月別アーカイブ: 2018年10月

三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。


三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。


冬の北海道-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-4

これは雪の北海道を巡演しているとき、公演地を確認しながら地図を広げて見ているうちに、ふと思いつき書きとめた詩である。地図を広げると大きなハンカチのように見える図形の北海道は、私に青春のいろいろな思い出をもたらしてくれた。
たあいもない、お粗末なものだが、私はこれを舞台から客席に向かい歌詞の一部を即興で歌った。楽団が適当に伴奏を付けてくれた。地名は帯広になったり釧路になったり小樽になったり、公演する地名を入れ替えるのである。プログラムには載せないでおいたから記録にはないのだが、私の古い日記帳のメモが思い出させてくれた。
なにしろ鈍行の列車を乗り継いで巡演するのだから、たいへんというより退屈なのである。
読書にも飽きてトランプ、花札をやりだすメンバーもいたが、、そのうちマージャンを車中でやることを覚え、四人掛けの椅子の中央にだれかが作ってきた二つ折りの板を置き、ゲームをしながら旅を続けるようになった。
目的地に到着すると中断して、続きは旅館のほうでやる。夜の公演が終わると、またその続きを夜中までやる。こんなふうにして、私の地方公演はマージャンとともに移動する習慣がついてしまった。知らず知らずのうちに、この私自身も見よう見まねでルールを覚え、マージャンの腕を磨くようになった。でも、いまだに点数は数えられないという素人である。
三社競作のSPレコード 芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。


冬の北海道-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-3

北海道をくまなく旅して感じたことは、人情が浮く、心からもてなしてくれることである。
もちろん、日本全国どこへ行っても厚い歓待の心で迎えられたが、北海道だけはひと味違っている。本州と海を隔てるだけでこんなに違うものだろうか。大都会の札幌でも、本州にいちばん近い函館でも、ひとたび海を渡ると人情が違ってくるのだ。
沖縄は那覇で数回、奄美の名瀬でも二回ほどコンサートを持ったが、南の島で受ける聴衆の反応は大きく燃え上がってあとを引かない。ところが、北国の人たちの反応は大げさでないのに、ずしんと心に響くのだ。そして、いつまでも心に残る。
北海道は初夏のラベンダー畑を見たり、夏の涼しい旅をしたこともある。春のマロニエも美しい。しかし、やっぱり北海道は冬がいちばんよい。一面の銀世界のなかで、心が洗われるような感動をおぼえ、地元の人たちとストーブを囲みながら話し合っているとき、なにか不思議と心の世界が見えてくるような気がする。

「雪の北海道」

北海道はハンカチだ
すずらん包んでひろげたら
ほのかなゆめが広がった
網走あたりは雪どけで
横丁の露地はどろだらけ
それでもすてきな北海道

北海道はハンカチだ
今年も冬がやってきて
雪がチラチラ降り出すと
十勝平野は銀世界
白一色のキャンバスに
すてきな夢を描きたい


冬の北海道-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-2

冬の北海道は寒い寒いと文句を言いながら、それでも三回ほどアンコールに応えてコンサート旅行をした。寒くてもなんでも、地元の熱烈な会員から要望されると、私たち歌手は弱いのである。直接、手紙をいただくこともあるが、事務所を通して束になったファンレターを見せられ、私の心は動いた。
北海道も日本海を南に下って奥尻島あたりまで来ると、だいぶ気温も上がって冬でもストーブを置かないところがある。初めて雪の北海道を旅したとき、一〇日日あたりに江差という町でコンサートがあった。二月の中旬だからいちばん寒い季節であるのに、会場には暖房設備がなかった。ストーブがどこにも見当たらず、楽屋に大きな火鉢が一個、舞台にはピアノの足元
に小さな練炭火鉢が一個、置いてあるだけである。ちょっとびっくりしたが、このへんは北海道ではいちばん温暖なところだということであった。あれは四〇年くらい前の出来事だったか
ら、現在はまったく違ってきていることであろう。
その後も北海道へは季節を問わず、何十回となく訪れている。とある小さな町でコンサートを開催したときのこと、練習が終わって本番まで約二時間の休みがあったので街へ出てみた。
ちょっとコーヒーでもと思って探したが、この街には喫茶店というものがなく、食堂はうどん屋さんだけしかなかった。楽屋に戻ると手作りの甘酒が出されたりして、心温まる休息をとることができた。
遠くはるばる東京から訪れる私たちは、どこへ行っても歓待された。コンサートが終わって地元の有志と座談会がもたれ、それが労音の機関誌に載るのだが、出席者の熱気にあふれた表情、発言、態度、シャンソンというものを初めてじかに聴いた感動の波動みたいなものが私の胸にも伝わって、「どんなに苦労しても、また来てあげよう」という気持ちになってしまう。
労音会員の熱意が、私の心を動かし、全国津々浦々、渡し船でしか行かれない孤島までも歌いに行った経験は、私にとって忘れることのできない大きな財産なのである。