レコード会社オーディション-3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-3

あとで開いた話だが、私の前に歌った少女は江刺チエミさんで、そのあと別のレコード会社のテストを受けたところ一度で気に入られ、初吹き込みの 「テネシー・ワルツ」と 「カモンナ・マイ・ハウス」 が大ヒットして、いちやく大スターにのし上がったそうである。チエミさんとは、第六回NHK『紅白歌合戦』に初出場したとき、彼女の相手役に私が選ばれ、その後も地方公演やNHKクイズ番組などでたびたびご一緒したが、あのときのオーディションで私が彼女の次に受けたことは知らない様子だったから、こちらも黙っていた。
淡谷さんのお骨折りにもかかわらず、レコード・オーディションは実らなかったが、放送などでのデビューのあと、北村維章と東京シンフォニック・タンゴオーケストラの伴葵により、渋谷道玄坂の映画館のアトラクションで淡谷さんのヒット曲である十小雨降る径」と「パリの
屋根の下」を歌うことになった。むかし山形の霞城館で毎日三回歌ったことをありありと思い出して多少抵抗があったものの、北村先生はNHKラジオ『虻のしらべ』で初めてのシャンソン「ラ・メール」「詩人の魂」を歌ったときに伴奏をしてくださった方であり、お断りするこ
ともできず出演することにした。
続いて大阪・産経会館に出演する話がきたので、受けることにした。慣れない映画館のほこりを吸ったせいか、風邪をひいて熱を出し、頭に水嚢(ひょうのう)をのせて寝ているところを淡谷のり子さんに見つかった。舞台では元気よく歌っていたのでだれも気がつかなかったのに、淡谷さんは楽屋を訪ねてきたのである。そして意外なことに、冷たい言葉を浴びせられ、思わず起き上がった。「芸能人は風邪なんかひいちゃだめよ。甘ったれんじゃないわよ」。このひと言はこたぇた。なんと意地の悪い女だろうと思った。しかし、この言葉の重さがしだいに、痛いほどわかってきたのは、大分たってからである。
昭和三十年(一九五五〉の年の暮れに、初めてNHK『紅白歌合戦』に抜擢されて以来、私のスケジュールは超過密になり、半年も前からの予約でいっぱいになっていた。風邪をひこうが熱があろうが、出演を断ればどれほどの人が迷惑をこうむるかよくわかってきたからである。
のちにフランスで聞いた話だが、パリのオペラ・コミック座に出ていたソプラノ歌子砂原美智子さんがオペラ『マダム・バタフライ』 の公演中に倒れたとき、予想外の違約金を請求されたとのこと、日本の興行はまだまだ人情がらみで甘いということである。
さて、大阪で淡谷のり子さんに叱られたことは、今でも身に弛みて、あれ以来、私は健康に気をつかい、少しでもおかしいと思えば、早めに処置をするようにしている。結局、病気によって人に迷惑をかける以上に、いちばん苦しんで損をするのは自分自身だということが、長い
芸能生活のなかで痛いほどわかってきたからである。シャンソンを歌える喜びとは裏腹に、歌う苦しみは常についてまわるものであるが、自分一人の仕事でないという責任感と意地が、いつの間にか自分自身をむち打って、自分が少しずつ変わっていくのがよくわかってきた。