月別アーカイブ: 2018年9月

 冬の北海道-1

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-1

夏の九州公演が終わると、数年後の二月、いちばん寒いときに北海道の仕事がきた。寒いのが苦手な私は二の足を踏んだが、菊池音楽事務所の専務であった安井直康氏のたっての要請で引き受けることにした。「北海道は完全暖房だから室内が暖かくて、うすら寒い東京よりはずっと快適ですよ」という甘言にのせられて、二月の初めから約二週間にわたる労音のコンサー
トが始まった。
最初の振り出しは岩見沢であった。函館本線で札幌から一時間足らずのところにあり、素朴な北国の街であったが、ここは雪が深くて最初の出発から驚きの連続であった。寒いことは覚悟のうえだったが、雪の深さには閉口した。雪のために車道が狭くなり、すぐ近くの会場までたどり着くのにたいへんな苦労をしなければならなかったからである。
日程が進んで旭川から宗谷本線に乗り換え、士別・名寄の方面に向かうと寒さは一段と厳しくなり、もちろん雪景色には変わりないのだが、雪の質が函館あたりとはまったく違ってくる。
積雪量は少ないのだが、気温が零下二〇度くらいまで下がるので空気が乾燥しているような感じがする。士別の会場には大きを円筒形の石炭ストーブがあり、超満員の客の人いきれでいくらか寒さは緩和されていたが、宿に帰ると、水道の蛇口が凍結して風呂にも入れない状態であった。水のほしい人は台所にある汲み置きの水を飲むより仕方なかった。
旅館ではいつも私は単独の一人部屋に決まっていたから、床の間付きの八畳間が与えられ、楽団の皆さんはだいたい二人ないし三人が一緒の部屋であった。その夜、士別の気温は零下一四度ということだったが、部屋の中央に中型の「だるまストーブ」が一つ置かれていた。一晩じゅう焚き続けているにもかかわらず、部屋は一向に暖まらず、ストーブの周囲、約一メート
ルくらいが暖かいだけである。だから、ストーブのほうを向けば顔は暖かいが、背中はスース
ーと寒い。ストーブに背を向ければ鼻の先が冷たくて、マスクをし毛布を頭からかぶって寝るよりほかなかった。
そんなわけで、北海道は東京より暖かいと言われて旅に出た私は、東京の事務所で留守番をしている安井氏をうらんで電話をかけたこともあった。そんなとき、いつも行動をともにして
苦労を分かち合ったのは、田中宏和さんであった。しかし、寒いからといって、これ以上どう
することもできず、文句を言いながら旅を続けなければならなかった。北海道も北の果てまで行ったが、稚内あたりに来ると、逆に名寄や士別より寒くないから不思議だ.


夏の九州-4

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-4

初めての九州旅行は最後が鹿児島であった。案内された旅館は「滴洲館」という名で、風通
しのよい部屋に通されたが、なぜ 「南洲館」 にしなかったのかなと、変な疑問をもちなから私
は名所旧跡を訪ねて歩いた。西郷南洲ゆかりの地である。桜島は目の前にあつて、手の届きそ
うな距離だった。島津庭園も深く印象に残り、やはりここまで来ればはるばるやってきたとい
う感慨がひとしおである。どこか異国情緒が漂っている。そうだ沖純にいちばん近い距離にあ
る、本州の南端なのだと思ったら、詩のなかにあの沖縄のメロディーが浮かんできた。

「南国薩摩の白餅」
詞 芦野 宏
曲 松井八郎


赤い爽竹桃の花影で
誰を待つやら待たすやら
南国薩摩の白餅
海の入陽が眼に恥みる

碧い海だよ 恋の海
遠く呼んでも 戻りやせぬ
南国薩摩の白餅
潮の息吹がなつかしい

可愛いエクボの 黒眼がち
恋を知るやら 知らぬやら
南国薩摩の白餅
紅いたすきが 眼にまぶし

長い旅だよ ここまでは
風の便りも 届きやせぬ
南国薩摩の白絣
遠いあの日の 夢を見て

一回目の夏の九州旅行で最終日を迎え、ホッとした気持ちがあったのだろうか、私は夜のコンサートが始まる前、海の見える丘の上で沖の夕陽を見ながら、一気にこの歌を書き上げた。
手元にあった楽譜の裏に鉛筆で走り書きしだものだが、帰京してから松井八郎先生のお宅に参上して、二人で創り上げた創作シリーズの第一作になった。


