第十三章 旅の終わりに

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46  なぞ解き

 

「先日、三重県の津市に行ったのよ。病床にある沢井和歌子さんの実のお母さんにお会いしたの。和歌子さんの生家は、藤井さんのご実家の数軒おいたご近所でした。沢井さんの二人目の女の子が和歌子さんで、その子は歌が大好き、将来の夢は歌手……自衛隊勤務の藤井はその少女を可愛がって、よく遊んでたみたいわ。
でも、幼いときに松本市在住で子供のいない親戚に養女に出されて、それからは藤井さんとも縁がなかったのでしょうね。
養女になってからも和歌子さんは、音楽一筋に一所懸命レッスンしたそうですけど、数千人に一人の歌手の壁は厚く、神経疲労から病気になり駒ヶ根病院に入院し不治の病いに伏す身になった。
これで一度は、歌の世界をあきらめた……でも、同じ年齢の中条留美さんが入院してきて環境が一変したのね。
留美さんの哀れで悲惨な過去も、塩尻署の刑事さんに聞いたわ。
高校卒業寸前の春、妹さんが四人の男達に犯された末に殺され、娘を助けようとしたお母さんまでもが撲殺され、彼らはその証拠を消すために家を焼いた。絶対に忘れられないはずよ。留美さんに訴えられて塩尻警察署に出頭した酒上、古川、高岩、赤垣の四人は、ア
リバイを主張し、それを認める村人の偽証で放免されてしまったのね。
憎んでもあまりあるオニちくしょうの行為です。悔しい思いで彼女の心は無残に傷つき……復讐を誓った、当然ですよね?」
若葉が返事をせずに首を振って肩で大きく息を吐いた。
「彼らとのことは、想像がついたわ。留美は、四人それぞれに接近していたのね。安本に守られてクラブ王城で歌っていて、お客として来ていた彼等に近づいたんでしょ? 酒上も昔の留美を忘れていて、得意になって接近した。彼らケモノたちにとっていい獲物に思えたでしょうね。でも、留美にとっても彼らは獲物だった。留美の復讐の青写真の設計図は着々と出来上がっていたんです」
子供達が声高に笑いざわめきながら森の中を走っている。
碑文読みが終ったようだ。
「わたしだったらどうするかを考えたわ。でも、ことごとに安本が表面に出たため、曇りガラスで外を眺めるように真実が見えなかったの。今回の北海道訪問で、すべてを諦めるつもりだったのよ。
実行はすべて一人で安本がやったものと思ってたのね。
でも、矛盾だらけだった。あなたも参加してるのね? そう思ったのは、さきほど聞いた。時刻表、あの時刻表がヒントになってナゾが氷解したのよ。その時刻は生田原じゃないのね?」
「時刻表……なんのことですか?」
若葉は、倒れてからうわごとで「五時四十五分……」と言ったのを憶えていない。キョトンとして友美を見つめた。
友美は、それを研修会館の管理人から聞き、分厚い時刻表を調べたり、あちこち電話してから若葉を見舞ったのだ。
「神経に異常を来たした留美さんの入院、留美さんの話を真剣に聞いてくれた駒ヶ根の堀井院長が、復讐へのさり気ないアドバイスをした。多分、離婚歴のある院長は身勝手な男達に、深い恨みをもっていた。でも、院長の離婚歴以外は、あくまでも私の想像よ。
和歌子さんと留美さんは、歌手になることを誓い、体調が回復すると二人して歌いはじめる。留美さんも和歌子さんが歌好きなのを知って意気投合、リハビリを兼ねて二人で歌いまくった。その声には患者も看護婦さんも、みなさん聞きほれたでしょうね……。
二人の夢を叶えたい堀井院長が諏訪のクラブの安本に依頼して、和歌子さんと留美さんをショ-タイムに歌わせてもらう。でも、院長の狙いには、留美さんを酒上らに接触させ、復讐の機会を与えることだったんでしょう? 案の定、クラブで歌う留美さんに、常連の酒上や赤垣達は急接近してきた。留美さんが、四人を相手に、どこまで親密になったかは知りませんが、母と妹の復讐のためには、自分を捨てて、チャンスを狙ったでしょうね?
でも二人の歌手としての才能を高く評価した堀井院長ですが、和歌子さんは重病で死の寸前、その娘の分までもと留美に希望を託して、歌手売り出しを安本に相談し、苦しい病院経営の中で借金しても資金を作るという。その院長を押し止めた安本が、中央高原村の裏金に狙いをつけた。その集めた金額は推定ですけでど約二億円。
これで、堀井院長は安本を利用して、留美さんの歌手の夢と復讐の計画を実行に移したんですね?」
当初は安本と組んでいた酒上が、その大金の上前を跳ねようと安本を脅し、赤垣を談合に向かわせました。すでに、酒上達と仲間割れしていた古川と高岩は、留美さんからの情報で、その裏切り行為を知って怒り、自分たちも安本のアパ-トに向かったんです。
古川と高岩はアパ-ト下の駐車場で、部屋から叩き出されて降りて来た赤垣とバッタリ遭遇、争いになって殴り合い、二人で赤垣を殺す。古川と高岩はあわてて安本の部屋に行き、安本に殴られた赤垣が下で死んだ、と脅し、自分たちの分の返還以上の金の支払いを求めた。死体の始末をすれば払う、という約束で、安本のネ-ム入りの上着と時計を借りて死体を安本に偽装、山に埋めるが、死体を運んだ赤い車を何人かに目撃されたのと、片方の靴を死体を埋めた現場に落としたのが誤算でした。
古川と高岩は死体を埋めた後、清里高原に直行し、留美さんは、どこから運転をしたのか青い車で古川・高岩と合流します。
三人は、二台の車で大門沢に向かった。古川と高岩はきっと、なにかを期待したんでしょう。ところが、留美さんが、高岩と古川を争わせるように仕組んだのか、あるいは欲の突っ張りあいでか高岩が古川を絞殺してしまいます。殺人が二件も続いた恐怖で極度のパニック状態に襲われて動転した高岩は、自分からアクセルを踏み込んで転落死したのでしょう。困った留美さんは、古川の死体を松原湖に運んで取水口の横に引きずって落とします。男なら取水口の真上に担ぎ落として地下トンネルに流し込んでたはずです。殺人幇助も死体遺棄も立派な犯罪です。もっとも、これは推測です。
まさか、ここまで留美さんが介入するとは思いもよりませんが、清里の深夜レストランに青い車で乗り着け、古川・高岩と一緒に立ち去った人がいた事実から、第三者の存在が気になって仕方がなかったのです。でも、留美さんのアリバイを調べると、病院の記録にも婦長の記憶ででも、留美さんはこの日もきちんと駒ヶ根の病院で朝食をとっていることが判明していますから、アリバイは立派に成
立しているのです」
若葉が唇を噛みしめて友美を見据えた。

