月別アーカイブ: 2019年6月

パリ再び、初録音-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

パリ再び、初録音-4

 東芝の石坂氏からパテ・マルコニ社への手紙で私の 「ラ・メール」収録のことを知り、聴きに来たらしい。しかし彼は、そそくさと部屋を出ていった。パリ木の十字架少年合唱団が同じ曲「ラ・メール」を別のスタジオで録音中だと、 スタジオの人がいさむ教えてくれた。この歌は第二次大戦の直後から世界中でヒットし、フラン 山内はもちろん各国で多数の歌手がレコード化しているのだ。
私が懸念していた、吹き込み中のいざこざはいっさいなく、二人の通訳の方も手持ち無沙汰なかの様子だった。モニター室にはさらに、磯村文子夫人の顔も見えていた。NHKの磯村尚徳氏(パリ日本文化会館長)は当時パリに駐在しておられたが、フランス語の達者な文子夫人を、なにか問題が起きたときのためにと派遣してくださったのである。夫人は吹き込みが終わるとまもなく帰られた。
私はちょうどアペリティフの時間だったので、トゥルニュ氏と相談して中華料理店をリザーブし、前菜と飲み物を用意してスタッフの皆さんをねぎらった。フランスでは仕事が終わって仲間と一杯やる習慣はあっても、食事は家庭でとる人が多いから、料理店に残って最後まで夕食をしてくれた人は独身者ばかりだった。
二人の通訳の方が最後まで残ってくれたが、あとはパテ・マルコニのスタジオでバック・コ-ラスをしてくれていた合唱団の皆さんのうち何人かと、若いモニターの方くらいだった。一日の大仕事を終えた私は肩から重荷をおろしてホッとした。


パリ再び、初録音ー3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

パリ再び、初録音-3

 10日ほどしてから吹き込むことになったが、やはり不安は山ほどあった。アルゼンチンの吹き込みで、私は通訳が一人で右往左往したことを思い出し、大使館に頼んで二人の女子留学生をアルバイトで予約した。また、あのときのように、楽団員にそれぞれ勝手なことを言いだ
されては困ると思ったからである。あのオデオン・レコードのスタジオでは、蒜はまったく蜂の巣をつついたようになり、言葉がわからない悔しさをいやというほど味わったものだから。
ところが、パテ・マルコこ社での吹き込みは、まったくなんの波風も立たず、渡された譜面に全員が忠実に従っていた。しかし、スタジオで約四〇人のオーケストラがあってピアノがな
かったのにはびっくりした。今までは必ずピアノがあって、その昔を確かめながら音程を拾う」とに慣れていたから、初めは戸惑ったのだ。ところが編曲者は、私が四年前の忘れもしないT一月十四日に、日本人として初めてだといわれたオランピアの舞台で「ラ・メール」を歌っ
にとき、私の編曲と指揮をしてくれたクロード・ヴァゾーリ氏であった。
なんと今日録音する四曲も、全部彼の編曲になるものだと知って、私はまた一人味方が増えたようで心強かった。なぜなら、四年前、「ラ・メー~」と「マ・プティト・フォリー」の編曲の打ち合わせのため、私は小柄で目の優しい彼のアパルトマンまで行って家族全員とも会っていたし、オランピアの初舞台のときは目の前で棒を振ってくれていたので、私の歌い方をよく知っている人だったからである。アレンジャーである彼に尋ねると、今回はピアノの代わりにハープを使って、エレガントな編曲にしたのだという。まず、ひと通り私が歌ってみてから、
カラオケをとるやり方であった。あれから四〇年以1たっているから、現在の日本での録音事情は欧米並み、あるいはそれ以1かもしれないが、当時はこのカラオケ方式がいちばん新しいやり方であった。
四曲のなかでいちばん苦労したのは「枯葉」であった。前半のクープレ(語りの部分)はバラードで、語るように歌うから普通なら同時録音するところである。しかし、別どりのほうが音質がよいからという理由で、私の歌い方をシェフ(指揮者)がいちいち記号で書き込んだ指
揮譜どおりに何回も歌わせるのである。それを録音して、あとで歌を吹き込むのだから、これもたいへん不安なことであった。しかし、本番ではまったく驚くほど正確にぴしっと私の歌い方どおりのカラオケができ、私の不安はいっぺんに解消した。また、ここでフランス語で歌っ
たもののほかに、日本に帰ってから日本語でダビング (合成録音)しなければならないから心配したのだが、言葉が違っても曲想はまったく同じでよいことも再確認された。
二曲とり終わったところで休憩になり、トゥルニエ氏からシャルル・トレネが来ていることを知らされ、私はモニター室にトレネの顔が見
えたので、とんで行って彼に尋ねた。「なにか歌唱上のご注意をください。私の歌い方の悪いところを指摘してください」と懇願した。「こ
のままでパルフェ (完全) だ。あなたは日本の美しい海を思いながら歌ってください」と言われて物足りない思いだった。


