民放各社にもレギュラー番組-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-1

さて昭和二十八年(一九五三) 二月、四月とNHKで歌って以来、方々から歌番組やコンサートの出演依頼がきた。二年前に民間放送が始まっており、各局のゲスト出演ののち初夏のころろから文化放送のゴールデン・タイムで『歌の散歩道』というレギュラー番組をいただいた。
芸大時代、音楽の家庭教師をしていた東郷育児画伯の一人娘、たまみさんが事実上デビューすることになった番組でもある。
これは、今も伝説に残る名ディレクター呉正恭氏 (元・日大芸術学部教授、放送学科主任)が考え出したプログラムで、私に世界各国のポピュラーを歌わせ、まだ十六歳の少女、たまみさんを相手役に起用したのである。東郷たまみさんはこの番組に出てコロムビアから認められ、やがてレコード歌手となった。ステージでも活躍されたが、その後、絵の修業に専心されて歌
はお休みしているようだ。父・画伯の跡を継がれた画業のほうでは、優しい少女像を独特の画風で描くことにより、美術界で重要な位置を占める存在である。
芸大在学中から世界のポピュラー音楽に興味をもち、一人密かに勉強していた甲斐があって、レパートリーには不自由しなかったが、アメリカ編ではフォスターの曲を次々と英語で歌い、好評を得た。「懐かしのヴァージニア」「ケンタッキーのわが家」「スワニー河」「オールド・ブラック∴ンヨー」「夢みる人」、それに早口で歌う「草競馬」や「おおスザンナ」などである。
戦前、私は十代のころから『フォスター歌曲集』を持っていて、自分でピアノを弾きながら歌うことができた。
一つには英語の発音の勉強にもなることだし、応接間にあったピアノを弾いて自分で覚えたのである。父は男の子がピアノをたたくことが嫌いだったから、学校から帰ってから昼間のうちに弾くことにしていた。『歌の散歩道』 はこのようなアメリカの曲に、「アマポーラ」などのラテン、「ラ・メール」「パリの空の下」などのシャンソン、それにタンゴ、カンツォーネとい
った組み合わせで約一年ほど続いた。
昭和二十九年(一九五四)一月からはラジオ東京(現・TBSラジオ)で水曜日、夜の八時半から九時までのゴールデン・アワーに、資生堂がスポンサーの一流番組『花椿アワー』が始まった。シャンソンを主としており歌手は淡谷のり子さんと越路吹雪さんであった。そんなベテランに交じって、私は「バラ色のサクラと白いリンゴの花」「彼は恋心」「くよくよするな」「花祭り」など、数々のシャンソンを歌うことができた。まったく夢のようであった。