自分なりの発声法-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

自分なりの発声法-1

音声障害といっても、私はまだ喋ることができる。この喋り声を歌声に持っていけばよいのだ。喋る声と歌う声の区別がない自然な発声法である。そうすれば喋れるかぎりは歌えるわけである。これなら何時間歌っても疲れることもないだろう。歌うことを禁止されていた六カ月
の間に、私は柴田先生から教わったあらゆることを復習し、参考にしてクロスピーの歌を聴いた。喋る声とまったく変わらない自然な発声。改まって咽喉の奥を開き、腹の底から声を出す
ように教えられていたころは、身体全部を楽器と考えて、いかに骨格を利用して声を響かせるか、ヴォリュームをもたせて遠くまで聞こえるようにするかに専念し、ほかに耳を貸す余裕すらなかった。
私は、喋り声をもとにして歌えば、声が疲れたり音声障害を引き起こしたりすることがなくなるのではないかと思うようになり、三年かかって取り組んだ声を元に戻し、自分自身の自然の発声を考え出そうとしはじめたのであった。咽喉は自然のままで頭蓋骨の共鳴を利用し、音
を前方に持っていき、胸の共鳴も利用して呼吸法で息を整える。つまり、自分の骨格に響かせ
て頭声 (頭にひびかせる声)と胸声(胸にひびかせる声)をうまく使い分ければよい。これが私の歌声の基本となり、苦しみを乗り越えて獲得した努力の結晶だと思っている。
私は歌えない時期に、自分の勉強法が間違っていたことを覚り、新しい発声法に目覚めた。
柴田先生が教えてくださったことはもちろん正しいのだが、私は自分で声をつくっていたことに気がついたのである。先生を尊敬し、先生に傾倒すると、学生は先生の模造品になるものである。私は心から先生を尊敬していたから、知らず知らずのうちに、先生と同じ声になりたいと願っていたのだ。今にして思えば、低音に魅力のあるバリトン歌手が高音を主にしたテノールに似せようと努力することは、初歩的な誤りであることがわかるが、青春の真っ只中にいて馬車馬のように走っていた音楽学生にはわからなかったのである。
在学中、音声障害を起こして歌えなくなって以来、発声に疑問をもちはじめていたころ、私はレコード吹き込みに熱中しはじめた。その当時はテープレコーダーが開発されていたらしいが、まだ一般には普及しておらず、銀座四丁目の辻を築地方面に向かって、次の角にあった「小野ピアノ店」には、二階に吹き込み用の部屋があって、三分間のSPレコードを作ることができた。初めは同級生のピアニストに伴奏をつけてもらって、何枚もレコードを作り、すり切れるまで聴いて勉強した。薄い金属の円盤に蝋(ろう)を塗った粗末なものだったから、三〇回くらいで完全にすり切れてしまう。それでもこりずに小遣いがたまると、また吹き込み所に行くのだった。私はのちに歌手デビュー後、国内レコード数社のほかフランスやアルゼンチンでも録音したが、初めてレコード吹き込みをしたのは、芸大在学中、ここにおいてだった。自分の声を客観的に聴きたくて、小遣いを節約して自費で録音したのである。私が高い費用を支払ってまで録音して勉強したのは、小学校のときに果たせなかったレコード吹き込みの夢をもち続けていたせいがあるかもしれない。
(注)
昭和二十五年、東京通信工業(ソニー)がテープレコーダーを発売。同三十一年ごろにはオープンリール・デッキが普及。