 

47  生きるか死ぬか

 

「わたしが、疑問を抱いたきっかけは、カメラ誌に載った写真からですが、これと時刻表の『五時四十五分』、この二つがなければ永遠にナゾは解けなかったでしょう。
小山由紀夫さんという写真家が、夜明けの野辺山高原の旧道で昨年の八月二十日に撮った中条留美のポ-トレ-トの組写真が、わたしが仕事をしている会社のカメラ誌に載りました。じつは、この被写体と撮影の時期が警察でも問題になったのです。
きっかけは、塩尻警察署に、地元の留美ファンの人からこの写真の中条留美さんは入院中のはず、という情報が入ったんですね。それで、警察でも動いたんです。
警察で調べたところ、その写真を撮影した八月二十日の朝は確かに留美さんは病院にいたのが看護日誌にあり、その一週間後の大門沢・松原湖事件の日も病院にいて、軽い朝食をとっています。これは、わたしも病院の記録を説明していただいて納得しました。
ですから、日付の件は撮影した小山さんの記憶違いだったことになりますし、あの八月二十七日の転落事件にも留美さんは現場にいるはずがなく、事件となんの関係もないことになるわけです」
「知りません……」
「塩尻署では、写真家の撮影期日に誤りがあった、としましたが、県警本部の刑事はその写真家をマ-クしました。
その理由を聞くと、先日発見された北八ヶ岳山麓白骨死体の第一発見者だったからです。私も一緒でしたが……たしかに、その死体を埋めたと思われる一人の高岩が、この写真を撮った旧道からほど近い場所で転落死しているんです。
それに、この写真家の定宿にしている山荘の上の山林から、高岩と古川が埋めたと思われる赤垣の白骨死体が発見されてますから、この人が、事件と関係あると思っても不思議はないでしょう?
でも、これはまったくの偶然でした。警察はこの小山さんを疑ったけれど、わたしは小山さんより、写真のこの女性があやしいと睨んだのです」
「……」
「そのなぞを解くカギが『五時四十五分』でした。
あなたが貧血で倒れたとき無意識で口にしたこの時刻は、あなたが記憶した時間のはずです。わたしはさっき生田原駅の図書館で時刻表を借りてこの数字を探しました。
じつは、駒ヶ根の病院からの行動半径で、朝食の九時までに、どこまで往復できるかというのを以前に調べたことがあります。和歌子さんと留美は二人部屋で、自由に外出もできますし、夜食については面会の家族と外食することもありますので記録はかなりル-ズのようでした。でも、朝食だけは病状とも関係しますので、きちんと記録されています。したがって、朝の食事の時間までに帰れる距離となるとかなり制限されます。
食事時間までに帰れる場所から考えて、すぐ撮影現場に一番近い野辺山駅の時刻表で小淵沢行きの電車を調べました。しかし、五時四十五分には残念ながら野辺山駅には電車が来ていません。
そこであきらめずに、時刻表で心当たりを調べていて、ふと目を疑いました、『五時四十五分』があったのです。
なんと野辺山より五駅北寄りの松原湖駅の上り一番電車、これが五時四十五分です。あの写真とは何の関係もない時刻でした。留美さんは、この時間に松原湖駅で乗れば、小渕沢から乗り継いで病室に八時四十五分には戻れますから、夜に出かけて朝一番の電車で帰れば九時の朝食には充分に間にあいます。と、すれば留美さんは、同室の沢井さんとグルになれば、早朝に松原湖の死体遺棄現場にいても、写真の撮られた日に旧道の大門沢での下調べにいても、誰にも咎められないわけです」
