第六章、下田港

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1、フビジンなら釣れる黒田主任

                   南伊豆名所、蓑掛の岩、弓ヶ浜

 

「伊豆の最南端にあって航行する船舶の道しるべとなる石廊崎灯台はいかがでしたか。
また、灯台への交通の便として利用したチュチュトレインは、ジャングルパークの入場者のみ利用できますが、ジャングルパークはいかがでしたか?」
「パーラーで食べたパインボードが最高」
「パパイヤバスケットもなかなかでしたわ」
食べものにこだわるのはPTA組のマナーらしい。
「離し飼いのインコがとても可愛かったわ」
ギャル組のジュンが言うとヒロ子が応じた。
「でも、やっぱり新鮮なフルーツが最高よね」
結局、食べ物が一番印象に残るらしい。
「お車は、このまま海岸沿いに進みまして、大瀬、下流から日野へ出て下田までまいります。
右手、海側の丘に、大瀬のキャンプ場があり、その先に鋭く尖ってそそり立つ岩があります。その昔、奈良時代の修験者として名高い役の行者が、空を飛んでいるとき身につける蓑を掛け忘れたという『蓑掛岩』でございます」
「天女の衣の方がよろしいですな」
加藤教頭がいい、佐山会長が頷いた。
大瀬の海もまた、太平洋の荒波の洗礼を受けて侵食された岩が、荒々しく美しい自然の造形美を見せて遅い午後の陽に輝いている。
「左手の山側には、十二月下旬から五月まで、マーガレットやストックなどを含めて二十種以上の草花を栽培し、お客さまに自由にお持ち帰りいただくことの出来る大瀬花狩園がございます。
また、右手には、二百種におよぶアロエの栽培で知られる南伊豆アロエセンタ-がございます。こちらは、健康食品や化粧品の研究をしておりまして、一万株のキダチアロエが茂るアロエ山や温室を見学することができます。そのアロエのエキスを抽出して出来た化粧品は、お肌にやさしく、荒れを防いで肌をひきしめ、潤いを与えるといわれております」
「そう、それじゃ、ぜひ、寄りましょう」
と、出川夫人が提案すると、沢木夫人が応じた。
「私は、以前からアロエを用いてますのよ」
とたんに、沢木夫人の顔をしげしげと出川夫人が眺めた。
「やっぱり寄るのは止めましょう」
周囲の男女がいっせいに頷いた。
「大瀬の漁港が右手に見えますが、この辺りは漁船の他に釣り舟も多く、道路沿いに、ご覧のように遠来の釣り人や観光客相手の民宿が沢山並んでおります」
「なにが釣れるの?」
黒川主任が興味深そうに聞いた。
「この辺りでは、スズキ、イシダイ、カサゴ、イサキ、イナダ、ブダイなどがつれるそうですが、ムツやアジなども釣れると聞いております」
「ビジンは釣れないの?」
「ビジン? それお魚ですか?」
「あれ、ガイドさん。知らないの?」
「ええ、残念ですが存じ上げません。でも、黒川さまでしたら、それにフが付いたお魚でしたら、あちらから沢山集まって来ると思います」
「ビジンにフって、ビジンフが?」
「いえ、フが前に付いてフビジンです」
全員がいっせいに拍手、黒川主任は恥をかき、ガイドをからかうとしっぺ返しが怖いのを知った。
車は下流の港を過ぎ、初代行司の式守伊之助の墓のある小稲で海岸沿いの道と離れることになる。
「こちらの小さな岬の先に、弥陀の岩屋と呼ばれる小さな洞窟があります。洞窟は、潮が引くと小さな船が出入り出来る大きさで、光線の加減によっては、天然に出来た金色の阿弥陀如来のお姿が拝めることで評判です。
なお、心がけのいい人には、観音菩薩とお大師さまの三つの像が見えるのでございます。
