第四章 攻防

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11 喫茶店ミラ-ジュ

外は雨、それでも少しは小降りになっている。達也は、神田駅西口の喫茶店で友美と赤城を待っていた。
店のマスタ-の多田は、元警視庁刑事、昔の仲間だ。
「まっ晝間から友美さんとデートか?」
「バカいうな、赤城と三人で情報交換だ……」
その赤城が現れた。白骨死体発見は、赤城にもかなりショックだったらしい。すぐ、新聞記事の切り抜きを出した。
『X日午後八時三十分頃、長野県茅野市北山の北八ツ岳山麓白馬ケ池北東一キロの樹林内で推定死後約一年の男の白骨死体が、白馬ケ池山荘宿泊客ら数人によって発見された。
長野県警察の調べによると男は身長一七〇センチ、三十歳前後。
頭蓋骨前部の陥没した様子から鈍器による打撲が致命傷とみられ、警察では殺人事件として被害者の身許を調べると共に、一年前に松原湖および大門沢で死亡した中央高原村の青年二人との関連についても捜査中で、改めて目撃者探しに全力を注いでいる』
「これが、どうした?」
「被害者の名は載ってませんが、こいつは明らかに安本です」
「だったら、名前を載せるだろ?」
「一年前の松原湖事件から正式要請を受けて、私が暴力団関係から調べて行方を追ってたのに、その安本が白骨死体ですよ!」
「よかったな……」 達也はタバコの煙を吐く。
「それだけですか?」
「ほかに、なんて言えばいいんだ? 気の毒に……か?」
「進藤刑事から連絡があって、いま科警研に複顔に出してるから安本の件で騒ぐのは少し待ってほしいって。変じゃないですか?」
「顔が出来れば、安本か、安本以外かが分かるじゃないか?」
「先輩は、安本じゃないと思いますか?」
「その可能性もあるだろ? 山の中じゃ、松原湖や安本となんの関係もない死体が出たって不思議じゃないんだからな」
「それもそうですが」
「一年前、安本の部屋には体毛も落ちてたし、警視庁の資料にも安本の血液型は載ってる。DNA鑑定で白骨死体の血液型がそれと合致したら確定だ。部屋で争ったため安本の部屋から摘出した血痕が複数だとしても安本の血液型は特定できる。
そうなれば、長野県警も安本と発表出来た。そうだな? ところが、白骨死体の血液型が安本のじゃなかった。だから、名前を出さなかった……」
「となれば、やはり複顔待ちですか?」
「友美の話だと、今度の捜査も吉原隊と中西警視のコンビが担当していたそうだ。今回は慎重に調べてから結論を出すだろうな」
「死体が安本以外だったら、妙な事件になりますね?」
赤城が沈黙して、コ-ヒ-のカップを口に運んだ。
「いらっしゃい」
雨が少し小降りになったところで友美が来た。
多田が猫なで声で挨拶を交わし、タオルで友美の肩の辺りの水滴を優しく拭く。
「あいつ。オレの時はタオルも出さんのに」
「先輩、妬くのはダメです。別れたら他人なんですから」
「うるさい!」
友美が近づいて微笑むと、達也の目尻がだらしなくゆるむ。
「赤城さんも、お呼び立てして済みませんね」
「いえ、声かけてくれれば、どこにでも行きます」
達也が不機嫌な声を出す。
「時間にルーズなのは直らないのか?」
「あら。あなたに頼まれたこと調べてて遅くなったのに……」
達也の横に座る。
「内緒の話なら遠慮しましょうか?」と、赤城がいう。
「いいのよ。この人の仕事のことだから」
「今回はどんな仕事です?」
「オレに指名で新人歌手の警護だ。六時に六本木に行く」
「いい仕事ですね。誰です、その歌手は?」
「えーと、森、なんとか若葉とかいったな」
「まさか、小森若葉じゃないでしょうね?」
「なんだ、赤城も知ってるのか?」
