月別アーカイブ: 2018年3月

民放各社にもレギュラー番組-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-1

さて昭和二十八年(一九五三) 二月、四月とNHKで歌って以来、方々から歌番組やコンサートの出演依頼がきた。二年前に民間放送が始まっており、各局のゲスト出演ののち初夏のころろから文化放送のゴールデン・タイムで『歌の散歩道』というレギュラー番組をいただいた。
芸大時代、音楽の家庭教師をしていた東郷育児画伯の一人娘、たまみさんが事実上デビューすることになった番組でもある。
これは、今も伝説に残る名ディレクター呉正恭氏 (元・日大芸術学部教授、放送学科主任)が考え出したプログラムで、私に世界各国のポピュラーを歌わせ、まだ十六歳の少女、たまみさんを相手役に起用したのである。東郷たまみさんはこの番組に出てコロムビアから認められ、やがてレコード歌手となった。ステージでも活躍されたが、その後、絵の修業に専心されて歌
はお休みしているようだ。父・画伯の跡を継がれた画業のほうでは、優しい少女像を独特の画風で描くことにより、美術界で重要な位置を占める存在である。
芸大在学中から世界のポピュラー音楽に興味をもち、一人密かに勉強していた甲斐があって、レパートリーには不自由しなかったが、アメリカ編ではフォスターの曲を次々と英語で歌い、好評を得た。「懐かしのヴァージニア」「ケンタッキーのわが家」「スワニー河」「オールド・ブラック∴ンヨー」「夢みる人」、それに早口で歌う「草競馬」や「おおスザンナ」などである。
戦前、私は十代のころから『フォスター歌曲集』を持っていて、自分でピアノを弾きながら歌うことができた。
一つには英語の発音の勉強にもなることだし、応接間にあったピアノを弾いて自分で覚えたのである。父は男の子がピアノをたたくことが嫌いだったから、学校から帰ってから昼間のうちに弾くことにしていた。『歌の散歩道』 はこのようなアメリカの曲に、「アマポーラ」などのラテン、「ラ・メール」「パリの空の下」などのシャンソン、それにタンゴ、カンツォーネとい
った組み合わせで約一年ほど続いた。
昭和二十九年(一九五四)一月からはラジオ東京(現・TBSラジオ)で水曜日、夜の八時半から九時までのゴールデン・アワーに、資生堂がスポンサーの一流番組『花椿アワー』が始まった。シャンソンを主としており歌手は淡谷のり子さんと越路吹雪さんであった。そんなベテランに交じって、私は「バラ色のサクラと白いリンゴの花」「彼は恋心」「くよくよするな」「花祭り」など、数々のシャンソンを歌うことができた。まったく夢のようであった。


NHKラジオ・デビュー・6

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー・6

原孝太郎渡仏記念コンサートで歌ったのも、シャルル・トレネ作「カナダ旅行」と「ラ・メール」であり、昭和二十九年(一九五四)、初めての大舞台・日劇恒例『夏のおどり』でも「フラメンコ・ド・パリ」とともに「ラ・メール」を歌った。さらにウエストミンスター.レコードでポピュラー界では日本人として初めて1Pレコードに吹き込んだもののメインもそれであり、昭和三十一年(一九五六)、初めての渡仏で実現したパリ・オランピア劇場での特別ゲスト出演でも「ラ・メール」を歌った。
その後も何度かパリで歌っているが、平成二年〈-九九〇)の九月にパラディ・ラタンの舞台で歌う前日、パリ市庁舎でシラク市長(当時)からヴュルメイユ勲章を授与されたとき、シラク氏のメッセージのなかに1一九五六年に初めてパリを訪れた芦野宏が『ラ・メール』を歌つて以来、数々のシャンソンを歌って日仏の交流を深めた」という一節があったから、やはり四〇年前のパリのステージ・デビューはいつまでも忘れられないし、忘れてはいけない。
余談だが、私が『虻のしらべ』で歌手デビューする当日、新聞のラジオ番組欄には「歌・芦野宏」と予告されていてびっくりした。私の本名は芦野広で、宏ではない。不審に思い、高橋忠雄先生に確かめたら、なんと先生が漢字を間違えてNHKに登録したとのこと。それにしても、名前が違えば自分でないような感じがして、初めは違和感があった。マスコミでは一部、本名で記されることもあったが、見慣れてくると宏のほうが本名よりやわらかくて芸名らしくよいように思えてきたので、私も意識して「宏」が定着し、それ以来ずっと「芦野宏」を芸名として使っており、こちらのほうが好きになっている。
(注)
ここで、放送の開始、開局などを略記しておく。
《ラジオ》
大正十四年(一九二五)、NHK(愛宕山)、昭和十四年 (内幸町)、昭和四十八年 (渋谷)。
昭和二十六年(一九五一)、中部日本、毎日、朝日、ラジオ東京など。
昭和二十七年、文化放送、ラジオ神戸。八月、NHKラジオ受信契約数一〇〇〇万突破。
昭和二十九年、ニッポン放送。
昭和三十二年、NHKFM。
《テレビ》
昭和二十八年(一九五三)、二月一日、日本テレビ(午前十一時二十分)、NHK(午後二時)。
この日のNHK夜十時のラジオ番組で芦野宏がデビュー。
昭和三十年、TBS。
昭和三十四年、NET(現二丁レビ朝日)(二月)、フジテレビ(三月)。
昭和三十九年(一九六四)、東京にチャンネル(現)テレビ東京。