夏の九州-3

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-3

全国労音の例会でポピュラーのソロ歌手として年間最多出演の記録をもったこともある私は、久の九州公演、真冬の北海道の公演では何回もアンコールに応えている。なぜ夏は九州で、冬は北海道なのかよくわからなかったが、マネージャーの話によると、労音はもともとタラシソ/音楽で出発した団体なので、初めて取り上げるポピュラー例会を会場の空いている季節にもっていったらしい。
夏はだれでも涼しいところへ行きたいのが人情である。東京の日本劇場で『夏のおどり』のゲストとして一か月公演を終えて九月に入ったとき、記録的な猛暑が二、三日続いたことがある。日劇の地下の楽屋で冷房づけになり、地上に出ると、炎熱と排気ガスの洪水だった。夏の泉京はいやだ、少しでも涼しいところへ逃げたい、といつも思っていた。
だから翌年、初めて夏の九州一周の仕事を受けるときは、相当の覚悟を決めて出かけた。まず福岡から出発して久留米、熊本、八代と南下して鹿児島まで巡演するわけだが、そのとき夏の九州が快適であることを体験した。意外なことに東京よりずっと過ごしやすいことに気がついた。温度は少々高くても、湿度が低いのである。冷房や車の排気ガスで汚れた東京の空気より、どんなにおいしかったことか。しかし冷房の設備が整っている会場は数えるほどしかなく、冷房機はあっても完全冷房ではないから、むしろ扇風機のほうが活躍していた。
思い出に残る会場は、熊本市のSデパートのホールである。今でこそデパートは完全冷房であるが、そのころのホールは扇風機だけであった。陽が落ちて少し涼しくなったころから開演するのだが、照明のスポットが当たるから舞台の上は三〇度をはるかに超している。ピアノは浜中外代治さん。やせ型でひょろひょろっとした背の高い青年だったから、見た目には涼しげに映った。ベースの稲葉国光さんは体格もよく、太り気味だったから見るからに暑そうであった。
地方公演で予算がない場合はこの二人だけの伴奏で歌ったこともある。宣伝ビラには、「芦野宏来る、伴奏は浜中外代治とオーケストラ」と書かれていたことがあり、稲葉さんがでかい男だったから二人でも伴奏はオーケストラかと大笑いしたことであった。
その稲葉さんが立ってウッドベースを弾くと、床面にその体形そのままに汗の模様ができる。
暑いから水はガブガブ飲む。汗は滝のごとく流れて舞台の床に地図のようなシミができるのである。ネクタイなどはしていられないから半袖の白い開襟シャツ一枚でステージに出る。これ以上ぬぐことはできないが、一回のステージでシャツはずぶ濡れになる。楽屋に戻って扇風機で乾かし、また後半のステージに出るのだ。
私は中央に立って歌っているのだが、あまり大きな口をあけて歌うことはできない。なぜなら窓を開け放っているので、外から虫が飛んでくるのだ。蚊ぐらいなら我慢できるが、私の嫌いな蛾がスポットの当たっている私のまわりに集まってくるからだ。口をあけて大きな声で歌っているとき、蛾が口に飛び込んだ経験があって以来、用心して口は小さめにしてマイクに近づいて歌うことにしていた。
しかし、こちらでの初めてのシャンソン・リサイタルは大好評で、翌年もまた同じ会場で歌うことになった。相変わらず設備関係はまったく前年と同じで、私たちは大汗をかきながらアンコールに応えた。昭和三十四年と三十五年の夏だったと思う。その後、このデパートは火災にあったことが新聞で報じられ、あのホールも焼失したことを知った。


夏の九州-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-2

高知は四国のなかでもいちばん遠くて、今でこそ直行便が何本も飛んでいて不便も感じないが、そのころは東海道本線で岡山まで行き、宇野行きに乗り換えて、そこから高松まで連絡船に乗り、四国に着いてから海岸沿いに徳島まで出て、四国山脈を越えなければならなかった。八月の暑い日だったが、私たち一行は二日がかりで高知にたどり着いたことがある。まだジーゼルも走っていない時代で、トンネルをくぐるたびに煙が窓から流れ込んだが、冷房のきかない車両だったから、目的地に着いたら風呂に入って全身を洗わなければ、鼻の穴まで真っ黒にすすけている有様だった。しかし途中、トンネルを出るとき私たちはいっせいに歓声をあげた。目の前に有名な「大歩危(おおぼけ)」、「小歩危(こぼけ)」の名勝が広がって、清列な谷川が流れていたからである。なかなか見ることのできない絶景を見せてもらったわけである。
夕方になって、私たちは会場に案内されたが、それは体育館であった。ところが、どこを探してもピアノがない。私の伴奏はピアノ、ベース、ギター、アコーディオンの四人だった。仕方がないのでピアノ抜きでやろうと思ったのだが、開演三〇分前になってやっとアップライトのピアノが運ばれてきた。主催者側がピアノのことを忘れていたらしい。
こんなふうだから、体育館に集まった人たちもシャンソンを聴くのは初めての人ばかりであったが、反応と柏手は非常に大きかった。なにより終わってから素朴な旅館で供された新鮮な海の幸と、地元の人たちの温かい歓迎の気持ちが嬉しくて、それまでの苦労はいっペんに消えてしまった。         一
旅といえば、現在のようにスピードだけを追いかけて汽車弁当の楽しみも忘れてしまうのは、ほんとうに残念である。私は四〇年の間に、日本全国、津々浦々ほとんどの場所で歌っている。
~から駅弁の味も今となっては遠い思い出として残っているだけになってしまった。


夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。
名古屋の公演といっても私の場合は一日だけだから、翌日はまた別の会場に移動する。主催者が同じだと、京都、大阪、神戸、姫路と順序よく移動できるのだが、とつぜん北海道や九州に飛んだりすることもある。もちろん、すでに飛行機は利用できたが、あのころはすべてプロペラ機でジェット機の倍以上時間がかかるし、なによりよく揺れるから、体調の悪いときは酔ったりするので困った。若かったし、やる気もあったから乗り越えることができたが、いま思えばよくやってきたものだと、われながら感無
量である。同時に、今では味わうことのできない経験をさせていただいたことに感謝するとともに、なかなか見ることのできない景観や、土地の名物料理、そのほか諸々の懐かしい思い出は宝物だと思い、心からありがたいと思っっている。