「まさか……」
「事件は、この写真を撮ったその日から一週間後に起き、その翌二十八日に和歌子さんは、留美さんの名で東京の病院に入院しています。カルテは院長が書き換えたはずですが、違いますか?」
「……」
「可哀相に、まもなく、東京の病院に移った和歌子さんは志し半ばに病いに倒れ、留美さんとなってこの世を去った……死んだ母親がわりで面倒をみていた駒ヶ根の堀井院長が臨終にようやく間に合っただけのさびしい最期だそうです。留美さんのお父さんは、アル中で辰野の遠い親類にあずけられていて出歩ける状態ではなかったそうです。堀井院長が、荼毘(だび)に付した留美さんのお骨の入った壺をもち帰って、わずかな親類を集めて広岡の共同墓地に埋めて密葬したけど哀れな人生でした。わたしたちも、和歌子さんの眠っている留美さんのお墓に花を手むけてきました……」
若葉が、感謝するかのように目を閉じて頭を下げた。
「重病が奇跡的に回服して歌手への道がひらけた、ということになってますが、和歌子さんに成り代わって東京に出た留美さんには、歌手への花道が待っていました。堀井院長は音楽プロダクション経営の藤井さんに新人歌手のプロデュ-スを依頼、マネ-ジャ-として変装した安本を蓮田の偽名で送り込むことも企みました。
藤井さんも、その歌手志望の娘が隣家にいた娘の和歌子さんと聞いて、その奇遇に驚き、この話に乗り気になったんでしょうね。
資金は、藤井さんが遺産相続した三重の土地を担保にしたことになっていますが、津市に行って登記簿で調べたところ、藤井さんの家屋や不動産は根抵当にも入っていせんし、藤井さんが銀行から融資を受けた形跡もありません。そこで、まだ真相は見えていませんが、前橋代議士の選挙資金からという噂の真実性に目を向けると辻つまが合いました。堀井院長の友人である前橋秀子代議士は公金も流用して資金をつくり、その資金をバ-レルレコ-ドに供託して、潤沢な資金をバックに異例の新人歌手デビュ-企画を通しました。
芸名は前橋先生の付けた小森若葉と決定。その話題性のお蔭でとなりCDアルバム発売も爆発的にヒットしました」
「……」
「でも、この前橋事務所の融資金は最近になって、あなたの成功で得た膨大な利益から清算されています」
若葉が驚いた表情で友美を見た。
「華やかなステ-ジに登場した新人歌手小森若葉、でも、藤井さんはこの歌手が、自分が望んだ娘でないことに気づいてなかったんでしょうね。その証拠に、マネ-ジャ-の蓮田に、和歌子の生家に挨拶に行かせていたことでも分かります。でも、その娘さん、小森若葉になって歌手としては成功したけど生家では評判わるいのよ。前は毎週のように連絡してたのに、歌手になってからは一度も生家に
電話も、帰ったこともないんですって? 多分、道も忘れたんじゃないですか?」
「そんな……」
「藤井さんは、蓮田が安本だったと知った時はさぞ驚いたでしょうが、それよりも、若葉が和歌子と別人だと知ったら、どんなにがっかりしたことでしょう。その方が哀れな気がしますね。この企画が大当たりしたのも、藤井さんが少女時代しか覚えていない和歌子と信じて、本気で取り組んだからですよ」
若葉がうなずく。
「若葉さん、あなたの東京での入院先を突き止めたのよ」
若葉が驚いた表情で、友美を見た。