NHKラジオ・デビュー5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー5

(注)
薩摩次郎八をモデルにした小説は御子丈六『但馬太郎治伝』、瀬戸内晴美(寂聴)『行きてかえらぬ』など、戯曲は有吉佐和子『日本人万歳!日本シャンソン小史》
昭和二年(元一石)、岸田辰弥作・演出の宝塚レヴュー『モン・パリ』で初めてシャンソンが取り入れられた。歌・奈良美也子、花組。日本シャンソン史上、記念すべきもの。
昭和五年、白井鉄造作・演出の宝塚レヴュー『パリゼット』で1すみれの咲く頃」が歌われる(天津乙女、月組)。
昭和六年、映画『巴里の屋根の下』本邦公開。田谷力三、レコード発売。
昭和八年、映画『巴里祭』本邦封切。
レコード・西百合江。佐藤美子「パリ流行歌の夕べ」(日本初のシャンソン・コンサート)開催。
昭和十一年、「暗い日曜日L淡谷のり子、十三年「人の気も知らないで」小林千代子。
レヴュー、レコード(と〈に輸入盤「シャンソン・ド・パリ」)などに放送も加わって、シャンソンがわが国に広まる。
そのシャンソン熟も日中・太平洋戦争中は敵性音楽として冷却を強いられる。
昭和二十年、敗戦。三十一年「もはや戦後ではない」(経済白書)。
昭和三十二年(一九五七)、このころ日本のシャンソン・ブーム璽同湖。芦野宏は音楽の室仙『シャンソン読本』の企画により、薩摩次郎八、佐藤美子と「シャンソンよもやま放談」。佐藤さんはフランス人を母親にもつ声楽家、のちに横浜市教育委員もされた方。それに新進シャンソン歌手として芦野が、鼎談の一人に抜擢。
薩摩さんと意気投合したのは、山田耕作先生と同じように日本語はイントネーション、音の上がり下がりによって意味が違ってくるので、そのことをいちばん大切にしていることであった。私も若かったし、彼も若い。二人は夜遅くまで、私の市ヶ谷の応接間でともに考え、ピアノをたたきながら、より良い歌詞を探し求めて苦労した。
たとえば1ラ・メール」の場合、最初の「海」という歌い出しは「う」が低く「吾が三度高い。これだと「膿(うみ)」というふうに聞こえて、海のイメージがこわれてしまう。だから「うみ」にはしたくないので、そのまま原語を生かし、次の原詩「コン・ヴォワ・ダンセ」に続くために原語に近い音感、そして喋り言葉になる「こころをゆする調べ」としている。
言葉が泉のごとくわき出る才能、しかも彼の作品はいずれも耽美的な優雅さがどこかにあって、花のパリで銀の乗用車を調達し、美しい奥様を乗せて万雷の柏手を浴びたという伝説の人、薩摩次郎八氏に近い感性を感じさせられることがしばしばあった。ともに苦しみながら仕上げた作品は数限りないが、とくにヒットしたものは、「風船売り」「パパと踊ろうよ」「メケ・メケ」「枯葉」「小雨降る径」「ラ・メール」「花祭り」「幸福を売る男」「カナダ旅行」「私の心はヴァイオリン」などなど、数えきれない。
そのなかで「ラ・メール」は正真正銘、私のNHKシャンソン・デビュー曲であり、この訳詞で歌うことも多く、いろいろな意味での転機に重要な位置を占めることになった曲である。


