第一章  清里高原

Pocket

1 転落事故

 

「これは……!」
傘を傾けた月刊誌エルの記者戸田友美は、大門沢橋の上から谷底をのぞいて絶句した。濁流の中に赤い車が無残な姿で転覆していて、半開きになった助手席側のドア-が流れに煽られている。
私服の刑事や作業服の警官が、橋際に設置したビニール製なわばしごを伝わって続々と五メ-トルほど下の谷底に降りて行く。
「中を調べます!」
全身ずぶ濡れで作業中の警官の一人が、流れに身を入れて車内に潜ろうとしているのが見えた。
「気をつけろ!」
腰に巻いた白いロ-プが、岸の岩場で見守る仲間の手から一直線に延びて水中に沈んだ。すばやく友美はバッグから小型カメラを取り出し、傘の中で片手で操作して続けてシャッタ-を切る。
近くにいた若い警官が慌てて駆け寄り友美に注意する。
「テ-プ内は立ち入り禁止です。早く出てください!」
「取材はいけないんですか?」
「検証が終了するまではダメです。見てください、テレビ局だって外で待機させてるじゃないですか!」
「でも、これは単なる転落事故でしょ?」
声を聞きつけて、白いビニールコ-ト着用の刑事が近寄り、レインハットのひさしを上げて傘の内をのぞく。
「やっぱり、戸田さんか?」
「あら、進藤さん。お早うございます。長野から?」
「いや、諏訪からだ。つまらぬ事件に呼ばれて三日前から機動隊六名で諏訪署の道場泊まりで……それより、いくら戸田さんでもここはダメです。関係者以外は立ち入り禁止ですからな」
「わたしも事件専門のライタ-ですから関係者と同じです」
進藤警部補が渋い顔で濡れたメガネをずり上げた。やさ男に見えるが長野県警では、一、二を争う剣道の達人で年齢は三十五歳前後だが、まだ独身だと元恋人の佐賀達也から聞いている。
「弱ったな、元刑事の佐賀先輩と一緒なら……ですが」
「そんなの口に出さないでください! でも、変ですね?」
「なにが?」
「転落事故なら交通課の仕事ですし、事件だとしても所轄署で充分なのに、なんで県警本部の機動隊が出て来たんですか?」
「退屈しのぎに、一人で様子を見に来ただけですよ」
「吉原警部は?」
「二日酔いのまま諏訪署で私の報告を待ってるんだ……順調なら、今日の午後には長野に帰れるんですがね」
「だとすると、これがただの事故だといいですね?」
「それだと、私もこれでお役御免です。それにしても、戸田さんこそこんなに早く、どうしたんです?」
「中央高原村に取材に来て、友人宅にいて騒ぎを聞きました。ところで車の中には死体があるんですか?」
「運転席で若い男が死んでるそうですが……」
「橋の両側に、長野と山梨の県警のパトが何台も来てますね?」
「ちょうど県境でして……山梨側から落ちたのに勢いが良すぎたのか車がとび過ぎて、ホトケの頭の位置が長野側だとか、所轄の臼田署の連中がボヤいてますよ」
「発見者は誰ですか?」
「ゴルフ場の……いや、細かいことは後で発表するでしょう」
橋の下が騒がしくなった。
水中の車内に潜っていた所轄の若い刑事が、寒さで震えるびしょ濡れの姿で壊れて揺れるドア-に掴まって流れに立ち、免許証らしい革ケ-スを握った右手を大きく振り上げた。
「上着のポケットにありました!」
「ホトケさんは出せるか?」
岩場で指揮をとる中尾という臼田署の警部補が叫ぶ。
「車体に挟まれてて無理です」
「エンジンキ-は!?」
「オンになってます」
「車検証は!」
「フロントボックスが開きません」
「ナンバ-は?」
「確認しました!」
「よし、上がって身体を温めろ! あとはクレ-ン車待ちだ」
岩場に向かおうとした二人の若い刑事は、足元を掬われて激流に流されたが、ロ-プに引かれて岸にたどり着き二人で水を吐いた。
二人を労った中尾が手渡された免許証を手に橋の上を見た。その顔を小降りの雨が打つ。
「進藤刑事……免許証だ。いま持ってくぞ! あれ?」
中尾があわてて眼鏡の雨滴を拭い、改めて橋の上を見上げた。
「もしかして、戸田さんかね?」
友美が手を振ると、中尾が怒鳴った。
「邪魔はしなさんなよ!」

 

2 中央高原村

 