 

48  入院先

 

「東京のセイロカ病院で死んだ中条留美の記録を見ると、入院日が一年前の九月、かなりの重症ですから病室から出ることも出来ません。松原湖殺人事件のあった二十七日に駒ヶ根の病院にいたとしたら危篤に近い病状ですから、とても出歩ける状態ではありません。
この方がアリバイとしては有効でしたよ。でも、本物の中条留美がいて元気で動きまわっていたの写真が証明しています。この件は、警察でも話題になって調べまわっていました。と、なるとセイロカ病院と駒ヶ根のどちらにも留美はいたことになります……ミステリ-ですね。ここにも事件を解くカギがあると考えたのです」
そこで、沢井和歌子と中条留美の闘病生活を調べると、巧みに入れ代わる状態が手にとるように見えてきます。まさか院長が婦長に内緒で書類の改ざんをしてまで犯罪に加担しないと思うのが間違いでした。間にあわなくて、社のバイトを動員して東京中の病院を調べました。大変だったのは駒ヶ根病院で聞いた東京のセイロカ病院には沢井の名は見当たりませんでしたから、多分、偽名で転院したものとみて、留美さんが駒ヶ根を去った八月二十八日以降の沢井和歌子と中条留美に似たような名前の人の入院記録を探しました。しかし、この作業は徒労に終わりました。無理もありません。彼女は一般の病院には入院してませんでした。
電話帳で、ある病院名を見たときは「ハッ!」としました。それは、銀座一丁目にある堀井美容外科、形成外科と併せて親子二代で経営する芸能界ご用達の信頼度の高い美容整形医院です。
胸をドキドキさせて電話で聞くと、受け付けの女性が、ここの経営者の堀井昭博さんは、駒ヶ根病院の堀井院長の実のお兄さんであることを知らせてくれました。あとは行くだけです。
守秘義務のある病院に行くのですから並の手は使えません。知人の警視庁刑事同伴で、事件絡みの調査という手を使いました。
協力を断られる可能性もあり、調べるのに苦労しました。でも、これを知ったとき、ナゾ解きは九十パ-セント終わりました」
若葉は、友美を無言でじっと見つめている。
「先生は気軽に取材に応じてくれました。この本の写真も見ていただいて、この人を、美容整形したかどうかって聞いたら、即座に否定して、守秘義務をタテに証言を拒否しました。
でも、取材協力費に加えてお菓子持参がよかったのね。このおかげで、助手のみなさんとコ-ヒ-ブレ-クできたの。ラッキ-だったわ。助手のみなさんに本の写真を見せたら、顔を見あわせて『秘密厳守です』と困ったように言います」
若葉の顔が心なしか青ざめているように見える。
「でも、もう、それ以上は聞く必要なかったの。なぜなら、彼女たちの視線がチラチラと自慢げに嬉しそうに壁のポスタ-を見ていたから……そのポスタ-は、あなた、あなたよ。さっそうとマイクを片手にポ-ズをとった小森若葉だったの!」
若葉は、遠くを見すえていた。友美が続けた。
「すべては緻密に計算された計画だったと思います。多分、何枚も用意した和歌子の写真をモデルに、髪を短く切って、二重まぶたにして頬をふっくらさせ、眉を少し剃り、右頬に黒く大きい生きボクロをつけ、唇を厚めに、鼻と耳たぶの形を変えれば見分けはつかなくなります。これて留美さんの過去はすべて消えました。と、いうことは消さねばならない過去があった、ということになります」
これで、戸籍上では留美さんが死亡し、和歌子さんが生き残ったことになります。ですから、あなたは生家への道は知らなくても、正真正銘の沢井和歌子さんということになりますね?」
ただ、友美にはここからが読めなかった。
ハマナスの群落の植え込みを展望台の境界として、その下はるかに生田原川の流れと土手道がつづき、その向こう側に樹林と家並みがひろがっている。町の中心が一望に見えるその位置に腰をおとして、無言になった友美と若葉は、複雑な思いで夕景色を眺めた。
子供の一人が自転車の荷台からビニールシートを運んできて二人を座らせ、また走り去った。夕風に友美が首をすくめた。東京では考えられないぐらい厚着をしているのに風が冷たい。
夕映えの空が湧別川流域の原野や森をあかね色で包んでいる。
若葉は、はるか彼方に広がるオホ-ツクの海を思うかのように遠くに、焦点の定まらない視線を投げて沈黙を守っている。
友美が追い打ちをかける。迷ったが言わねばならない。
「営林署の建物で酒上は、自爆して目を潰しましたね? どうやって両目を一人で突いたんでしょうね? 警察の所見では、苦痛で目からナイフを抜いたとき、床に転落して別の目に突き刺さり、暴れたため誤って目の玉をくり抜いたとしています。
あなたは、四人の男に間接的にでも復讐しとげたのです」
友美は勝ちほこった。ついに警察より先に真相をつかんだ。
完全犯罪などあり得ない、同情はするが犯罪は許せない…。
この記事は、話題を呼ぶに違いない。
「ワカバ先生! 一緒に歌おう」
子供達がわれがちに二人を囲み、ビニールシートに腰をおろそうとして小競り合いをし、二人が立ち上がると、子供達が若葉に群がって歌い出した。
地元の歌らしい。