これも伊豆七不思議の一つといわれます」
とたんに、車内では、それぞれ自分だけは三体の仏さまが見えるはずだと勝手な自己判定を下してガヤガヤと賑わった。
「お車は、ここで左折し、一時海岸から離れまして青野川沿いに進み、日野のT字路で国道136号線に戻ります。
お車が曲がったところで右側をごらんください。青野川のあちらにきれいなアーチをえがいてひろがる海岸が、今井浜、白浜と並び称される伊豆の三大ビーチの一つ、弓ヶ浜です。
波が穏やかで水がきれいで、遠浅で安全なことから、家族連れにも人気が高く、真夏になりますと、この美しい白い砂浜は、ビーチパラソルの花がいっぱいに咲き並びます。
民宿、ホテルも百軒前後あり、新鮮な魚介類をはじめとして、伊勢エビラーメン、伊勢エビうどん、伊勢エビカレー、アワビラーメン、アワビカレーなどが安く食べられるお店があるのも伊豆ならではといえましょう」
「伊勢エビラーメンっていくらするの?」
食べるものとなると樫山夫人が口を出す。
「半身にした伊勢エビが丼からはみ出していましたが、お値段は千円と八十円ぐらいです」
「えっ、それじゃあ二つ頼めば一匹食べられますの?それで二千百六十円?安い!」
多分、樫山夫人の場合、ラーメン二杯は三時のおやつ程度にしか感じられていないのだ。
「すでに弓ヶ浜の海岸が見えませんが、全長1.2キロの弓なりの浜の東に突き出たタライ岬も、展望台として超一流。雄大で美しい景色は、伊豆七島から爪木崎、石廊崎と北も南も見ることのできる絶好の位置にあることからも想像できると思います」
松の緑、海の青、砂の白さが目にまぶしい弓ヶ浜の海辺には、七軒ある海の家はまだオープンしていないのに水着姿の男女がたわむれていた。さすがに六月、快晴の土曜日である。
「石廊崎の旅も一区切りとなりまして、お車は再び国道136号線に合流いたしました。
あと三十分ほどで今日のお宿となる下田間戸ヶ浜の下田一番館ホテルに到着となります。
本日は、海岸沿いの県道を迂回して、石廊崎めぐりをしたため、下賀茂に寄れませんでしたので簡単にご説明します。
今、走行中の国道の後方、青野川沿い約二キロにまたがって広がる下賀茂温泉は、塩化ナトリウム塩が主成分で、カリウム、カルシウム、マグネシウムなども豊富に含みます。
薬効としては、神経痛、婦人病、不妊症などの他にお肌にもよく、美容効果も抜群です。
源泉の温度は、最高百二十度といわれまして、小高い山に囲まれた田園地帯に吹き上げる源泉は、十メートル以上の白い湯けむりとなって林立し、その数はなんと百ヶ所以上、まさしく伊豆一番の名湯どころです。
十数軒ある旅館のほとんどが露天風呂をもっているのも下賀茂温泉の一つの特長です。
また、源泉の温度が高いことから、温泉熱を利用して、メロンなどの果物、野菜、花などの栽培をはじめ、ウナギの養殖などにも、この温泉熱を利用しているそうでございます。
さらに、広大な敷地と建物をもち、温泉熱を利用して熱帯植物の育成および研究をしている東大樹芸研究所もありますし、民間では、下賀茂熱帯植物園がよく知られております。
園内のドームは、つねに二十五度前後に保たれ、南国情緒に溢れたムードの中に、約二千種といわれる熱帯植物がところ狭しと茂り、原色の黄や赤の花が一年を通じて咲き乱れています。
ポリネシア料理をはじめ豊富なメニューのレストランでは、フルーツの味わいを生かした果物料理をふんだんに用意し、新鮮な果物やジュースと共に観光客を喜ばせています。
さあ、そろそろ下田に近付きました。
ここで、唐人お吉のお話をいたします」