クレ-ン車が到着したが岩場に下りることが出来ず、車両の引き上げは難行した。結局、橋際の空き地に配置されたクレ-ン車の太いワイヤーの先に付いたフックの先から伸ばしたチェ-ンを車体に取り付けてようやく転覆した車体を上向きに戻した形で岸に引き上
げ、検視官待ちの状態で死体は車内に残したまま、所轄署の交通課と刑事課合同での現場検証が始まった。
窓のガラスは前部も後部も砕けていて、車内から流れる水が岩を伝わって早瀬に流れ落ちている。運転席の男は潰れたフロント部分と椅子に挟まれて身動きの出来ない状態で、全身傷だらけで死んでいた。転落時に作動すべきエア-バッグの装置は岩場に激突した瞬間に破壊されて使用不能になったらしい。
山梨・長野両県警の交通鑑識官がタイヤ跡などを調べた結果、車は山梨県側の橋際の空地から発進して、五メートル下の谷底に転落し、転覆しながらも勢いで沢の流心を越えて長野県側にまで越境したことが確認された。タイヤ跡からも、護岸工事を兼ねて強化されているコンクリ-トの崖が車腹に削られて崩れ落ちている状況から見ても、そこから転落したのは誰の目にも明らかだった。
写真班のフラッシュが光った。
橋際で進藤と中尾が話し合いを始め、遠慮して少し離れた位置にいた友美が聞き耳を立てる。
「サイドブレーキが外れてて、ギヤ-はドライブに入っている。その上にエンジンがオンの状態だった。それで、橋際の空き地から急発進して滑落してるってことは、ヒ-タ-作動中に間違ってギヤー
が入ったのか、それとも自殺かだな?」
中尾が進藤に免許証を見せて、革ケ-スごと手渡した。
「こいつは八ヶ岳中央高原村の高岩伸一ってチンピラでな、たしかヤクの常習と窃盗などでマエ(前科)があるはずだ。いま身元確認に家族を呼ぶように署に連絡して来る……」
高岩の名を聞いた友美が驚いて傘の中で顔を上げた。つい昨日の取材で会った男だが、前科があるとは知らなかった。
中尾が赤色灯が点滅している指令車のパトカ-に急ぐと、進藤が友美を手招きして、自分が乗って来た黒パトまたは面パトとも呼ばれる黒い覆面車に向かった。
「吉原主任を呼び出すから挨拶だけしといてください。あとで文句を言われるのは嫌ですから」
覆面車の運転席に入った進藤が、助手席に友美を招いてから無線で諏訪署にいる上司の吉原警部を呼び出すがなかなか応答がない。
友美が折り畳みの傘をすぼめて後部座席に座る間に、進藤が免許証の入っていた革ケ-スに指を入れて中を覗き、けげんな顔でなにやら濡れてくしゃくしゃになった紙片を引き出して眺めたが、困った顔で友美に手渡した。
「こんなのが出てきたが字が細かくて読めん……戸田さん、読んでくれんですか」
「なんですか、これ?」
紙片を受け取った友美が、破れた箇所を継ぎながら声を出す。そのとき、吉原が無線に出たのを二人とも気づかない。
「これは高岩伸一あての借用書で、その縮小コピ-です。借り主は古川昭夫……この人の住所も中央高原村で、金額は一千万、この担保にポルシェを……」
「一千万!」
進藤が驚くと、無線からも大声が響いた。
「一千万ってなんだ? 進藤! そこに婦警がいるのか?」
「いま、転落事故の経過を報告します」
「婦警がいるのかって聞いてるんだ!」
「戸田さんです……」
「戸田? 戸田って……まさか友美さんじゃ?」
「戸田さんファンの隊長に、声を聞かせたかっただけですよ」
「ファンなもんか。その戸田さんがそこで何してるんだ?」
「だから経過報告です。転落死したのは中央高原村の高岩伸一で二十六歳。その免許証入れから借用書のコピ-が出て来たんで、読んでもらってるところです」
「守秘義務はどうなってるんだ、自分で読めないのか?」