“北の大地をふみしめながら
歴史をきざんだ 祖父や祖母”

「この歌じゃ、先生、歌えないでしょ」
一人の子が、ハマナスの植込みから深紅の丸い実を千切って、二人に手渡した。
「食べてみて、おいしいのよ」
噛んでみると甘酸い味で香りが口に広がる。皮に近い部分がとくに美味しい。小さく白い種を吐き出す。友美がリ-ドして歌い出すと若葉が唱和した。

“夕空晴れて 秋風吹き……”

手をつないだ子供達が若葉と友美を囲み、全員で歌った。
夕暮れの町に歌声が流れた。
生田原川の流れが銀色に輝き、岸辺では未練たらしくまだ竿を振っている人もいて、河川敷ではゲートボールを楽しむ老人の元気な笑い声が響いている。川の向う岸の土手の道には、歌句碑の白い石が点在していて白樺の植樹林が続き、その林の町側にモダンな町役場の白い建物がアカネがかったグレイに染まって暮れてゆく。
土手道を犬の散歩に付き合っている人が何人か、丘を見上げて手を振った。子供達も歌いながら手を振る。
友美の頭の中で、自分なりに整理した事件の概要がようやくまとまり、祭の夜を彩る走馬灯より早くかけめぐる。
真実を見きわめた以上、当然、罪はつぐなわせる。直接に手を下していないなら、留美の罪は軽いだろう。
安本と二人そろって罪に服してのち、この地で幸せな人生を全うしてほしい。それが、人間としての道でもあり二人の新しい再起再生の門出になる。これが、友美の出した結論だった。
しかし、堀井院長がこの犯罪に加担していたとしたら、多分、留美を無罪にするために入院当時の留美に対して、心神喪失の証明書を用意していると思われる。それなら、それでもいい。
いい記事を書くのが自分の使命で、犯罪者は出なくてもいい。
自分も全力を尽くした。若葉もここで生きればいい。
すべては終わった。友美の心にゆとりが出た。
この勝負は決着がついた……と、友美は思った。

 

49  殺意

 

