夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。
名古屋の公演といっても私の場合は一日だけだから、翌日はまた別の会場に移動する。主催者が同じだと、京都、大阪、神戸、姫路と順序よく移動できるのだが、とつぜん北海道や九州に飛んだりすることもある。もちろん、すでに飛行機は利用できたが、あのころはすべてプロペラ機でジェット機の倍以上時間がかかるし、なによりよく揺れるから、体調の悪いときは酔ったりするので困った。若かったし、やる気もあったから乗り越えることができたが、いま思えばよくやってきたものだと、われながら感無
量である。同時に、今では味わうことのできない経験をさせていただいたことに感謝するとともに、なかなか見ることのできない景観や、土地の名物料理、そのほか諸々の懐かしい思い出は宝物だと思い、心からありがたいと思っっている。