「縮小コピ-の字が小さすぎて読めないんです」
「もう老眼か情けねえな。気にいらんが続けてもらえ」
「吉原さん。そんな言い方頭に来ますよ!」
「お早よう。ま、機嫌なおして読んでくれ……」
「不愉快ですけど内容を言います。中央高原村の古川昭夫が、同じ村の高岩伸一に一千万円を借用してます。その担保に高岩がポルシェを預かり、一千万円の全額返済後はその車を古川に返す。こうなってますが、この証書の発行日は七月三十一日。返済期日は五ヶ月後の十二月三十一日、金利は一ヵ月十パ-セントで、その金利は立会人に支払う、と、なっています。その車が多分、この谷に落ちた赤いポルシェでしょう……」
「古川に一千万円貸して、車を担保に取った高岩が転落死か? それにしても一ヵ月十パ-セントとは無茶な高利だな、ところで、その立会人ってえのは誰だね?」
「まだ、読み終わってないんですが」と、友美が続ける。
「金利を貰う立場にある立会人は、安本信二……」
進藤と吉原が同時に反応した。
「安本ですか!」
「安本信二か? 戸田さんは以前、コヨ-テの竜こと横手竜二に救けられたことがあったな?」
「ええ、暴力団に追われたとき……それと関係あるんですか?」
進藤が説明する。
「その竜二の子分がジュクの信二と呼ばれてた安本で、今でこそ堅気の生活に戻ってるが、かつては、新宿の裏社会で中国マフィアと張り合ってた取立屋だったんです」
「その安本が、なんで立会人に?」
「こっちが聞きたいぐらいですよ。安本は、仕事の争いから蛇頭の幹部を射殺し損ねて二年ほど服役、出所してからは厚生して諏訪のクラブでバンマスとして働くようになったんです。警視庁から長野県警への依頼で、諏訪署の監視下にあったんですが、やっぱりワルの気は抜けなかったんですな」
無線から吉原が声を荒らげる。
「これも、佐賀のせいですぞ」
「あら、どうして?」
「彼が新宿署にいた時に逮捕して、出所後に就職した時には彼の身元保証人になってるんですからな」
「そんなの知りません。わたしには関係のないことです」
「しかし、佐賀が戸田さんのヒモなのは周知の事実です。それはそれでいいが……」
「よくないです!」
「ともかく安本が関係してる以上は事件に間違いない。利ザヤで粗稼ぎの上に、ヤクが絡む可能性もある。ワシの六カンだと金銭トラブルでのコロシの可能性が強いからな。念のために安本を確保させよう。ところで、鑑識はまだか?」
「小諸から鑑識課長の中西警視が、鑑識班を連れてこっちに向かってます。所轄の検証では事故か自殺と判断されています」
「なにが事故だ。ワシも部下を連れて行く。そこは佐久街道の県境だったな?」
「旧道の大門沢橋です。でも、単なる転落事故に本部の機動隊中隊長が来たんじゃ引っ込みがつきません。待機しててください」
「安本が絡んで一千万の金が動いてるんだぞ。単なる事故であってたまるか」
「検視官の結論が出たらすぐ連絡します。それと、警視庁にも筋を通しておいてください。後でうるさいですから。安本担当は、マル暴四課の新婚ホヤホヤの赤城直孝警部補ですが……」
「披露宴には出たが、戸田・佐賀の独身ペア-が媒酌人だから、あの二人はすぐ別れるさ。ともあれ上席には連絡しておく。どうせ、安本の名前が出たぐらいじゃ、わざわざ来やしないからな。ちょっと待て! ワシに本部長から直行便の連絡らしい」
無線が切れると、進藤が友美を見てため息をつく。
「隊長のカンは当てになりませんが、事件の匂いはしますな?」
進藤の声など聞いていない友美が、感心したように首を振る。
「元金一千万が、二年たつと複利で利息が数千万ですか……」
それを聞いた進藤が目を剥いた。