若葉の心はゆれていた。
信二の退院を指折り数えて待ちわびていた自分が、この女一人の追求で奈落の底に突き落とされかけている。
北の海に死ぬつもりで訪れた薄幸の二人が、生まれて初めて、本当の幸せをつかもうとしている。自首、自殺…一度、生き抜こうとした身にはいずれも似合わない。この幸せは絶対に手放せない。
と、なれば、方法はただ一つ、この戸田友美を生きて帰さないことだけだ。山も海も深いこの地方は、完全犯罪にはうってつけの土地に思える。一度死んだ気になった信二が、手術を受ける気になったのは、この土地で二人で生き抜くためではなかったのか。
どんな手段を用いても、邪魔は省かねばならない。
最悪の場合は、自分はどうなってもいい。故郷に戻った信二だけでも生き抜いて、幸せな人生をまっとうしてほしい。
若葉は、友美を海辺に誘い崖から突き落とす決意をかためた。
ハッと、われに返って歌にもどるが……心は乱れる。
「さあ、みんな帰ろう!」
若葉が大きな声で呼びかけると、子供達がお互いにつないでいた手を大きく振ってから離し、口々に別れの挨拶をいい握手をしてから、自転車の方に向かって走り去った。
「ヒトミちゃんが入学する遠軽小は、ブラスバンドの名門でしょ。
生田原はコーラスで全国区になりそうね」
「でも、ここだけじゃなく、この、湧別(ゆうべつ)川流域六ヶ町村全部でチームをつくりたいです」
坂を下りながら友美は、ワカバ先生と呼ばれるこの娘が、戸籍詐欺か傷害かで罪に服したのち生田原にとどまることを確信した。
橋の下の川面にヤマベが跳ね、山里の町は夕闇に包まれてゆく。
友美の頭の中で、中央高原村始末記は結末を告げている。
「若葉さん、いずれ、この土地で幸せに暮らしなさいね……」
若葉が下を向いた。うなずいたわけではない。
(だまされるな!)と、若葉は思った。
(一番手強かった女がこれで手を引くはずはない……真相を知るのも時間の問題である以上、生かしては帰せない)
「友美さんて、いい方ですね」
復讐のためとはいえ、留美も良心の呵責に苦しんでいた。彼女の心は、片時もこの胸を掻きむしるような恐怖から逃れられない。
留美は両手を眺め、肩をすくめて身ぶるいした。寒いからではない。この手が恐ろしい。その恐怖からくる震えだった。
あの前日の夜。はじめは小雨だった。
留美は、駒ヶ根の病院で六時からの夕食を終え、着替えをバッグに詰め、裏口から駅まで五分の道を急ぎ、午後七時十分の飯田線に乗り岡谷経由で上諏訪には夜八時四十八分に着いた。
そのまま、駅から歩いて諏訪湖に近い安本のアパ-トに行き、手作りの煮物などを差し入れ、東京行きの計画、買ったばかりの携帯電話の番号確認などの打ち合わせをしたが時間が足りない。
周辺をブラブラして時間を過ごしてから、もう一度、アパ-トに戻ることになっていた。理由は、赤垣が安本が集めた金の一部を貸せと言うことで来るからだ。もっとも、その金は歌手デビュ-資金として、すでに最大の理解者の堀井院長の手に渡っている。
留美が神経に異常をきたしたのは、酒上、赤垣、古川、高岩ら四人の残虐な犯行が原因なのは間違いない。
堀井院長は、男に裏切られた自分の過去と併せみて留美の復讐と再起への願いを叶えるべく、知人の前橋女史、ケガで診たことのある安本、東京で美容整形医を営む兄にも働きかけ、戦略を立てて留美に最大の援助を惜しまなかった。
当然ながら殺人までは示唆しない。これは留美の仕事だった。
留美は、赤垣が信二を訪ねて来るのを事前に聞き、それに合わせて、かねてからの計画を実行に移す決心をしていた。
古川と高岩には、赤垣が酒上を裏切り、安本を脅して大金を一人占めするために安本の部屋へ行く。安本のアパート下の駐車場で赤垣を待ち伏せするように、金の在り処は自分が知っていると電話をし、時間も指定した。赤垣が話し合いに来る時間がせまったので、留美は部屋を出た。
ところが階段を降りる前に、約束の時間より早く来た赤垣とバッタリはち合わせしてしまった。これは誤算だった。
かつて、クラブ「王城」にバイトで働いた頃から目をつけられながら、古川たち同様にノラリクラリ付かず離れずで来たのに、仕事以外にはまったく交際がないといい続けてきた安本の部屋から留美が出て来たのだから不審に思うのも無理はない。
案の定、留美が階段を降りたときは、すでに安本の部屋から赤垣のどなり声が洩れ聞こえてきた。話し合いどころかいきなり争いになっている。
留美の計算よりはるかに早く、高岩たちが現れる前に赤垣は鼻血を出し、よれよれになって雨の中に叩き出されて来た。
赤垣が留美を見つけて八つ当たりして頬を殴った。
この瞬間、留美は母を殴殺したのは、「この男」と確信した。
「五年前、広岡で人殺しと放火をしたわね?」と、いうと、赤垣は一瞬たじろいだあと開き直ってせせら笑った。
「アレもしたぜ」 そして、まじまじと留美を見て「似てるな、あのときの子に……ひょっとすると、おまえ?」