2、かおりの「唐人お吉」独演会

                    夕陽に映える下田の港

 

「人を好きになるということは、苦しいことでございます」と、これには実感がこもる。
「これから向かう下田には、誰もがご存知、唐人お吉の悲劇が語り継がれています。
映画に、お芝居にと、数多くとり上げられてまいりました悲劇の女性、唐人お吉は、名女優太地喜和子の下田公演を目前にしての事故死にも、なにか因縁めいたかげを映し出しているようでございます。
お吉は、その本名を斉藤吉と申しまして、天保十二年十一月の十日、下田坂下町の船大工市兵衛の二女として生まれてまいりました」
ここで、いびきをかいて寝ていた佐山会長までが、かおりの名調子で目を覚ましてb聞き惚れる。
「お吉が七つのとき、遊芸に優れた村山せんという人に、養女として貰い受けられ、それから、読み書き、裁縫、踊り、うたなど一流の芸者になるのに必要な芸事から日常の礼儀作法などをみっちりと仕込まれたのでございます。
美しい顔立ちときれいな声。お吉の名は、養女になってしばらくすると、子供の内から下田中になり響き、誰一人として知らぬ者のいないほど。下田の世間話には必ずといっていいほど話題に上がるのでした。
昔から、芸のある町娘が好んでなったという下田の芸者。お吉も、養母せんのすすめによって、十四の春、この道に入ったのでございます。色白でふっくらとして、愛嬌もあってあでやか、笑顔のやさしいお吉は、誰の目にも、群を抜いて美しく見えたと伝えられています」
ここで、男性達の目がいっせいに、かおりから女優へと向かったが、かおりは素知らぬ振りで続けた。
「お吉は、新内の明けがらすが得意でしたので、新内のお吉、明けがらすのお吉、下田の花ともてはやされ、なに不自由なく暮らしていたのでございます。その頃の日本は、黒船来航によって開港を迫られ、幕府の困惑と混乱は、民にも伝わり、世相は不安と混迷のときを迎えておりました。そんなとき、下田では、黒船騒動をも上まわる事件が起ったのでございます。
安政元年十一月の四日、地震のあとの大津波が下田の町をひと呑みにしたのです」
「津波は恐ろしいですな」
加藤教頭が呟いた。
「誰も彼も着のみ着のまま、大勢の人が亡くなりました。養母のせんも生命を失いました。実の父母は、すでに亡くなっていましたので、お吉は、天涯孤独の身になったのでございます。こうしたとき、ともすれば生きる気力さえ失せかけるお吉の心を慰め、励ましてくれたのは、実家の亡父と同じ船大工の息子で、お吉とは幼なじみだったやはり船大工の鶴松でした」
ここで、かおりはペットボトルのお茶をのみ、思わせぶりにバスの中を見渡してから続けた。
「当然のように二人は結ばれ、いつか夫婦にと、かたい誓いのもとに愛し愛され、手と手をとり合って助け合い、無一文になった二人は一所懸命、新世帯を持つべく働いていたのです。安政元年、提督兼領事として駐在して来たタウンゼント・ハリスは、ふとお座敷で見かけたお吉に一目惚れし、毎日のようにお吉を招いては宴をはり、それはそれは大変な打ちこみようでございました。
当時の幕府の状況は、きわめて弱体化していたこともあって、外交の交渉は一向に進展せず、ハリスたち領事一行の神経は一触即発、極端に尖っていたようです。幕府の役人も日夜密議をこらし、何とか苦境を脱する手だては無いか、と模索をしているところに、この情報、これを逃す手はありません。相談はたちまち一決。お吉はただちに奉行所に呼び出されたのでございます。
名主が付き添い出頭したところ、頭ごなしの申し付け。仕度金二十五両、手当百二十両。これほどの名誉はあるまい、とのご沙汰。お吉は、頭を上げ、きっぱりとひとこと、『いやでございます』、これが、お吉の精一杯の意地でした」
「一両十万円として、お手当だけでも千二百万!」
興奮したように長谷部夫人、夫の作曲家が目立たないように睨んでいる。
「たかが、町芸者とたかをくくって高飛車に出た役人も、ひっこみがつかず、あの手、この手でおどかしすかしてお吉の翻意をうながします。しかし、お吉は屈しません。しからばと、役人はひきょうにも、恋人への心立てならば、そこから切り崩せとばかり、鶴松に迫り、武士への取り立てを条件に、無理に言わせたお吉への離別の言葉。所詮は出世の欲とお上のご威光には敵わなかったのです」
「長いものには巻かれろ、です」
黒川主任が思わず納得している、