 

3 身元確認

事故のもようを午後のニュースで流すという地元テレビ局の強い要望で、一時的に作業を公開したため、橋上と橋の両側には報道陣にまじってかなりの野次馬が集まった。
テレビ局のビデオカメラが橋の上から谷を見下ろし、レポーターが声を枯らす。
橋の上からだから車内の様子や死体は見ることが出来ない。それでも、悲惨な状況はテレビでもラジオでも断片的に伝えられる。
車を岩場に運び終えると、再び関係者以外はテ-プの外に出されて立入禁止になった。友美は指揮をとる中尾と進藤に密着して、谷に降りしぶとく取材を続けていた。
「鑑識が来るまで、ホトケさんには触るな」
中尾の指示で死体は車内に取り残されている。
高原の秋は早い。まだ季節は八月の下旬なのに、谷をおおう樹木の枝葉はすでに紅に色付いている。
そのあざやかな色彩の紅葉も、夜来の豪雨が情け容赦なく叩き落としたのか、その色とりどりの紅葉が、転覆した赤い車の裏側までも朱に染めていた。
車体に上半身を潜り込ませて作業をしていた交通課の職員が電動カッターを片手に顔を出した。顔も作業衣も油と雨で濡れている。
ボックスが開き車検証が出て、車の所有者は中央高原村の古川昭夫であることが確認された。
やがて、検視官を乗せた機動隊鑑識班がワゴン車で到着した。都合よく雨が小降りになっている。検視官で鑑識課長の中西警視が、出迎えた進藤、中尾と、旧知の友美とも挨拶を交わすとすぐ部下をうながし、進藤、中尾に続いてロ-プ製の縄バシゴで谷底に降りて行った。友美もそれに続いた。
中西警視は、まず車内を覗き、同行の部下と一緒に慣れた仕種で死体に合掌し、手慣れた手順で検死を始めた。
「乱暴に扱うなよ。水ぶくれはヤワイからな。外傷の有無も見ながら引き出せ。その顔の傷はガラスだな?」
遺体を動かす前に、鑑識課の職員が車内の残留品などの確認を始めると、中西警視は車内に上半身を入れて死体に触れたり、写真班に撮影位置を指示して何枚もの写真を撮らせたり、工具を持った作業員に車体前部の解体を命じたりと忙しい。
こじ開けた運転席からの死体の引き出し作業に入ると、潰れた車体と死体の傷を合わせ見て、車内での傷か、転落時に岩などにぶつかたときの衝撃か、谷底に激突した時の傷なのか、あるいはそれ以前の傷かを判断してゆき、それを部下が筆記する。当然ながら友美のメモ帳にも気づいたことが書き込まれてゆく。
「頭蓋骨陥没に頸部骨折、内蔵損傷、全身の複雑骨折と裂傷、それに口と鼻からアブクが吹き出している、かなりの水腹だな……」
進藤が質問する。
「とりあえず、水中に落ちたときは生きてたってことですね?」
「そうなるな」
「ということは、最終死因は水中での窒息死ですか?」
「全身打撲による大量出血も死因に加えたいな」
潰れた車体の一部が解体され、腰の部分を車体に挟まれていた死体が、ようやく岩場に敷いたビニ-ルシ-トに横たわったのは、正午を過ぎてからだった。ここからまた本格的な検視が続き、あとは警察病院での解剖となる。
「停車位置から加速して滑落し、流心の位置までとぶには、どのぐらいの速度が必要かな?」
警視の問いを進藤が中継して崖上を見上げて怒鳴った。
「おーい。交通課のダンナ、計測結果を知らせてくれ!」
橋の上に山梨県警の交通鑑識官が現れて応答した。
「崖から三メートル先に駐車していていた位置から、エンジンを最大限にふかし、めいっぱいアクセルを踏み込んで五メートル下にとぶと、八メ-トル先までは行けます」
「了解!」
交通課の検証で、岩場の削れ具合などから車輌の落下経路が特定された。車は走行しての落下ではなく、山梨県側の橋際の空き地に駐車していて、そこからエンジンを高回転させて前方から勢いよく大門沢の濁流めがけて飛び込んでいる。サイドブレ-キは最初から外れていたと見られる。どうみても自爆行為としか思えない。
あとは、解剖の結果待ちとなる。ただ妙なのは、リクライニングの座席が少し後部に倒されているのと、スリッパで運転してのか両足に人工皮革の茶色のスリッパを履いている。潰れた運転席の下から左の靴が出てきたが、右の靴は流れ去ったのかどこにもない。
シートに横たえられた死体はかなり水ぶくれになっていて、大きい傷も多く、顔や手足のあちこちに白く洗われた肉や骨が皮膚の下から見えていた。遺体は一旦、シートにくるまれる。
「車もホトケも引き上げるぞ。あとは行政解剖だな」
進藤があわてて訂正する。
「司法解剖にしてください。念のためです」
中西警視が頷き、現場検証は終了した。
「遺体を上げてくれ」
作業班に依頼して、警視がなわばしごに足をかけたとき若い刑事が叫んだ。
「おーい。ホトケさんを吊るからクレーンを降ろしてくれ……」
警視があわててさえぎった。
「おい。ホトケさんをクレーンで吊るのは止めてくれ。岩に当たって首が折れちゃうと困るからな」
遺体はロープで確保し数人で担ぎ上げることになった。進藤が中尾に声をかける。