そして、なにを思い出したのか野獣の目をギラつかせて襲いかかって来た。赤垣は、屋根つきの駐車場に留美を引きずりこもうとしてもみ合いになった。そのとき、高岩と古川がそれぞれの車であらわれ、赤垣と乱闘になった。入り乱れての争いの中、隙をみて赤垣の頭を石で叩いた留美の一撃が効いて、見た目には高岩と古川がなぐり殺した形になり争いは終止符を打った。
自分たちが殺したと思った二人は留美のいいなりになり、留美が安本の部屋に戻って、手短に事情を話し、とばっちりのかからないうちにと東京行きをすすめて、ショーで着る派手な上着と時計を借り、出口で靴も一足無断拝借して部屋を出た。
もち出した安本の着衣に、時計も替えて赤垣を古川の赤い外車のトランクに押し込めて、山に埋めるように進言し、高岩の青い車での待ち合わせを清里のレストランに決めた。
土地にくわしい二人が死体を山に埋めた。
部屋で小さなケガの応急処置をした信二は、留美の去ったあと、簡単な旅支度で東京へ発った。
留美は時間をはかり、清里の深夜営業の店で落ち合い、死体を運んだ二人と落ち合い二台の車で大門沢橋のたもとに行った。
あの雨の夜の出来事は、一瞬たりとも忘れることができない。
三人は一緒に話し合うことにした。彼らは、留美が金の在りかを知っている上に、自分たちに気があるものと、信じ切っていた。
「お金の話はあと、その前に交代で楽しみましょう」 と、留美が明るく語りかけた。
この留美の提案に二人が一も二もなく賛成し、ジャンケンで順番を決めた。古川が先になり、高岩がくやしがる。二人はすでに極度の興奮状態にあった。闇と雨でお互いの車内は見えない。
先に古川と青い車で二人になり、車内で留美が持参した替え着入りのビニ-ルバッグの中から缶ビールを出して乾杯する。留美も一気に飲み干し、スポ-ツタオルで口紅のない口を拭いた。
「さあ、飲みおわった。始めようぜ」
げびた笑みを浮かべて色黒あばた面の古川が、留美を抱き口を寄せてきた。留美は、ゆっくりと古川の首に右腕をまわし、甘えるように背後にまわりタオルをからめて一気に締め上げた。
古川が暴れて、のどのあたりを掻きむしる。
「五年前、広岡でレイプと殺しと放火をしたわね!」
激しく抵抗しながら古川がわめいた。
「あれは酒上がやれってけしかけたんだ、た、助けてくれ」
「娘をだれが犯したの?」
「みんなだ。オレは一回だけど、高岩は二回……」
「親を殺したのは?」
「あ、赤垣だ……」
「火をつけたのは?」
「酒上が証拠を残すなって…わ、わるかっ……」
語尾は消えた。留美が力いっぱい絞め、古川の力がぬけた。
バッグを肩に、空き缶とタオルを持って、高岩の待つ赤い外車に移ると、残りのビ-ルを飲み終えて足元に空き缶を投げ捨てた高岩が、待ちかねたように手を伸ばし「あいつ相変わらず早いな」といい、唇を突き出し手を留美のロングパンツに触れてきた。その手を軽くはずしながら留美が甘えた。
「すこしだけ、シートを倒してくださる?」
長居は無用だ。
ビ-ルの空き缶を足でつぶしながらドアーを軽く開け、高岩を少し倒したシ-トに横たえさせると、踏みつぶした空き缶を足でブレーキの下に押し込み、サイドブレーキを外して、プレートを踏みこみエンジンをふかして、身をおどらせ一気に外へとんだ。
暖房を少し入れていたため、エンジンはかけたままだったから、車は高岩の絶叫を雨の闇に残して滑るように崖から落ち、はげしい衝撃音と同時に大門沢の濁流に転覆して半没した。その凄まじい情景を死んだ母と妹に見せたかった。
感傷に浸かっている時間はない。古川の死体を乗せた車を運転して松原湖畔にのりいれ、エンジンを切り、坂を下って取水口上の駐車場に乗り入れ、死体を引きずって取水口に落とした。
薮から畑へ懐中電灯で照らしながら松原湖駅に行き、無人の駅で用意した服装に着替え、夜明けを待ち小諸からくる始発電車にのる。松原湖発五時四十五分、これで小渕沢六時四十四分に着き四分待って中央本線にのり換え、岡谷で隣りホームに待機している飯田線に七時三十一分にのり終着駒ヶ根には八時三十九分。駅から走って裏口から、和歌子が転院して一人になった病室に戻って寝巻に着替え、配送される九時の朝食に悠々に間にあった。食欲が出て食事は美味しいが、体調が悪いフリをして牛乳だけをノドに流し少しパンをかじる。
最後の酒上だけはチャンスが作れず苦労したが、天運が相手を運んでくれたお蔭で、自分は肋骨二本の犠牲だけで済み、酒上には脳膜にまで達する傷を負わせて信二の分までも復讐した。たった一つ悔いがあるのは、心臓を突いて息の根を止めなかったことだ。
死ぬより苦しい地獄に落とした、と言えないこともないが、これで母と妹の仇は討ったとしても、何故か虚しい。
たった一つの朗報は、信二の視力が戻りつつあるという医師からのメッセ-ジだ。生死の境をさまよい、留美の夢のために、望まぬ手段で資金集めをして堅気の生活を崩さねばならなかった信二の苦悩は計り知れない。これからが二人の人生になる。