「彗星のごとく現れ、わずか半年の間にヒット曲連発、いま人気絶頂でベストチャート上位独占、バーレルレコードのドル箱歌手です。知らないとバカにされます」
「知らなくても仕事には影響ないさ」
「密着しすぎたら、ファンに石ぶつけられますよ」
「そんなバカな」
友美がクギを刺す。
「刃物もとびます」
「職業上私情は厳禁、映画とは違うんだぞ」
「そうです。間違っても先輩がモテるなんてあり得ません」
友美がホッとしたように頷き、ファイルを取り出す。
「一応、ここに藤井明弘の資料があります。小森若葉のは雑誌などに載っている程度しか分かりませんが……」

 

12  プロフィ-ル

達也がコピ-に目を通し声を出す。記憶しやすいからだ。
「……藤井明弘。昭和二十二年六月三日、三重県津市高野尾町に生まれる。三重産業大学経済学部卒で陸上自衛隊教官を経て赤坂画廊支配人、芸能音楽企画会社として藤井オフィスを設立。誠実な人柄で業界内の評判もよく実績あり、最近はバーレルレコードより新曲発売中の新人歌手小森若葉のマネージメントを受託中か?」
「この赤坂画廊というのはシャンソンのアシダ・ヒロシさんの経営で、この人は任されているだけですが……」
「小森若葉は……本名、沢井和歌子。二十三歳、長野県松本市出身で私立松本女子高校卒、クラブ歌手から転職して藤井オフィスに所属。バ-ベルレコ-ドからデビュ-……か」
「なんで先輩に指名ですか?」
赤城がうらやましそうに聞く。
「この藤井ってヤツとは、この前の総選挙で前橋秀子代議士のガ-ドを頼まれて富山に行ったときに知り合ってな。選挙参謀をやってた男だ。その縁で前橋代議士経由で指名してきたんだろう」
「なんで、警護が必要なのかしら?」
「この二日ほど、その歌手の事務所に、脅迫電話や妙な来客があるらしく、それで、警護を付けることにしたらしいんだ」
ウエイトレスが四人分のコ-ヒ-を運び、多田が友美だけにショ-トケ-キを運ぶ。もっとも、達也も赤城も甘い物は大嫌いだ。
地獄耳の多田が、赤城の隣に座って口をはさむ。
「歌手には億単位の金がかかるぞ。スポンサ-を知ってるか?」
多田が得意気に説明する。
「その藤井ってヤツがな、不動産担保に金をつくったことになってるが、本当は、前橋代議士が選挙資金の一部を高利で藤井オフィスに貸して、新人歌手の売り出しを手伝ったという噂だな」
「公的な資金は使ってないでしょうな?」
「政党補助金と政治献金の一部が流れた疑いで国税局が動いたようだが、若葉が稼いだので返済が進み、妙な噂は前橋代議士が握りつぶしたらしい……」
ポツリと友美が口を出す。
「死んだ安本も、大金を集めたんですがね……」
「三千万ぐらいは集めたのか?」と、達也。
「そんなケチな金額じゃないです。取材を続けて驚いたんですが、二億円は下らないようです」
「どうやって、そんな大金を作ったんだ?」
「取材で突き止めたんですが、生前の安本は、中央高原村の若者にギャンブルをやらせて手数料を稼ぎ、節税のために貰った生前贈与分の金を積んだ定期預金を崩させたり、高原野菜を売らせたり、父親の実印を押させた借用証や不動産の権利書などを金融業者に安く権利譲渡したりして現金に換えています。中には財産を相続してから借金を清算するという密約書までありました」
「悪いのは安本だけか?」
「それが……」
友美がチラと多田を見て口ごもる。
「なんだ、ワシがなにか悪いことでもしたかね?」
「いえ、甲府で喫茶店とゲ-ムセンタ-を開いている巡査部長上がりの酒上という男が、安本に絡んでるみたいで……」
「ワシは、ゲ-センなんかやっとらんぞ」
