NHKラジオ・デビュー5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー5

(注)
薩摩次郎八をモデルにした小説は御子丈六『但馬太郎治伝』、瀬戸内晴美(寂聴)『行きてかえらぬ』など、戯曲は有吉佐和子『日本人万歳!日本シャンソン小史》
昭和二年(元一石)、岸田辰弥作・演出の宝塚レヴュー『モン・パリ』で初めてシャンソンが取り入れられた。歌・奈良美也子、花組。日本シャンソン史上、記念すべきもの。
昭和五年、白井鉄造作・演出の宝塚レヴュー『パリゼット』で1すみれの咲く頃」が歌われる(天津乙女、月組)。
昭和六年、映画『巴里の屋根の下』本邦公開。田谷力三、レコード発売。
昭和八年、映画『巴里祭』本邦封切。
レコード・西百合江。佐藤美子「パリ流行歌の夕べ」(日本初のシャンソン・コンサート)開催。
昭和十一年、「暗い日曜日L淡谷のり子、十三年「人の気も知らないで」小林千代子。
レヴュー、レコード(と〈に輸入盤「シャンソン・ド・パリ」)などに放送も加わって、シャンソンがわが国に広まる。
そのシャンソン熟も日中・太平洋戦争中は敵性音楽として冷却を強いられる。
昭和二十年、敗戦。三十一年「もはや戦後ではない」(経済白書)。
昭和三十二年(一九五七)、このころ日本のシャンソン・ブーム璽同湖。芦野宏は音楽の室仙『シャンソン読本』の企画により、薩摩次郎八、佐藤美子と「シャンソンよもやま放談」。佐藤さんはフランス人を母親にもつ声楽家、のちに横浜市教育委員もされた方。それに新進シャンソン歌手として芦野が、鼎談の一人に抜擢。
薩摩さんと意気投合したのは、山田耕作先生と同じように日本語はイントネーション、音の上がり下がりによって意味が違ってくるので、そのことをいちばん大切にしていることであった。私も若かったし、彼も若い。二人は夜遅くまで、私の市ヶ谷の応接間でともに考え、ピアノをたたきながら、より良い歌詞を探し求めて苦労した。
たとえば1ラ・メール」の場合、最初の「海」という歌い出しは「う」が低く「吾が三度高い。これだと「膿(うみ)」というふうに聞こえて、海のイメージがこわれてしまう。だから「うみ」にはしたくないので、そのまま原語を生かし、次の原詩「コン・ヴォワ・ダンセ」に続くために原語に近い音感、そして喋り言葉になる「こころをゆする調べ」としている。
言葉が泉のごとくわき出る才能、しかも彼の作品はいずれも耽美的な優雅さがどこかにあって、花のパリで銀の乗用車を調達し、美しい奥様を乗せて万雷の柏手を浴びたという伝説の人、薩摩次郎八氏に近い感性を感じさせられることがしばしばあった。ともに苦しみながら仕上げた作品は数限りないが、とくにヒットしたものは、「風船売り」「パパと踊ろうよ」「メケ・メケ」「枯葉」「小雨降る径」「ラ・メール」「花祭り」「幸福を売る男」「カナダ旅行」「私の心はヴァイオリン」などなど、数えきれない。
そのなかで「ラ・メール」は正真正銘、私のNHKシャンソン・デビュー曲であり、この訳詞で歌うことも多く、いろいろな意味での転機に重要な位置を占めることになった曲である。