 

50 旅の終わりに

 

すべては完ぺきだった。
この人の恋人の佐賀達也だけには真実を見ぬかれていたが、なぜか見逃してもらっている。その真意は知る由もないが……。
「ご主人の佐賀さんて、頼りになりますね…」
「そうかしら?」
夫と言われてわるい気はしないが、それとこれは別だ。
丘を降りて、生田原川にかかる中央橋を渡ると、北の夕風が頬に冷たい。留美の限界ぎりぎりだった緊張がほぐれてゆく。
橋を渡り切るところで、先方から車が来た。富橋と達也が乗っている。急ブレ-キをかけた車の運転席から転げるように降りた富橋が、大きな泣き声で叫んでいる。
「信二のバカが車ごと湧別の海に飛び込んじまった! 旭川から遠軽の病院に護送中されてから警察の車を乗り逃げして……」
助手席からとびおりた達也がかけ寄って留美にメモを渡す。
「安本が罪を全部かぶったぞ。進藤が道警と行って臨床尋問をしやがったんだ。赤垣、高岩、古川の三人を次々に殺したと自供してるんだ」
その声で留美がわれに返った。
酒上の目を突き刺して二階から転落し、意識を失ったとき聞いた「辛かったな……」の達也の声を、かすかな記憶が思い出した。
突然、予期せぬ衝動が留美をおそった。友美にとびつくように抱きつき声を上げて泣いた。自分の意思とは思えない。
信二がいない間、辛くて寂しくてやるせなくて耐え切れない気持を今の今まで我慢して、せいいっぱい虚勢を張って生きたのは、少しでも視力が戻った信二に元気な自分を見てほしいからだった。心の張りも切れ、緊張感が身体から失せてゆく。
信二のいないこの世には、生きる意味も未練もない。死んで、信二と永遠に一緒になる。死への恐怖感もない。むしろ、生きる恐怖から開放される安堵の気持ちがつよく働く。
その急激な心の変化にとまどいながらも留美は泣いた。
オホ-ツクの海で、信二が待っている。二人はどこまでもいつまでも永遠の愛に結ばれ……これで、ハネム-ンに行ける。
これが本当の自分なのか、母に甘えた幼い頃にもどっている。
「これでいいのよ……これでいいのよ」
友美は、(こんなはずじゃなかった)と矛盾を感じながら、留美の肩を抱きしめ、意味もなく同じ言葉をくり返している。同情もしていないはずなのに、涙ががあふれて止まらない。
達也は、その二人の肩に手を添えて留美の耳元に「死ぬなよ!」と、声をかけた。友美が(なにをバカな)という目でふり向くと、留美は友美の肩ごしに顔を上げ、ぬれた目で達也を見つめ、迷いのない笑顔で応じた。もう留美に贈ることばはない。
留美が突然、友美を突き放し、富橋の車目がけて駆けだした。
富橋があわてて追いかけようとするのを見て、達也が素早く足をのばした。富橋が頭から倒れもんどりうって一回転して叫んだ。
「免許証もってんのか?!」
留美が開けた窓から、大きく手を振ると達也も手を振った。
友美が泣いて叫んだ。
「死んじゃだめ!」
もうすぐ流氷の季節を迎えるオホ-ツクの、海の冷たさを思いながら友美は泣いた。
車は遠のいた。
達也が、泣きじゃくる友美の肩をしっかりと抱いた。
「オホ-ツクへの新婚旅行じゃないか、死なせてやれ」
さり気なく突き放したが達也の心も泣いている。あの二人のこれからが思いやられた。旅の終わりがまた新たな旅になる……
留美は死ぬ気だった。
信二の待つオホ-ツクへと夢中でハンドルを握りながらも、留美は冷静さを失ってはいず、向遠軽の三叉路の赤信号では本能的にブレ-キを踏んでいた。
汗ばんだ手に達也から手渡されたメモがへばりついているのに気付き何気なく見ると、走り書きで「湧別を左折、コムケ湖左端の青色モ-タ-ボ-トに信二……女史の手配でエトロフに常住権あり、信二は目が見えるぞ」とある。
青信号で思い切ってアクセルを踏んだが、涙が溢れて視界がぼやける。これからは安全運転で……と、留美は思った。