この曲の強烈なラテンの色は出せず、むしろ静かな哀愁を感じさせるメキシコ民謡になってし、まった。
NHKでは年に一度のお祭り騒ぎということで、クラシックからは 「われらのテナー」藤原義江のほか、長門美保、柴田睦陸、大谷刺子(きよこ)、ジャズ畑から笈田敏夫、ぺギ一葉山、歌謡曲の東海林太郎、小唄勝太郎など、そして江利チエミに対抗して芦野宏が初めて選ばれたわけだから、デビューして日の浅い者にとってはたいへん名誉なことであった。司会は看板アナウンサー宮田輝、高橋圭三のお二人で、トリを取ったのは藤山一郎、二葉あき子であった。
クラシックからのおひと方、柴田睦陸先生は卒業以来ご無沙汰していた芸大の恩師である。
先生は「ラ・タンパルシータ」を完壁なスペイン語で、非の打ちどころのない発声で、タンゴのリズムに来って歌い上げられた。ごった返す楽屋の中で、私は先生にご無沙汰のお詫びを申し上げ、フランスのシャンソンをいま勉強していることを報告した。先生は「芦野君、よかったね。頑張りなさい」と励ましてくださった。
柴田先生は昭和六十三年(一九八八)、私が声楽のレッスンに通った成城のお宅で亡くなられた。私が学生のころ、絨毯の上に仰向けに寝かされ、重い本を腹の上にのせて腹式呼吸のやり方を教わった、そのあたりに先生の棺が置かれていた。私はだれとも話さなかった。胸がつまって声が出なかった。


シャンソン・ブーム -2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

シャンソン・ブーム -2

私はデビュー当時、シャルル・トレネ(作詞作曲家、大歌手) に傾倒し、現在もなお崇拝しているが、イヴェット・ジローと出会ってから、さらにシャンソンに対する認識が深まり広がった。ダミアやエディット・ピアフ (今世紀最高、不世出の大歌手) を知って、シャンソン・レアリスト(現実的シャンソン)の偉大さは認めるが、自分の個性とは違っていることがわかっていたし、ティノ・ロッシ(1小雨降る径」ほか)や「聞かせてよ愛の言葉を」を歌うリユシュンヌ・ボワイエの甘さ、美しさにも魅了されたが、ジローが客に対して理解させようとする、努力を惜しまない、しぶとい芸能人根性は、若かった私の音楽人生に大きな影響を与えた。

私のレパートリーは、そのころから急速に増えはじめている。もともとアンドレ・クラヴォーの1パパと踊ろうよ」やトレネの「カナダ旅行」などを歌っていたが、ジローの「パパはママが好き」や「小さな靴屋さん」は子供たちに歌って聴かせるようなシャンソンだったし、彼女の大ヒット曲「あとさい娘」もおとぎ話の世界である。
シャンソン歌手は自分の個性をいちばん大切にしなければならないが、ジローの歌には温かい人柄がにじんでいて素晴らしいと思う。ジローさんとの交流は、その後もずっと続いて昭和五十七年(一九八二)、私の第一回の日仏親善パリ・コンサートにも来ていただいたが、その翌年ホテル・ムーリスで行った第二回のパリ・うンサートには、彼女が住んでいる南フランスールからピアノ伴奏のご主人マルク・エランさんと、わざわざとんで釆てゲスト出演してくださった。
彼女は親日家、そして勉強家で日本の歌をフランス語に訳して歌うことも試みているが、一緒に地方講演に出掛けたときは、私に似合うシャンソンを選んでくれたりする親切心もあり、私の音楽人生のなかでは恩人の一人だと思っている。平成八年(一九九六)十二月「日本シャンソン館」で彼女の八十歳を記念する引退公演が行われ、全国各地から集まったファンたちは別れを惜しんで感動にむせび泣いた。