NHKラジオ・デビュー4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー4

(注)
『虹のしらべ』NHKラジオ第二放送、毎週、日曜午後十時~同三十分、放送開始は昭和二十七年(一九五二)十一月十六日。欧州と中南米の軽音楽を楽団演奏と歌で紹介。アルゼンチン音楽、ラテン音楽、シャンソン、コンチネンタル・タンゴ、スペイン音楽、ロシア民謡などの特集が組まれた。主な出演歌手は、淡谷のり子、高英男、芦野宏、ビショップ節子、中原美紗緒、クラシックの柴田睦陸、礁過大勲
(牧博)、中村浩子ほか。
昭和二十八年度のNHK年鑑には「特にシャンソンの芦野宏氏、アルゼンチンタンゴの牧博氏の進出
をみたことは注目される」と記されている。
芦野宏は三年間にラテン・タンゴで四回、シャンソンで一五回出演、それぞれ七曲、三五曲歌う。二
回のシャルル・トレネ特集に出、一人で各回全曲(甲五曲)を受け持つ。「新人としては異例の扱い
だった」とは、担当ディレクター石川洋之氏の述懐である。
同番組は何度か曜日と時間帯が変わり、のちに第一放送に移り、三十一年三月、好評裏に終了。
(日本放送協会放送史編集室『NHK確定番組』およびNHK年鑑より)
あとで出演することになる日劇はもちろんのこと、放送局などからも原語だけでなく、一部は日本語でという注文が出るようになってきた。私は薩摩思さんと何度も会って、「ラ・メール」をはじめたくさんのシャンソンの訳詞に取り組むようになる。薩摩さんはのちに室生犀星賞をはじめ、数々の受賞に輝く詩人であるが、あのころはまだ慶応義塾大学仏文税を出たばかりの青年であった。
薩摩次郎八氏といえば、日至の木綿問屋といわれた豪商の三代計であるが、小説や戯曲のモデルにもなった方で、フランス留学生のためにパリ大学国際都市に日本館を寄付し、藤田嗣治画伯のパトロンでもあり、バロン・サツマとして滞欧中のけた外れな豪遊や帰国後の質素で粋な生活ぶりなど、逸話は枚挙にいとまがない方である。
薩摩思さんは次郎八氏の従弟のご子息で、ご尊父は宝塚の演出家・白井鉄道氏の親友だったという。私は昭和二十八年十二月六日、日仏文化協定記念シャンソンの夕べで共演した橘かをる(薫〉さん(宝塚『モン・パリ』再演で初舞台、シャンソン歌手〉に紹介されて彼とお付き合いするようになった。


NHKラジオ・デビュー 3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー 3

冒頭に記したように、私は当時ポピュラー・ミュージックの熱心なファンが愛聴していた、NHKラジオ夜の看板番組でデビューを果たしたのであった。
テレビはNHKが私のラジオ・デビューと同じ年月日に東京エリアで本放送を開始しているが、受像機がゆきわたるのはまだまだ先のことだった。『虻のしらべ』 は聴取率も高く、たちまち「初めて聴く声です。この人をもう一度」というリクエストの葉書が何通かNHKに舞い込んだという。多くの人の要望によりデビューから二か月後、四月五日に私は再出潰することになった。
その後、民放各社でシャンソン熱が高まり、私はたちまちシャンソン界の新人として扱われるようになった。
NHK「虹のしらべ」でも「ラ・メール」「詩人の魂」を北村維章指揮、NHKシンフォニック・タンゴオーケストラの伴奏で詠うことになり、一躍シャンソン歌手としての地位を築くことになるのである。
「ラ・メール」は作詞作曲者シャルル.トレネが歌って戦後、世界的に大ヒットした彼の代表作の一つで、同じトレネ作の1詩人の魂」とともにフランス語で歌い通した。当時は、男性でシャンソンを歌っている人は、高英男さんだけであった。すでに大スターであった高さんのあとに続く新人として、世間が私にシャンソンを歌わせたかったのかもしれない。
リクエストによって放送局から曲の相談を受けたが、このあと『虹のしらべ』で「小雨降る径」「待ちましよう」を歌ったときは、淡谷のり子さんから電話があって、1よかったわよ、フランス語がよかった」と、あまりほめてもらえない先生から励まされたのは、とても嬉しかった。