「村の有力者は、安本に渡った大金の回収を、謝礼五十パ-セントで酒上に頼んだそうですが、酒上は暴力団員も同じですから、たとえ大金が入っても村には一円も戻らないと思います」
赤城が続ける。
「酒上ってヤツは、巡査部長時代に交通違反者からの収賄常習がバレて、依願退職になったワルで飯田連合の企業舎弟です。多分、安本はこの酒上と組んで、ゲ-ム機の使用料で荒稼ぎした上に、若者達に賭け麻雀などのゲ-ムをやらせて掛け金の一部を巻き上げていたんでしょう」
「その金は取り戻せるのか?」と、達也。
「ギャンブルで動いた金額の証書や約手の大半は、若者の手元にあって回収可能ですが、現金化された証書や約手の他にゲ-ム機とテラ銭に吸い上げられた現金は戻りません。不当なゲ-ム機の使用料で巨利を得たゲ-ムセンタ-経営の酒上は、正当な事業収入だから申告漏れも修正すれば文句はない、と開き直って得た金の返済を拒
否してるそうです。あとは安本の集めた約二億円ですね」
多田も首を傾げる。
「二億円か。こんな甘い話を暴力団が見逃すはずないな」
「中央高原村での取材で聞いたのですが、どうも、この金を狙った酒上の指示で、子分の赤垣というチンピラが安本のアパ-トに行ったらしいという噂が流れたそうです」
「そいつは、どこにいるんだ?」
「安本を殺して大金を奪って逃げた、という話になってます」
「そうか、赤垣が二億円か……ま、オレには関係ないがな」
たしかに大金となると達也には関係ない。赤城が友美に聞く。
「白骨死体が、身長も体型も安本に似てるし、時計などの所持品や着衣も安本のだろ、なのに長野県警からは、複顔が完成するまで警視庁は動かないようにとの要請が出てるんです。
これは、白骨が安本じゃない可能性があるからでしょ? この安本のこともありますが、長野県警が大金の行方を追っているとも考えられますね。これを没収できれば、かなりのウラ資金が出来ますから……これは冗談です。それと、村の長老がひそかに集まって、暴力団を雇っても金を取り戻すという決議をしたそうです」
達也が友美を見る。
「暴力団にか? そんなの雇ったら骨までしゃぶられるぞ」
「なにしろ一円でも大切にする村で、財産をめぐって親と子が敵対関係にあって断絶状態、家庭内暴力も日常茶飯事だそうです。まるで金が命の村ですから、暴力団ぐらい恐れませんよ」
「損はしないのか?」
「成功報酬ですから損はしません。なにしろ畑の脇に転がっている屑キャベツを観光客が『もったいない』っていったら、吹っとんで来て五十円で売りつけたオヤジが億万長者だったりする村ですからね。安本は死んでも恨まれてますよ」
「それで、どこの暴力団に依頼したんだ?」
「それがまた、村に接触を深めた甲府の酒上に頼んだようです」
男たちが顔を見合せ、達也がため息をつく。
「これじゃ、強盗に集金を頼むようなものだな」
全員が頷いた。

 

13  小森若葉

千代田線赤坂駅西口の階段を上がったところに三階建ての小さなビルがあり、その二階に「赤坂画廊」がある。ここには、紫綬褒章も受けた有名シャンソン歌手アシダ・ヒロシの作品が展示されている。画壇でも著名なアシダ・ヒロシは群馬に「日本シャンソン館」を建設して数年になり「赤坂画廊」は藤井の城に変わっていた。
画廊を任された藤井は、独断で伊部にも壁面を貸ししている。
その藤井が時計を見て、パートの女性に早退をすすめた。午後四時三十分に、伊部から重要な連絡が入るのだ。
パートの娘が嬉しそうに階段を降りたのを見届けて、ドアーの外に「本日休業」の札を出し、鍵をロックして室内灯を消した。
これで不意の来客の心配はない。窓の厚手のカーテンを閉めると外からの光もあまり通さなくなる。
藤井は、タバコの煙を吐き、思考をめぐらせた。