「お吉は、泣いて泣いて涙も涸れました。それでもお吉は、決心をくつがえしません。万策つきた奉行所では、日頃は目立たぬが部下の信望のもっとも厚い御支配頭、三田真二郎に最後の頼みの綱として白羽の矢を立てたのでした。実直な三田真二郎は、ひたすら白髪頭を畳にこすりつけ、国を救うと思って助けてくれ、このままでは、やがて戦さになり、日本が滅びる。お吉、お前の心は痛いほど分かる。鶴松はお前を捨てた。たとえ、それが偽りの愛想づかしの言葉だったとしても、もはや帰る手段はないのだ。わしも身を捨てる覚悟だ。お吉よ、国を救ってくれ』
身勝手な言いようとは知りつつも、恋人に捨てられた十七歳の娘にとって、とるべき道はただ一つ、追いつめられて、うなずくだけでした」
「可哀そう」
意外にもギャル娘の一人が涙をぬぐい、かおりが図に乗って抑揚をつけて語る。
「お吉こそ開国の裏に咲いた、悲しくも美しい花。 こうして、唐人お吉の名が生まれたのでございます。道ですれ違う人々は、唐人の女、異人の妾、と、お吉に罵声を浴びせ、あざけり、石を投げるのでした。お吉は、泣きながらも、お国のためにと耐えしのび、ハリスの許に通う日々でした。しかし、鬼とも思ったハリス領事は、心やさしい一人の外国紳士でした。思いやりのあるやさしいハリスの心にほだされて、お吉の心もほぐれましたが、それよりも何よりも、お吉が通うようになってから、ハリスのイラダチも消え、日米間の交渉もスムーズになり、無事に調印も済みました」
「そうか。調印は安部や井伊よりお吉の手柄だったのか?」
ここで、ノラ黒川の認識がこの程度だったことが明らかになった。
「お吉が仕えること一年にして、ハリスは帰国しました。残されたお吉に、世間の風は冷ややかでした。まるで、汚いものでも見るような目でお吉を見ます。やけ酒をあおっては、砂浜に酔いしれました。下田にいたたまれず、あちこちと移り住み、料亭に女中として働き、三島で芸者をし、新内流しなどもしましたが、性来の気の強さと酒ぐせの悪さが災いして、落ちぶれるばかりです。
さらに、病にも冒され、ついには、蓮台寺温泉近くの稲生沢川のほとりから身を投げて、四十九歳の波乱に富んだ生涯を終えたのでございます。
明治二十三年三月の二十七日、すでに百年以上も過ぎた昔のことです。
お吉の亡きがらは引きとる人もなく、二日もの間、放置されていたそうでございます。見かねた宝福寺の和尚が、遺体を引きとり、お寺の墓に葬ったのです。
お吉の名は、大正年間までは、誰にも知られず宝福寺の無縁仏として埋もれておりましたが、黒船時代の研究家、下田の村松翁らによって調べられ、昭和三年に発表された作家十一谷義三郎の『時の敗者』という小説、さらには、西条八十作詩による『唐人お吉の歌』によって知られるようになったのでございます。
お車は、すでに鮎名川沿いを離れ、吉佐美の東海バマセンターを通過し、まもなく本日の宿泊地、下田にと向かってまいります。
正面左上部に寝姿山が見えてまいりました」
下田の街は土曜の夕方でもあり、自家用車、観光バスが入り混じり、やや渋滞気味だった。
「お車は、予定より十分ほど遅れまして、下田の街に無事、到着いたしました。
朝から、楽しい出来事が沢山ございまして、みなさま、さぞかしお疲れのことと思います。
ホテル到着は、午後六時十分頃になります。が、ご夕食は小宴会場を予約してありまして、七時から二時間、ご一行さまだけの演芸、カラオケ大会を予定しております。
全日観光ツアー協賛スポンサーのご協力により、景品も用意してございます。
ホテルに着きましたら、部屋割りなどはすべて打ち合せ済みですので、係員の指示に従ってください。宴会には私も参加させていただきます。
朝食は、六時半から二階の大食堂で、バイキングとなっておりまして、和食、洋食、どちらでもお好みで選ぶことができます。
出発は、午前八時。少々早いかも知れませんが、日曜日の朝ということで道路の混雑を予測しますと、この時間が安全となります。
集合は、玄関横にバスが待機しますので、みなさま全員がお乗りになりましたら、直ちに出発させていただきます。
明日の予定は、パンフレットでご案内のごとく、下田市内見物、唐人お吉ゆかりの了仙寺、下田海中水族館などを見て、下田街道を天城越え、中伊豆を帰路のコースと致します。
途中、浄蓮の滝で昼食の予定となっております。
さあ、下田港に夕陽が美しく映えているのを眺めながらのホテル到着となりました。
今宵から明日へかけての、みなさまのハッピーな一日をお祈りします。
お疲れさまでございました」
盛大な拍手の中、車はゆっくりと、下田一番館ホテルの玄関で停止した。
目の前の下田の港は、夕映えの中に船舶が重なるように黒い影を浮かべていた。