パリ再び、初録音-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

パリ再び、初録音-2

 舞台から有名スターたちがちょっと挨拶するだけなのに、客席のほうは超満員で熱気に満ちていた。やがて舞台から戻ったペコーと、私は四年ぶりに再会し、今日のご招待のお礼を言う。
日本でも映画『青春の曲り角』 で人気の出た女優パスカル・プティと一緒に、私もジルベール・ペコーから呼ばれて舞台に上がり「南米からパリへ、ただいま到着した彼は、パリでこれから活躍する日本人です」 という紹介だった。わけのわからない客席は、それでも温かい柏手を送ってくれた。ペコーの計らいは、石坂範一郎氏の手紙によるものであったことを、私は舞台から戻って初めて知った。石坂氏は私が宿泊するホテルの名前を彼に知らせ、このたびパテ・マルコニ社で初めてレコードの吹き込みをするアシノをサポートしてほしい、と手紙に書いてくれたのである。
ペコーもパテ・マルコニの専属であったし、提携会社・東芝レコードの石坂氏からの手紙には重みがあったにちがいない。それにしても、ペコーの人柄と日本人に対する偏見のなさ、四年前に初めて彼の家で出会ったとき、寝間着のままでピアノに向かい、私のために 「メケ・メケ」と 「風船売り」 の伴奏をしてくれたときの彼とまったく変わらない態度に、私は感銘を受けた。楽屋でいただいたアペリティフがまわってきたせいか、目がしょぼしょぼしてきたので早めに退散し、ホテルに戻るといっペんに疲れが出てぐつすりと眠ってしまった。
フランスで初レコーディング パリに着いた翌日から、私はパテ・マルコこ社に電話をかけはじめた。担当のディレクター、トゥルニュ氏と会うためである。ところが、彼は外国に出張中で三日後に帰るとのこと、三日後にまた電話をかけると今度は休暇で休み、その次の日は土曜、日曜と続いたので、彼とシャンゼリゼの事務所で出会ったのは、パリに着いてから六日目だったと思う。
曲目の打ち合わせから始まり、アレンジャー(編曲者)の選択と希望も尋ねられたが、私はお任せすることにした。ただ曲目はスタンダードを二曲と考えて、1ラ・メール」と1枯葉」に決め、たまたま大流行中の1サラダ・ド・フリユイ(サラダのうた)」、あとはその年のサ
ン・レモ音楽祭の入賞曲「ロマンテイカ」を選び、さっそく自分のキイを提示してアレンジをお願いした。


パリ再び、初録音-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

5、パリ再び、初録音

芸能人「ゲラン・ガラ」にご招待-1

 昭和三十五年の世竺周旅行は、北米、南米の次は欧州フランスへ飛んだ。四月半ば、パリは初渡仏以来、四年ぶりである。懐かしいパリ、あのときとまったく変わらないパリの街に着いたとき、キザなようだが、パリに帰ってきた、という感激で陶が熱くなった。街角の古びたビこストロも、カフェの椅子でさ、ろも懐かしく、歩きなれた道を通ってホテルに入った。フロントで部屋の鍵を受け取るとき、一過の封書を渡されたが、気にしないで一刻も早くベッドで休みたいと思っていた。
ホノルル、ロサンゼルス、ニューヨーク、ブエノスアイレス、リオデジャネイロと旅をともにしてきた二つの旅行鞄を開けて衣装をロッカーにつるし、ホッとしたところでベッドに腰かけて先ほど渡された白い封筒を開けてみた。なんと! それはジルベール・ペコーからの手紙で、芸能人の「グラン・ガラ」(慈善大会)への招待状であった。場所はクリシーの角にある大劇場ゴーモン・パラス。しかも、日時は今日、夜六時から。私は呆然とした。少しでもベッドで休みたい。睡眠がほしい。でもグラン・ガラ
にも出席したい。大きく揺れ動く心の中で、四年前私にオランピア劇場出演をすすめてくれたジルベール・ペコーの笑顔があった。せっかくの共演の申し出を断って、インドでのリサイタルを優先して日本へ帰った、あのときのすまなさが切々とよみがえった。
その夜、結局少し遅れて私も「グラン・ガラ」に出席した。シャワーを浴びてから、タキシードのたたみ皺を伸ばすのに時間がかかったからである。ロールスロイスやジャガーなどの高級車が次々と楽屋口に到着して、有名映画人、シャンソン歌手たちが入っていく。私もペコーからの招待状を見せて楽屋口から入り、控え室でアペリティフをいただく。少し遅れて当時人気絶頂のブリジット・パルドーの顔も見えた。


リオで骨休め-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

リオで骨休め-2

 貧し気な集落に近づいていくのである。リオの山の上にはこの国の舞踊音楽サンバの学校があり、あの華やかなカ-ニバルの踊りは山の上で練習するとか聞いていたので、もっと上まで行かったが、もう車も登れないような地面になっていて、引き返すことにした。コパカバーホテルに戻って支配人に尋ねてみたところ、リオデジャネイロは高いところほど水の傾が、貧しい人がみな山の上に追いやられるのだという。山の1ではよく犯罪が起きて、観光被害にあうのだとも聞いて、背筋が寒くなった。そういえば、シャルル・トレネのシャン「リオの春」のなかでも美しい海と空が主題になっており、遠景に見える緑の山は眺めているだけのほうがよいのだということに気がついた。
リオデジャネイロは世界三大美港(夜景)の一つとされているだけに、空からの眺めはじつに素晴しく、トレネの名曲「リオの春」の美しいメロディーが、何回も私の心の中によみがぇってきて思わず口ずさんでしまう。到着したときの昼の海と違って、いま飛び立とうとする夕暮れの海もまた素晴らしく、数えきれないイルミネノンヨンがともされ、おとぎの世界にいるような気分だった。
リオデジャネイロ空港をあとにしてブラジリアで給油し、一路大西洋を横断して北半球の回へ向かうことになる。北半球の片隅に位置する国・日本で生まれた私にとって、地球裏側の国々で体験した貴重な経験は忘れることができない。
ここから一気にパリのオルリー空港へ直行する夜行便は、当時ジェット機が運航されていない時代だったから、18時間くらいかかったと記憶している。ファーストクラスは足が伸ばせてほとんど水平になって寝られたのでだいぶ助かったたものの、秋たけなわの南米から早春のヨーロッパへへ一日のうちに飛んでしまうのだから、少々体調がおかしくなっても不思議ではない。