(ここまで来たら引き下がれない……)
電話のベルが鳴る。相手を確かめてから会話に入る。
「伊部か。いま、どこからだ?」
「白馬ヶ池山荘からだが、ちょうど誰もいない」
「テレビのニュ-スで見たぞ。山荘のオヤジが喋ってたな」
「それより、酒上興業の男が、宿に来てオヤジを脅してたんだ」
「酒上興業……そっちにもか? なにを調べてる?」
「一年前、松原湖と清里で殺人と自殺で二人が死んだ妙な事件があったのを覚えてるか?」
「一人は車ごと沢に落ちた事件だろ?」
「実は、その二人らしいのが死ぬ数時間前に、この山荘の前を通ったのをオレが見てるんだ」
「なんで今頃、それを言いだす?」
「あの二人が、白骨死体を山で埋めたとみた警察の捜索があったが見つからなかった……」
「その二人を見たのは伊部だけか?」
「一階の山道に面した大部屋で絵を書いてて眠くなったんで、電気を消して横になったとき、雨の中の足音に気づき外を覗いたら、重そうな荷物を二人で担いで山道を行く。怪しいと思ったが、対岸の青芽荘に荷物を運ぶ作業員だと思って見逃してしまったんだ」
「ほかの客や、宿のオヤジは気づかなかったのか?」
「オヤジ一家は奥の部屋で寝てたし、あの晩の客は長期滞在のオレ達だけで、相棒の小山って写真家は二階で酔い潰れてた」
「なぜ、警察に届けなかった?」
「その翌日のニュ-スで、あの二人らしいのが仲間割れで死んだのを知って、関わり合いになるのが嫌でな…それに、死体を担いでたとは気づかなかったんだ」
「それと、酒上興業とどう結びつく?」
「そいつらは、死んだ安本って男の荷物を探したみたいだぞ。そういえば、藤井が扱ってる若葉は諏訪のクラブ時代、安本のバンドで歌ってたんだろ?」
「そんなの過去だ。それより、死体がなんで安本と分かった?」
「刑事が電話連絡でメモったのを見て、そこにいた女記者が声に出して読んじゃったから、否応なしに聞こえてな……」
「どんな女だ?」
「雑誌社の記者で、一年前に中央高原村の取材をしてたそうだが、あの二人の死亡事件で中断してたのを再開したらしい」
「名前は?」
「戸田友美といって、なかなかのシャンでな…宿で一緒になった県警の刑事が酔って喋ってたが、全国の警察で知らん者のいないスゴ腕の事件記者だそうだ」
「伊部は美人に弱いからな」
「ただ、刑事との世間話で聞いたんだが、その女には貧乏神のヒモがいて……警視庁を暴力沙汰でクビになったヤツらしい」
「荒っぽい貧乏神だな。で、なぜヤツらは安本を追うんだ?」
「どうも、その安本が何で稼いだかは知らんが、どうも、大金を隠したまま死んだらしい。それを酒上が探してるのかも知れん」
「実は、その酒上興業の連中が六本木のオフィスにも現れてな」
「そっちにも行ったのか?」
「管理人に若葉の様子などを聞いてったらしい」
「なんで若葉なんて新人に?」
「伊部が言う通り、安本のバンドにいたからかな? 若葉も気味わるがってるんで、今夜からボディガ-ドを雇うことにした」
「その酒上興業のヤツらに、若葉は会ったのか?」
「いや、若葉とマネ-ジャ-はイベントやテレビ・ラジオの出演でも忙しいし、オレはこの画廊にいるケ-スが多いから六本木の事務所はいつも空なんだ。ヤツらは管理人を金で買収して、若葉のスケジュ-ル表を持ってったそうだ」
伊部が話題を変えた。
「藤井には関係ないが、警察で白骨死体の顔を復元するらしい」
「復元だと! いつ知った?」
「死体を発掘した夜、鑑識と刑事のボスが話し合ってたんだ」
藤井が沈黙した。
「どうしたんだ、急に黙って……」
「聞いてよかった」
「なにを? お前には関係のない話だろうが?」