 

3、ホテル到着 陽子に出演依頼あり

                    土曜の夜はホテルも満室

いらっしゃいませ」
「お疲れさまでした」
「ごゆるりとおくつろぎください」
「お荷物、お持ちします」
「お待ち申し上げておりました」
「ようこそ、当一番館ホテルに・・・」
あらゆる歓迎のコトバに迎えられ、一行は、玄関口に着けたバスのステップで一人一人に頭を下げて見送るガイドのかおりを背に、ホテル内に消えて行く。
ホテルの番頭、正式には松村次長と呼ばれている三十代の男に、人数、部屋、今日明日のスケジュールを再確認しバトンタッチをすると、とりあえず、かおりは自由の身になる。と、いっても車内の掃除が残っていた。
ホテルの従業員と運転手の浜田が、車のボディの格納ルームから荷物を台車に積み換え終えて、駐車場に移動すべく車内に戻った。
「かおり、じゃあ、宴会場で、会おうね」
「食事は、あの人とするの?」
陽子の何気ない一言に、かおりは敏感に反応した。明らかに浜田を気にしている。
「どうでもいいじゃない。そんなこと」
「変だよ。かおり、どうしたの?」
「いつものかおりらしくないわよ」
浜田がエンジンのキーを回したのを潮時に、
「じゃあ、あとでね」
かおりは明るく手を振り車内に入った。
一行に遅れてホテルの玄関に足を踏み入れながら、陽子が感心したように、
「そうか、かおりのヤツ、あの人好きなんだ」
「妻子持ちだわね。きっと」と、敦子。
「苦労するわよ」と、痛い過去をもつミカ。
「いらっしゃいませ。お荷物をどうぞ」
「荷物は、自分たちで運びますから結構です」
三人は一部屋。敦子がキーを受け取った。
「お世話になりますよ」
佐山会長と加藤教頭は、着物姿の若い女性従業員の出迎えを受けた瞬間からご機嫌になっている。この二人はまず問題はない。
当然ながら堅焼せんべい組も、ウキウキニコニコ笑ってイイトモ状態である。
「麻雀二組、予約してあるよね」と、渋沢。
「ハイ、ご用意してございます」
これで、一応、幹事の第一ラウンドは終了。
「温水プールは何時までですか?」
ギャル組のジュンが聞いている。
それを耳にした渋沢、麻雀幹事を忘却して、
「あっ、ボクも海パン持って来てるんだ」
内藤主任の拳が渋沢青年の頭にとんだ。
「カラオケルームはあるのね?」
樫山夫人が念を押した。
「ダンスホールは?」
上田夫人が言い、黒川ノラ主任の方をチラと見た。
「食事は、二階の宴会場だったわね」
「やっぱり、最初は食欲を満たさなきゃ」
「じゃあ、その後は?」
「モチ、男よ」
PTA組は姦しい。
樫山夫人と出川夫人を中心にした女性群と、運悪く同じエレベーターに乗り合せた若い川辺さんカップル、オバさんパワーにボックスの隅に追いやられていたが、六階で降りると、さっさと自分達の部屋に急いだ。
「がんばってらっしゃーい」
「すぐ食事ですからねー」
二人の背を、ひがみ声が追ったが「よけいなお世話」とばかり、当然ながら振り向きもしない。
それに、まだヨシエさんも機嫌が悪い。小山夫人にフロント係からメモが渡された。
“本日夜九時ホテル前駐車場へ 取引先より”
夫婦で文面を見て蒼い顔を見合わせた。
「ゲームコーナーでも行ってらっしゃい」
子供たちを追いやって、小山夫婦は力なくロビーのソファーに腰を埋め、頬を寄せ、ひそひそ話をしている。
「債権者がもう追ってきたのかな」
それでも、部屋割が決まってルームキーを渡されると、子供達を呼び戻してエレベータホールに向かった。
佐山会長は、部屋割りに不服を唱えてフロントで粘る。
「そういわれましてもお客さま、この土曜日の夜に、大部屋など空いていませんですよ」
「そうか、残念だな。PTA役員会の会合をしたかったんだが」
急に仕事熱心な振りをする。
「それではこうしましょう。ちょっと大きな部屋ですが、長机とスチールの折り畳み椅子、それにホワイトボードと音響装置も完備していますので、これを格安料金でご提供しましょう。百人は入れる部屋ですが」
「いや、もう結構、急に会議を開催したくなくなったので」
会議などありはしない。遊びに来ただけだから麻雀大会を開く部屋が欲しいだけだ。
佐山会長もエレベータホールに姿を消した。
佐々木夫妻では、ニセ夫人がからんでいる。
「一緒の部屋なんて嫌ですからね」
ホテルが満室ということで、別室がとれなかったのが口惜しいのか、くどくどネチネチ、無言無表情の佐々木氏を責めている。
そのくせ、まだ、バスも電車もある時間だし、タクシーならいつでもホテルにお客を運んで来ているのに、一向に帰る気配はない。フロントの係員が、陽子の記帳を見て、
「ファックスが届いております」
一枚の紙片を渡した。
陽子がそれを見て、驚いた表情をした。
「今、新宿KMでやっている芝居に、代役で出番ですって」
伝言のファックス用紙を、ミカと敦子に渡した。あまり嬉しそうではない。

下田一番館ホテル内
全日観光西伊豆めぐりツアーご一行
森川陽子(谷内ゆう子)さま
ごゆるりのご滞在中恐縮至極ですが、新宿KM公演中の「四谷怪談」の主役、松井敬子が貧血で倒れたのでPH依頼あり。月曜日から五日間、楽日までの出演受諾しました。台本はバイク便で本日午後八時着予定です。
衣装合せヅラ合せおよび打合せは、明後日午後一時、KM楽屋にて。
今夜は充分にお楽しみ下さい。
優秀なマネージャー 小池より

