「パパと踊ろうよ」-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅲ 新たな旅立ち

2、お茶の間にシャンソンを

「パパと踊ろうよ」-1

 アンドレ・クラヴォー(魅惑的な歌声の歌手) の歌う心温まるシャンソン「パパと踊ろうよ」。こんな歌が流行歌として通用するフランスはいいなと思っていた。
初めて私がパリを訪れたとき、のちに専属契約を結ぶ東芝レコードの関係でパリのEMIレコードの制作部長さんとお会い一する機会があった。西も東もわからぬまま、通訳の方に連れていかれてレコード会社の応接室に通されると、まず第一声は日本の著作権はどうなっているかという質問であった。昭和三十一年(一九五六)九月のことである。私はじつのところ、そのころ著作権問題について無知であり、どうなっているかなんてまったく知らなかった。
「日本でシャンソンが流行して、歌われていることはとても嬉しいことだ。しかし、いくら演奏されてもフランスに著作権料が入ってこない。ほかの国では楽譜を出版する際に必ず番号を付けて登録されているのだが、日本の場合はいったいどこでどうなっているのか」という質問なのである。私は肩身の狭い思いをし、文化後進国の恥を一身に背負わされているような気持ちで小さくなっていた。
ところが、私が持参したテープを聴いてくれた部長さんの表情が急に明るくなり、にわかに餞舌になった。「パパと踊ろうよ」である。「ムッシュー、この原盤(アンドレ・タラヴォーの歌)のなかで聞こえる子供の声はじつは私の娘なんですよ」と言われ、そのあとは和やかな会話がはずんで、やっと救われた気分になった。シャンソンの著作権問題は、その後パリでお会いしたドネ氏を通じて日本では音楽之友社(水星社)と最初に出版の契約をすることになったのだが、それまで日本で発売されていたシャンソンの譜面は、すべて海賊版と称する、正式なものではなかったのだ。
さて、昭和三十一年に初めてパリを訪れ、いろいろなシャンソンのあり方を知った私は、目から鱗が落ちる思いで方々のシャンソン小屋を歩きまわった。モンマルトルでコラ・ヴォケー ラルの出ている「トマト屋」とか、サンジェルマン・デ・プレにある五〇人くらいで満席になる寄席みたいなシャンソン小屋「ヤコブのはしご」という狭い階段に客が腰かけてシャンソンや漫談を聴く場末の小屋、また難解な皮肉ばかり歌う小さなシャンソンの部屋。レコード会社の八は、こんなところをまわって新人を発掘するんですよと冗談みたいに笑っていたが、それは本当のことだと思った。ただ、言葉のわからない私たち外国人には歌の意味を理解するのは無
理なことだ。