「そうでもないさ。若葉が歌手で成功したのを知った安本が何らかの接触を図るかも知れんが、死んでればその心配もないからな。いまは、生前の顔写真さえあれば頭蓋骨に合わせるス-パ-インポ-ズ法で再生できるんだ。仮に、写真がなくても頭蓋骨に粘土を用いて簡単に復元できる時代なんだ。ところで、何日ぐらいかかるって言ってた?」
「現場では十日とか言ってたから、あと五日ぐらいだな」
「五日か……」
「なんだ、まずいことでもあるのか?」
「いや、なんでもない」
藤井が時計を見た。
「いかん。六時にボディガ-ドと会う。ところで伊部……」
「なんだ、改まって?」
「頼みがある。謝礼は払うから北海道に行ってくれんか?」
「なんで急に北海道なんだ?」
「訳はあとで話すが、尋ね人と別荘探しってとこだ……」
「まあいい、事情は聞かん。オレも北海道は好きだからな」
電話を切ると、藤井はタバコをくゆらして闇の中で壁の絵を見つめた。暗い部屋の中に、パステル調のアシダ・ヒロシ画伯の花の絵だけがかすかに明るく浮かんでいる。二科展にも入選しているモネの雰囲気をもつ格調の高い名品だった。
藤井の指が闇の中で受話器のナンバーをプッシュした。
藤井は、選挙がある度に前厚生大臣前橋秀子の地盤である富山県まで出張して選挙参謀の裏方なども手伝っている。
藤井と前橋秀子とは、彼女が大学講師から女優業に入った頃に、テレビ関係の仕事の打ち合わせで会っている。
前橋秀子は女優時代に数々の賞をとり映画監督も体験したが、夫の浮気問題で屈辱的な争いの末に離婚し、最愛の一人娘さえも夫に奪われている。しかし、孤独にも耐え血を吐く思いで働き、幾度かの難病も克服して、やがて、山手線沿線内に地下一階地上三階の家も建てた。だが、望郷への思いも断ち切れず故郷の富山にも事務所兼用の私宅を購入して、一年の半分を富山で暮らすという生活になじみ、故郷の人々の圧倒的な支援を得て衆議員選挙に打って出て無党派でトップ当選、いまは政界のマドンナ的な存在である。
元教員でもある前橋秀子の弱者に優しい人間観察と温かな眼差し、悪を許さぬ鋭い発言には重みがある。いま、彼女は彼女なりの信念をもって弱者を救うことに生き甲斐を見つけて、世直しに命を賭けていた。弱者に優しい藤井とは共通点もある。
その前橋秀子の議院会館の事務所に電話をかけると、男性秘書が出て、前橋女史は議院宿舎にいるという。電話を掛けなおすと、女史の姪で第一秘書の横川恵美が電話に出た。相手が藤井と知ると応対の口調がくだける。お互いに気楽に話しあえる仲なのだ。
「先生は今、接客中ですけど、どうします?」
「どうせ、くだらん陳情だろう。声だけ掛けてみてくれ」
「じゃあ、ちょっと待って」
電話口の向こうで話し声がして前橋女史が出た。
「富山のJAの陳情で少し参ってたの。コ-ヒ-でも飲む?」
「六本木で六時に例の佐賀君と会います。それまでどうです?」
「いいわ。忙中閑ありよ。十五分後に紫夢で……」
女史は、年齢を感じさせない女優の声で場所を告げた。
画廊を出た藤井が、車の交通量の多い上りの本氷川坂を軽喫茶の「紫夢」に向かって急いだ。

 

14  回想

前橋秀子代議士の学生時代からの友人に、長野県駒ヶ根市の駒ヶ根病院で院長をしている堀井勝子という女傑がいる。千葉の大学病院で副院長を経て、請われての就任だった。
藤井は一年前に、前橋秀子からその堀井院長を紹介された。
「入院している娘の中で歌の好きな娘が二人いて、諏訪のクラブのショ-タイムに週末の金・土の夜だけ歌わせていたら、その二人が本格的にプロの歌手になりたいと言ってるんです。その歌唱力と将来性を見てほしいんですが……」