「なによ、これ? あなたのマネージャーって自分で優秀だと思ってるわけ?」
「そうみたいね」
「あきれた。人が遊びに来ているのにお邪魔虫したりして、ヨーコ、もしかしてお岩さんやるの?」
「どうかしらね」
「おう怖い。急に今、ヨーコの髪の毛、逆立ったみたいよ」
そこに、バスの掃除を終えてかおりが入って来た。
経緯を聞いたかおり、面白がって、
「あとで、みんなで練習しようか。食事の時間だけは遅れないでね、七時集合、時間厳守ですよ」
「なによ、あと四十分しかないじゃない」
「仕方ないわよ。到着が遅れたんだから」
「あら、私は今朝、十分しか遅れてませんよ」
「十分遅れれば沢山よ。その分響いたのよ」
「仕事では遅れたことないんだけどな」
「当り前でしょ。プロなんだから」
ワイワイガヤガヤ、エレベーターホールに入る三人を見送ったところへ、フロントから声がかかった。
「ガイドさん。もう一通、ファックスです」
見ると、佐々木氏あてになっている。
かおりはチラと文面に目を通して、四つ折りにして手のうちに隠した。
「佐々木さん、ルームキーはお持ちですね?」
かおりが佐々木氏にさり気なく近付くと、ニセ佐々木夫人が激しく口論している。
「満室で空き質がないんだから、一つ部屋でも仕方ないだろ!」
「イヤです。そんな気分になれません」
ニセ佐々木夫人が、かおりに噛みついた。
「ガイドさん。別の部屋を用意してください!」
「ご免なさい。今日は満室で予備の部屋がないそうです」
かおりが歩き始めると、佐々木氏が救われたように歩き始めた。
ニセ夫人が、あわてて前をふさごうとして二人を追い抜き、二人に背を向けた。
その瞬間、かおりが佐々木氏に目くばせして、す早く、メモを手渡した。
ところが、佐々木氏はかおりの心遣いを理解していなかったらしい。
口数も少なく重厚、らんの里でのハプニングでの落ちついた対応、それらを考えると、多分、さり気なくメモをポケットに入れてポーだーフェイスを決める、と、かおりは考えたのだが、それが違った。
なんと、佐々木氏はその場でのんびりとメモを広げたのだ。
かおりが慌てて、佐々木氏に隠すように目と手で知らせたが、それが悪かった。
ニセ佐々木夫人が素早く佐々木氏からメモを奪って、凄い目で二人を睨んだ。
「ガイドさんまで、隠しごとをするの!」
その文面に目を通すやいなや、鬼の形相もかくありなんというすさまじい顔をしたニセ佐々木夫人、発狂したように喚きながら無抵抗無防備の佐々木氏に殴りかかった。ファックスの文面は次のとおりである。

下田一番館ホテルに本日ご宿泊のバスツアーご一行さま。
西伊豆堂ヶ島らんの里にお立ち寄りのの佐々木さま(男性)に。
らんの里では大変失礼しました。
突然のことで驚かれたことと思います。
夜十時頃、ホテルのロビーに 父と一緒にお伺いして事情をご説明申し上げます。
らんの里でお世話になりました望月順子より。

 

4、ユッコのタロットカードは語る

                       潮の香りとさわやかな夕風

 

