日劇出演と第一回リサイタル-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-2

先生はエコール・ド・パリの画家・藤田嗣治の甥にあたり、慶応の仏文科を卒業後にフランスに留学され、シヤンソン、バレエ、サーカスなどを鑑賞・研究された。フランスに歌手をはじめ多彩な交友をもたれ、それらを『パリの街角』や『午後のシャンソン』など数多くの放送出演、執筆ほかの解説などで紹介・普及に尽くされた。わが国におけるポピュラーな芸能評論の草分けである。直接・間接、先生の教えを受けない日本のシャンソン歌手は一人もいないといっても過言ではあるまい。昭和五十六年に七十四歳で他界された。高橋忠雄先生ご逝去(六十九歳)のひと月後のことだった。
産原先生のシャンソン、オペラ、バレエ、サーカスなどに関する膨大なコレクションは没後、遺族から国立国会図書館に寄贈されているが、私が副会長を務める日本シャンソン協会(会長・石井好子)はその活動が評価され、第一三回産原英了賞(昭和五十七年設立)を受け(平成六年)、館長職にある「日本シャンソン館」(平成七年オープン)にも先生の遺影と著書などが飾ってある。
ところで、日劇の舞台に話を戻すと、「フラメンコ・ド・パリ」のフラメンコ・ギター伴奏は当時ナンバーワンと謳われた酒井富士大先生で、私もモンタンをまねて黒いシャツ姿でステージに立った。フランス語のほうはマスターしていたが、日本語でワンコーラスといわれ、急いで自分自身の訳詞で歌うことになった。

ひとり聞く あのギターの調べ
胸によみがえる ああモナミ、レ・スパニョール
遠いマドリード われはひとりパリの裏町