と、堀井勝子院長からの依頼で、沢井和歌子と中条留美という二人の写真と試聴用カセットが送られて来た。二人とも歌もまずまずだし、百六十センチ前後で四十五キロから五十キロぐらいに見えてプロポ-ションもよく、髪形や服装を揃えればペアで売り出しても絵になる、と藤井は思った。
前橋女史の話だと、精神科に入院していたが軽症だし非常に性格のいい娘たちらしい。前橋女史は、二人を売り出すための資金は堀井院長が充分に用意するとも付け加えられている。
二人とも、高校時代にコ-ラスの県代表で全国大会に出ていて最優秀歌唱賞に輝いたこともあるという。入院中の二人は、毎日の休憩時間に娯楽室で、音楽好きのナ-スがひくエレクト-ンに合わせて歌うのを日課にしていて、その声が院内に響くと、重症の患者さえ起き上がって耳を傾け、涙をこぼすという。
この二人の共通点は、家庭的に不遇ということだった。
沢井和歌子の父は事故死、実母は松本で病床にある。
中条留美の家庭はさらに悲惨で、四年前に母と妹を火事で失い、アル中の父は親戚預けで座敷牢まがいの暮らしだという。
ふと藤井は、三重の実家の近くにいて、小学生のときに松本の親類の家に養女に出た和歌子という名の娘を思い出し、母に電話をして聞いてみると、やはり、その娘に間違いなかった。生家もまた不遇ですでに実父は病死、やはり母は病弱だという。
歌の好きな娘だった。できれば夢を叶えてやりたい。
藤井は、この偶然の巡り合わせに運命的なものを感じていた。
ペアで歌った六曲入りのカセットを、知人の音楽ディレクタ-や作曲家など数人で聞いてみたら、これが抜群の歌唱力。声の質も違和感がなく、誰もがグラスに手も伸ばせずに真剣に聞いた。
「いいねえ、魂を揺さぶられるハ-モニ-だな。もうこのままデビュ-させれば充分に勝負できるよ」
これが、評論家を標榜する専門家数人の平均的評価だった。
カセットに添えられた経歴書には病歴は記載されていない。気になった藤井は、電話で堀井院長に二人の病歴を聞いた。
「患者のプライバシ-は守秘義務がありますのでどちらかは言えませんが、沢井和歌子と中条留美は、それぞれ精神的な面は軽症ですが肝臓疾患と狭心症です。二人とも今は快方に向かっていますから大丈夫、心配ありません」
藤井は耳を疑った。二人とも不治の病いなのだ。
「無理な話です。歌唱力はともかく、歌手になんて体力と根性が並外れて頑健でなかったら続きません」
「分かってます。でも、あの二人には、生きている間に夢を叶えてあげたいんです。資金は二億円を目標に用意しました。ぜひ、歌手にしてください。お願いします」
堀井院長の決意に藤井が折れた。藤井の脳裏には小学生低学年で養女に出された和歌子の面影はすでにない。ただ、藤井の頭をよぎる想像力での画面は、歌の好きな幼い娘が泣きながら養女に出されて行くときの悲しい別れのシ-ンだった。和歌子もまた藤井を記憶している様子もないが、それでも、その奇縁を天が与えた必然のように思い込ませて藤井を酔わせ、この娘達のために一肌脱ごうとする気にさせたのかも知れない。
それからの藤井は、音楽会社まわりに明け暮れた。
そんなある日、ほぼ一年前の九月中旬だったか、堀井院長から藤井に電話が入った。病気が再発して、中条留美という娘が東京のセイロカ病院で急逝した、との訃報だった。
前後して、前橋代議士秘書の横川恵美からも連絡が入った。
「堀井先生からも電話が入ったでしょ。あのペアでの歌手売り出しの話は、お一人がお亡くなりになったので、残った沢井和歌子にだけでも、どうしても夢を叶えて上げたいそうなのね。資金は、堀井院長とうちの先生が用意した二億円をそのままお渡しします。
