テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-2

 それというのも、日本のテレビ局のように、あと何分、あと何秒という神経質なやり方でなく、いとも大ざっばなディレクターの指示であり、時間のほうは司会者にお任せです、というようなのんきなものであったから、出演するほうもプレッシャーを感じなかったのである。
テレビ局を出ると、中華料理店へ直行した。あと二日でアルゼンチンを離れるし、レコーディングとテレビ出演でお世話になったロペス氏を中心に、楽団の人たちもテレビ局の人も、皆さんを招待したかったのである。約20人ほどの宴会になり、だいぶ盛り上がったが、スペイン語の会話なのでなかなか溶け込めなかった。宴たけなわのころ、電話が入ったことを知らされ、私は稲塚氏に出てもらった。しばらくして、彼は苦笑しながら帰って来られた。「芦野さん、どうしますか、仕事がたくさん入ってきて、明日、隣の国チリで歌ってほしいとのことですよ。ずっとアルゼンチンで歌ってほしいとも言ってます」。私はびっくり仰天した。ほんとうなら、とび上がって喜ぶべきことかもしれないが、すでに明日の午後、ラジオ・エルムンドの公開放送が終わってから、ブラジル経由で憧れのパリへ向かって出発することになっていたからである。
私にとってはパリでのレコーディングが本命であり、そのための世界旅行だったつもりである。思いがけない人気が嬉しくないわけはないが、一方で、私はタンゴ歌手・藤沢嵐子さんの忠告を思い出していた。アルゼンチンで大成功を収めて高い評価を受け、帰国された「ランコ・フジサワ」の名はアルゼンチンではいまだに伝説として残っている。私が日本を発つ前に、嵐子さんから聞いた詰もしっかり頭に入れてきた。
「声野さん、あの国の人はすぐに燃え上がって熱狂するけど、金銭的にはよほどしっかりしていなければだめよ。私は何べんも興行でだまされた。熱狂的なファンのために歌っても、お金が入らないことで嫌な思いをしてきた」。そんな言葉も思い出されて、私はいい潮時と考え、翌日ラジオ・エルムンドとラジオ・リベルタールの公開放送を終えて、思い出の町ブエノスア
イレスを離れることにした。街はアルゼンチンの国花である淡紅色のセイボの花が満開の季節であり、初めて受けた南米の人たちの熱狂的な歓迎を深く心の奥にしまって、うしろ髪を引かれる思いでこの回を離れた。日立製作所の稲壕氏は、空港を離れるとき、いつまでも手を振ってくださった。