六階から眺めた夕焼けの海は、黄金色に輝いている。
「わあ、きれい!見て見て!」
ギャル組は四人、和室の障子の外のガラス一面の大きな引き戸を開くと、六階のテラスから下田港が一望に見える。
アルミフェンスにもたれて、小岩井エミが感激の歓声をあげ、仲間を呼んだ。
潮風に長い髪がゆれ、衿のある黄色い黒いくねくね横じまの長袖シャツの裾がひるがえり、形のいいおへそが丸見え。当然、ショートスカートもひるがえっている。四人揃って、スリッパのままテラスに出た。
潮の香り、海のオゾン、さわやかな夕風が頬に心地よい。
裕子は、大きく両手を広げて深呼吸をした。
眼下に、夕焼けに染まった毘沙子島の島影、下田公園から海中水族館、そして赤根島に続く下田の半島が右側からの夕陽に映し出されて黒く浮かび、はるか水平線の彼方には昼間にはなかった夏の雲が湧き出て、それも夕陽に赤く染まっている。
「あの鳥居は?」
川口ヒロ子が左端いっぱいを指さす、
「あれ、あれは弁天島。あのまま、ずーっと行くと爪木崎、冬の水仙で有名なのよ、半島の向う側だけどネ」
「ユッコ、あたしたち、あの船にも乗る?」
「うん、あのサスケハナって遊覧船、黒船を縮小して再現したんだって。乗ろうか?」
「あれで、港内一周かあ。ワルくないな」
「あの小さな島のすぐ脇に黒船が錨を降ろしてサ、大砲の筒先をこっちに向けて、開国しろ貿易をさせろと迫ったんでしょ?」
「その上、いい女を差し出せ!なんて」
「よかった」
「ヒロ子、なにがよかったのよ」
「あたしなんか、その時代に生きてたら一番先に目をつけられたでしょうね」
「なんで?」
「美しいから」
「いい加減にしてよ。外人大好きなくせに」
「キライよ、キライ。今の彼でたくさんよ」
「ケッ、片思いのくせに」
「さあ、一風呂浴びて食事に行こう」
「下手な歌が出なきゃいいけど」
「下手な踊りも出るわよ」
「ああ、ヤダヤダ。すぐ引き上げて来ようね」
「とにかく、おとなしくしてよう」
「あと三十分しかない」
「じゃあ、お風呂は食事のあとか」
「と、すると、ユッコ、ちょっと、これからどんなこと起こるか占ってみてくれる?」
「なにを占うの?」
「さっきのカッコイイおじさん、どうなるか、とか、あたしにロマンス生まれるか、とか」
「エミ、まだ、佐々木さんが気になるの?」
「だって、タイプなんだもん」
裕子がタロットカードをとり出すと、あとの三人、テーブルの周りに座り、お茶を入れたり、器の中のお菓子を頬ばったり、鏡をのぞきこんで髪の乱れを直したりと、それぞれが気合いを入れている。
「今日は遊びだから二十二枚の大アルカナ。それにタイトルカードを一枚の二十三枚。あとの五十五枚は使わないから」
裕子は、少し改まって、目をとじ、カードをシャッフルし、一部をテーブルにおき、ゆっくりとホロスコープ・スプレッド法特有の方法で、はじめ上、中、下と縦位置にカードをおき、つぎに左、右と十文字にし、あとは左回りに外側が十二枚になるようにカードを表にしながら円型に配置し、軽いトランス状態に入った。
ギャル三人、けっこう緊張して呼吸をつめて、裕子の口許を見つめていたが、裕子が口を開くと、安心したように息を吐き、卓上のカードに視線を落した。
「キーカードは、節制、テンペランスです。このカードが出たときは、チーム全体が健全な精神状態を保ち、友情を大切にし、力を合せてことにあたることになります。
このカードのピクチャーをごらんください。ネフティスともいいますが、両手の器の水をこぼさないように交互に入れ替えています。一滴の水もこぼさずに、元に戻すために、真剣になっている乙女の表情は、偽りのない真情にあふれています」
「と、いうことは?」
思わず三人が身をのり出して裕子を見つめた。
「あの人、両手に花っていうわけ?」
「あの男、ケチっていうことでしょ?」
「人の力をあてにしてるってこと」
それに応えず、裕子が口を開こうとしたとき、ドアを開けて、ヨシエが入って来た。
「みなさん、空腹を満たしに参りましょ・・・」
「あら、川辺さん、お一人ですか」
「いいんです。別々に温泉に入るんです」
「部屋にもお風呂があるんでしょ」
「会長さんたちと展望風呂とかへ行ったわ。滝湯、打たせ湯など、いろいろあるんですって」
「そのまま、二階の宴会場へ行くから、お湯に入らないんなら、先に行ってて、だって」
川辺ヨシエもその場に割りこんで座り、じっとカードを見る。
「つぎに、第三ハウスの近距離の旅について触れますと、ウィールオブフォーチュン、運命の輪がここに出ています。大きな変化、すぐ帰る出来ごと、人間関係の変化、方向転換、ハプニングなどこれらの内容が、何らかのかたちで現われます」
「それはいいことなの?」
「隣りのカードが、ザ・ハングマン、吊るし人の正位置ですので、自分を犠牲にして得るものは何もない。試練に直面する、自分を捨てて人を救う、などとありますので、献身的な出来事ともとれますが、入院、それと・・・」
「それと、なによ?」
「幽界から手がさしのべられて」
「キャ、いやよ、そんなの」
「でも、第七ハウスのパートナーのハウスにはプラスのカード、ジャスティス、正義があって、正しいことには公正でバランスのとれた結果となりますのでご心配は無用です」
「正しくないことには?」
「当然の報いがおとずれます」
裕子が細めていた目を開いた。
「ほら、ワルイことしてる娘は、今のうちにここでザンゲしちゃいなさい。ヒロコ、こら!」
「なによ、急にイバっちゃって」
「あんた、ブルセラショップへ行ったでしょ」
「なんで、あたしがそんなとこへ行くのよ。もう高校生じゃないのよ。さ、食事へ行こ」
「だから、高校生のふりしたりして」
「もうっ、ユッコの占いなんか口から出まかせなんだから。みんな、信じちゃダメよ」
「ぜったい。信じちゃう」と、異口同音。
連れ立って部屋を出ながらヨシエが小声で「ユッコさん。あとで私たちのこと占って」