ただし、堀井院長も医療法人だし、うちの事務所も公金の入った事務所の選挙資金を流用したのがバレたら大変な騒ぎになるので、藤井さんが工面したことにしてくださいね。成功したら利子は年一割、失敗したら元金も捨てたと思ってあきらめます。大至急、心当たりを当たって、可能か不可能か連絡をください。すべて私が窓口になりますから……」
それからの沢井和歌子は、都内港区に住む作詩・作曲家の山中慎平に通い弟子として入門、歌手への道を歩みはじめた。やがて、最終トレ-ニング期間も無事に終わった。デビュ-曲も用意され、いよいよ芸能界に羽ばたく日が来た。
藤井はまず、デビュ-曲のデモテ-プに山中慎平の推薦文を用意して音楽出版会社歩きを始めた。
二億の資金の用意があると聞いて、その持参金目当てで飛びついてくるレコ-ド会社は何社もあったが、結局、持参金と同額の投資をすると申し出てきた放送日本系列のレ-ベルレコ-ド社に身柄を預けることになった。
総予算が四億円だと、シングルCDではなくデビュ-からいきなりアルバムを制作・発売することになり、企画から伝通広告社が参加しマスメディアに乗せて、宣伝も思い切って打てる。
この後、何回かの意見や情報の交換があって、芸名は前橋女史の推す小森若葉に決定し、選曲には藤井も参加することになった。
藤井は、和歌子の実母と養母それぞれ会って、全権一任の委譲を受けたかったが、若葉から必要ないという申し入れがあり、それは後日にすることにして彼女はデビュ-した。
あれから一年半、いま小森若葉なしでは芸能界は語れない。
いま小森若葉は絶好調で売れに売れている。
宇宙の果てから流星の如く現れたかのようにデビュ-した新人歌手・小森若葉は会社が用意した企画・作詩・作曲の人脈やスタッフに恵まれたこともあるが、彼女の歌は魂をゆさんぶり怒りや悲しみを増幅し、愛への渇望、生きるための執着、死への恐怖をさえ感じさせ、その哀愁に満ちたハスキ-な声は、全身から溢れ出る喜怒哀楽…人間のもつの弱さ脆さ、人生の哀感を表現して聴く人の心に滲みてゆく。
若葉の歌を聴き、生きるも死ぬも同じと悟って、ガス自殺を思い止まった若い女性の手記が週刊誌に載るに及んで、マスコミは異常なまでの執念で彼女の特集を組もうとした。
しかし、不治の病いをもつハンディを克服して病院からデビュ-したという以外には確たるエピソ-ドすらつかめない。
幼い時に養女に出され、建設技師だった養父の仕事の関係で少女時代から住居を点々と移り住み、かつての同級生や友人にも忘れられ、やがて養父は仕事の無理がたたって病死、養母はいま病床にある。数少ない親族とも疎遠な状態で、合唱団や音楽関係の仲間からの証言もきわめて冷めたものだった。
結局、親しみと愛情をこめて若葉を語れるのは、若葉が家替わりに長期療養を続けた駒ヶ根病院院長の堀井勝子と病院の診療仲間しかいなかった。その堀井院長も多くを語らない。これといった美談もないから雑誌も特集を組みづらい。彼女は実力で勝負した。
若葉はいま、月の半分はスタジオに入ってレコ-ディングに打ち込み新曲のアルバムは、オリコンの上位を独占し、発売前からの予約が殺到して一枚のアルバムが数百万枚単位で売れて行く。すでに、十曲以上の新曲を収めたCDが十数枚も市販されていた。
テレビ出演を避けて、ラジオとライブだけで勝負したプロダクション・制作会社の思惑は当たった。
若葉の音楽活動によるト-タル的な関連収入の試算が、広告会社の内部資料に出た。それによると末端売上の総額は、アルバムだけでも三百億円を超えている。
バ-レルレコ-ドは、手狭になった新宿の本社家屋を売却、麹町に新ビル建設の構想を発表していた。
出来高契約の藤井オフィスにも、それに見合った収益が入る。
藤井は坂を歩きながら、今にも降りだしそうな空を見た。
続く