「右の靴はどうだった?」
「それが、ないんだ。車内から出たのは、潰れたビール缶一個とスポ-ツタオル一枚だけで、何もかも流されたんだろうな」
「左靴は、大門ダムの流木処理作業係に依頼してくれ」
「すぐ手配するよ」
友美がつぶやく。
「これで、ただの事故なんて……」
死体は橋際に設置されたテント内に収納され、事故車の破片までがクレーンで吊り上げられると、全員が谷から上がった。
岩場から引き上げられて、橋際の空き地に置かれた車が、ペチャッと潰れた真っ赤なボディを無惨な姿でさらしている。
ようやく諏訪署のパトカ-で高岩の家族が到着した。腰の曲がった老婆だった。
道路の両側はおろか狭い道いっぱいに乱雑に停められた車で、橋からかなり離れた位置にしか車は駐車できない。付き添いの刑事の手を振り切った老婆が、野次馬や報道陣の人込みを乱暴にかき分けて立入禁止のテ-プにたどり着いた。
「ばあさん、押すなよ。危ねえじゃねえか」
「おばば、ここは一般の人は入れないんだぜ」
テ-プを潜ろうとする老婆を警官が止め、追いついた刑事から高岩の祖母だと知らされると慌てて老婆と同行の刑事を、死体の置かれているテント内に案内した。
「高岩伸一のおばあさんですが、耳が遠いようです」
テント内にいた関係者全員が、老婆と諏訪署の刑事を見た。
進藤がけげんな表情でとがめた。
「森島刑事、なんで婆さんだ? オヤジかオフクロは?」
「畑仕事で、忙しくて手が離せないと、断られました」
「自分の子供が死んだのにか?」
「進藤係長! どこの村だと思ってるんです?」
「どこの? 中央高原村だろ?」
「日本一働き者の村です。盆も正月も休みません」
村を取材中の友美が頷いた。一円でも金を惜しむ村なのだ。
中西警視が死体に被せたシ-トをめくると、その顔を凝視した老婆が、両手で身体をゆすってわめいた。
「伸一! いつまでも寝てんじゃねえ。はやく起きて仕事しろ」
中西警視が肩に手を掛けて耳元で大声を出す。
「ばあさん。あんたの孫の高岩伸一に間違いないかね?」
「伸一だが死んでなんかいねえ。早く目をさますんだよう」
祖母の声が涙声になる。中西警視が顔を上げた。
「身元確認終了、本人に間違いないそうだ。森島君、婆さんを連れ帰ってオヤジとオフクロに伝えてくれ。いくら親不孝の道楽息子でも、顔ぐらいは解剖前に見に来いってな」
老婆と遺体は警察で手配した車に乗せられて、鑑識のワゴン車に続いて去った。
事故車を台車に積んだレッカー車が、臼田署に運ぶために動き出した。進藤が数歩追いかけて運転手に大声で念を押す。
「おーい、そっと置いといてくれよ。証拠品なんだからな」
進藤の口調から、事件絡みとみているのは明らかだった。
報道陣が集められ、現段階での調査結果が発表された。
「臼田署刑事部の中尾です。本来は交通鑑識課の報告事項ですが、事件性の有無についても調査が必要でしたので私から現段階での調査結果を発表させていただきます。
山梨・長野両県警の合同調査によりますと、橋際の空き地に川に向かって前向きに駐車していた高岩伸一運転の車両が、山梨県側の大門沢橋際より転落して長野県内の大門沢内で死亡したものです。
死亡したのは、長野県諏訪郡八ケ岳中央高原村2-3に住む農林業自営の高岩孝吉の長男、高岩伸一、二十六歳。死因は全身打撲および窒息死で、自殺または過失による変死と見られます。事故発生時刻は八月二十七日の午前三時五分、死亡時刻はそれから十分以内と推定されます。死亡時に使用していた車は同じ村に住む同年の友人古川昭夫所有のものです。
転落後の車両を調査した結果、走行中の事故ではなく、深夜、休憩中での事故と推定されます。エンジンキ-がオンになっており、車内暖房のためにエンジンは作動中、サイドブレ-キが外れたか、外れていたのか、車が少し動いたためにあわててギヤ-を入れ、アクセルとブレ-キを間違えたかなど、なんらかの操作ミスがあったとも考えられます。座席はややリクライニング状態にあり、ビ-ルの空き缶が車内に残されていました。今後も引き続き事故前後の経緯などの解明については、解剖の結果を待って継続します」
中尾は、進藤と計って一千万円の貸借や安本の存在を伏せた。
案の定、報道関係者から質問が出る。
「車の持ち主の古川と、死亡した高岩には金銭の貸借関係はないんですか?」
「これから調べます」
「女性を含めた交遊関係は?」
「分かりません」
「事件性はないんですか?」
「今のところ、ありません」
「ということは自殺と断定していいですか?
「いや、運転操作ミスの可能性もあります」
「警察では、はっきりしていないということですね?」
「これ以上の調査結果は必要であれば臼田署で発表します」
誰もが釈然としない顔で散り、車も人もまばらになる。
そのとき、指令車の無線のスピ-カ-が応答を求めて来た。
「新たに事件発生! 応答願います」

続く