 

5、親しい仲になりたい、なれない

                         乗務員の二人、食事は差し向かい

 

ガイドの食事は、まず余程のことがない限り、運転手の部屋に一緒に用意され、二人差し向かいで食べることになる。
六時半には食事の用意が整った。
食事は、お客と同じだから、いいツアーであればあるほど美味しい食事となる。
配車係に無理をいい、浜田とのコンビを強引に組んで貰って約一年、二人での食事時間だけがかおりにとっての貴重な一時だった。
浜田は、言葉は少ないが、特にかおりを嫌っている風でも避けている様子でもない。
その証拠に、ビールを注いでくれて、グラスを合せたことからも察せられる。
ただ、今宵は一緒にいる時間が少なすぎた。
宴会は七時からスタートする。かおりだけは、食事を先に済ませておかなければならない。宴席にはかおりの膳はないのだ。
クーラーより自然の風を好むため、浜田がベランダに続くアルミサッシ枠の全面ガラスの引き戸を思いっきり開けているから、虫除け網戸を通じて潮風が快い。一人部屋にしては贅沢な和室の中央にデンと控えた座卓。その上にこれ以上は無理というほどのご馳走が所狭しと並べられている。
浜田は浴衣、かおりも軽装に着替えている。
日頃は饒舌なはずのかおりが、何故か、浜田に近付きすぎると、借りて来た猫のように温和しくなる。自分でも不思議だが仕方ない。だからといって無理している訳でもない。運転手とガイドのコンビネーションには微妙な呼吸がある。
最良のベストコンビは、阿吽の呼吸が通じ合う間柄で、適度の緊張感が保たれる信頼関係と好意。これに尊敬できる相手となれば最高となる。浜田はそれに該当する男だった。
かおりは、料理に箸を付けながら、時折、浜田のグラスにビールを注ぎ足した。
昔。交際中だった男にビールを注ぎ足すと、
「グラスが空になってから注いでくれよ」
そう文句を言われたことを想い出しながら、浜田もいつか、同じ言葉を口にするのか、と思った。しかし、浜田にはそんな素振りもない。美味しそうに喉越しの味を楽しんでいる。
全日観光のガイド仲間の間では、浜田は必ずしも評判はよくない。仕事は抜群なのにだ。理由は単純。ガイドに冷たいといわれている点が評判を悪くしていたのだ。
それでも、かおりは、他の評判のよい運転手との旅よりは、浜田がいい。一緒にいて安心できるからだ。酒癖の悪い客からも、トラブルからもさり気なく守ってくれる。
かおりは、浜田の私生活を詳しくは知らない。男の子が一人いて、小学生らしいという噂もある。妻はいないと聞くが、真相は人事の責任者と役員以外は知る者もない。乗務員間の噂では、全日観光入社前の職業は、土砂の運搬の仕事をしていたらしい。その前は、公務員と聞いた。どのような仕事だったのか? そこまでは誰も知らない。ましてや、退職の原因など藪の中の話だ。
かおりは、惚れっぽく飽きやすい。浜田を好きなのは認めるが、浜田に惚れたとは認めたくない。ましてや、自分を女性として認めているかどうかさえ分からない男に一方的に逆上るなどもっての他、プライドが許さない。しかし、口惜しいが好きなのは事実だった。
伊豆名産の伊勢エビを口にしながら、
「浜田さん。今晩はお出かけになりますか?」
「いや」と、否定の口調が戻っただけだった。
かおりは、食事をしながら、まだビールを飲んでいる浜田に、らんの里で起った佐々木事件と、ホテルに届いた二通のファックスの内容について話したが、浜田は、黙って聞きながら頷いている。
かおりは時計を見た。
「宴会が始まりますので、行って来ます」
浜田の眼を見つめて、立ち上がりながら微笑んだ。
「おやすみなさい」
思い切ったように入口に向かい、スリッパを履いて、振り返らずに外に出て、閉めたドアに背をつけて立ち止まり、一度、大きく息を吐いてから、足早に去って行った。
一人になった浜田は、グラスのビールを一気に飲み干しグラスを伏せ、料理に箸を付けようとした手を休め、箸を置き、身体を動かして電話器に手を伸ばし、プッシュする。
「おう、カギっ子。元気か?でっかい伊勢エビ食うか?なに、飽きたからいい?今なに作ってるんだ?エッ、カレー?そいつは美味そうだな。少し残しといてくれよ。なんだと、よしっ。帰ったら鍛えてやるから、オヤジの竹刀も磨いとけ。じゃあな」
一人息子、敬太の声は元気だった。
浜田は、安心したように大きく息を吐いて受話器を置き、それから箸に手を伸ばした。